※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)
(11)万葉集は作者のわからない歌(無名歌)がほぼ半数だ!貴族だけでなく、より広い階層の人々が歌の作者であり享受者であった!
K 万葉集は作者のわからない歌(無名歌)をほぼ半数抱えている。当時はみんなが歌を詠む時代だった。近代文学に於けるような作家は存在しない。これは奈良・平安時代に共通だ。しかし平安和歌が貴族の文芸だったのに対し、万葉にあっては、より広い階層の人々が歌の作者であり享受者であった。(230-231頁)
K-2 民衆とか庶民とは、貴族でない人々のことだ。都会の庶民の歌に次のようなものがある。
「西の市に ただ独り出でて 眼並べず 買ひにし絹の 商(アキ)じこりかも」(巻7、1264)
見比べもしないで買った高価な絹が買いそこないだった。(※「しこり」は、動詞「しこる」の名詞化で、「しそこなう」意。)市は男女の出会いの場でもある。「絹のようだと誤解してほれ込んだ女が失敗だった」という戯れ歌だ。誰もがつぶやきそうな愚痴。(ただし絹が買えるから、かなり裕福な人間!)(232頁)
K-3 万葉集の無名歌の多くは恋の歌だ。
「うち日さす 宮道(ミヤヂ)を人は 満ち行けど わが思ふ君は ただ一人のみ」(巻11、2382)
宮廷へ行く道は人に満ちている。だが「わが思う君」はただ一人だ。なお「わが思う君」は馬上の高級官人でなく、おそらく下級官人だろう。(※「うち日さす」は日の光が輝く意から「宮」「都」の枕詞。)(232-233頁)
K-3-2 奈良近郊に住む女性は、花に寄せて恋人が来るのを待ち望む。
「わが屋前(ヤド)の 萩咲きにけり 散らぬ間に はや来て見べし 平城(ナラ)の里人(サトビト)」(巻10、2287)自分の家の庭の萩の花が咲いた。花の散らないうちに、早く來て見て下さい。奈良の里に住む恋人よ。(234頁)
(11)-2 「東歌」(アズマウタ):集団の歌、誰もが共通に歌う歌!(234-239頁)
K-4 万葉集は巻十四という1巻を「東歌」にあてている。東海道ぞいの諸国(遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸)と東山道ぞいの諸国(信濃・上野・下野・陸奥ミチノク)からの230首だ。「東歌」は決定的に集団の歌、誰もが共通に歌う歌だ。都会の歌のような陰翳をもたない。(234-235頁)
K-4-2 「葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を」(巻14、3384)
“本当だろうか、「葛飾の真間の手児奈と私とがいい仲だ」と噂しているという。真間の手児奈と。”ここでいう「私」とは特定の人間でない。皆がそう願っているのだから、この歌をうたう時はそれぞれが「私」なのだし、手児奈のほうも特定の人間でない。いつの時代にも何かと噂にのぼる美女を見つけては、男たちが話題にし、こういう歌をうたって他愛なく喜んだのだ。(235-236頁)
K-4-3 東歌はあけすけに明るい。「笑い」がひそんでいる。
「信濃路は 今の墾道(ハリミチ) 刈株(カリバネ)に 足踏ましなむ 履(クツ)はけわが背」(巻14、3399)
歌で女が言う。「信濃路は新しく開いた道だから切り株がまだ残っている。だから足で踏まないように履をはきなさいあなた。」だがそう言われて履のはける庶民は、そうざらにいない。女たちがそう言い、男たちが「そう言われたって無理だ」と言って笑い合う。そんな雰囲気を楽しんだ歌だ。笑い合い、連帯を確かめ合う。(和銅6年、713年に木曽路を開いた。)(238-239頁)
(11)-3 防人(サキモリ)の歌:防人たちは「部領使」(コトリヅカイ)に連れられ隊伍を組んで都へ向かった!(239-241頁)
K-5 奈良時代、東国から防人と呼ばれる兵が徴集された。万葉集(巻20)には、755年に集められた防人の歌84首が載る。彼らは各国から上京し、さらに難波から船で北九州に向かった。毎回、各国200-300人、総員2000-3000人が集められた。防人は東国の農民だから、防人の歌の内容は「東歌」(アズマウタ)とひとしい。(239頁)
K-5-2 防人たちは「部領使」(コトリヅカイ)と呼ばれる引率者に連れられて隊伍を組んで都へ向かう。ある下野国の兵(物部真島マシマ)が東山道で歌ったのが次の一首だ。
「松の木(ケ)の 並(ナ)みたる見れば 家人(イハビト)の われを見送ると 立たりしもころ」(240-241頁)
松の木が並んでいるのを見ると、家の者たちが立ち並んで見送っているみたいだ。(「もころ」は如(ゴトシ)の意。)「あれは女房だ、こっちは子供だな」などと、がやがや隊列が進んでゆく。生還は期しがたいとしても葬列のごとくではなかったろう。(240-241頁)
(11)-4 『万葉集』の無名歌は、『古今集』の平安初期の無名歌へと引き継がれた!(242-244頁)
K-6 万葉集の貴族の歌は759年(天平宝字3年)大伴家持の歌で終わる。だが万葉集の無名歌(民衆歌)は、万葉集が成立するまで、収録された。万葉集が現存するものとほぼ等しい形になったのは、780年代だ。かくて万葉集の無名歌は、次の歌集『古今集』の無名歌と連続する。(242頁)
K-6-2 古今集の歌は、平安初期の多くの無名歌から、小野小町・在原業平ら六歌仙の創作歌を通って芸術的洗練を加えて行った。万葉集の無名歌は、古今集の平安初期の無名歌へと引き継がれた。(242頁)
K-6-3 古今集に、万葉集と同じように大和の地名を用いた無名歌がある。
「吉野川 岩きりとほし 往く水の 音には立てじ 恋ひは死ぬとも」
(吉野川の岩を切り開いて流れる水が烈しい音を立てる。だが私は自ら音(言葉)に出し騒ぐことはしない。恋焦がれて死ぬことになっても。」)(243頁)
(11)万葉集は作者のわからない歌(無名歌)がほぼ半数だ!貴族だけでなく、より広い階層の人々が歌の作者であり享受者であった!
K 万葉集は作者のわからない歌(無名歌)をほぼ半数抱えている。当時はみんなが歌を詠む時代だった。近代文学に於けるような作家は存在しない。これは奈良・平安時代に共通だ。しかし平安和歌が貴族の文芸だったのに対し、万葉にあっては、より広い階層の人々が歌の作者であり享受者であった。(230-231頁)
K-2 民衆とか庶民とは、貴族でない人々のことだ。都会の庶民の歌に次のようなものがある。
「西の市に ただ独り出でて 眼並べず 買ひにし絹の 商(アキ)じこりかも」(巻7、1264)
見比べもしないで買った高価な絹が買いそこないだった。(※「しこり」は、動詞「しこる」の名詞化で、「しそこなう」意。)市は男女の出会いの場でもある。「絹のようだと誤解してほれ込んだ女が失敗だった」という戯れ歌だ。誰もがつぶやきそうな愚痴。(ただし絹が買えるから、かなり裕福な人間!)(232頁)
K-3 万葉集の無名歌の多くは恋の歌だ。
「うち日さす 宮道(ミヤヂ)を人は 満ち行けど わが思ふ君は ただ一人のみ」(巻11、2382)
宮廷へ行く道は人に満ちている。だが「わが思う君」はただ一人だ。なお「わが思う君」は馬上の高級官人でなく、おそらく下級官人だろう。(※「うち日さす」は日の光が輝く意から「宮」「都」の枕詞。)(232-233頁)
K-3-2 奈良近郊に住む女性は、花に寄せて恋人が来るのを待ち望む。
「わが屋前(ヤド)の 萩咲きにけり 散らぬ間に はや来て見べし 平城(ナラ)の里人(サトビト)」(巻10、2287)自分の家の庭の萩の花が咲いた。花の散らないうちに、早く來て見て下さい。奈良の里に住む恋人よ。(234頁)
(11)-2 「東歌」(アズマウタ):集団の歌、誰もが共通に歌う歌!(234-239頁)
K-4 万葉集は巻十四という1巻を「東歌」にあてている。東海道ぞいの諸国(遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸)と東山道ぞいの諸国(信濃・上野・下野・陸奥ミチノク)からの230首だ。「東歌」は決定的に集団の歌、誰もが共通に歌う歌だ。都会の歌のような陰翳をもたない。(234-235頁)
K-4-2 「葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を」(巻14、3384)
“本当だろうか、「葛飾の真間の手児奈と私とがいい仲だ」と噂しているという。真間の手児奈と。”ここでいう「私」とは特定の人間でない。皆がそう願っているのだから、この歌をうたう時はそれぞれが「私」なのだし、手児奈のほうも特定の人間でない。いつの時代にも何かと噂にのぼる美女を見つけては、男たちが話題にし、こういう歌をうたって他愛なく喜んだのだ。(235-236頁)
K-4-3 東歌はあけすけに明るい。「笑い」がひそんでいる。
「信濃路は 今の墾道(ハリミチ) 刈株(カリバネ)に 足踏ましなむ 履(クツ)はけわが背」(巻14、3399)
歌で女が言う。「信濃路は新しく開いた道だから切り株がまだ残っている。だから足で踏まないように履をはきなさいあなた。」だがそう言われて履のはける庶民は、そうざらにいない。女たちがそう言い、男たちが「そう言われたって無理だ」と言って笑い合う。そんな雰囲気を楽しんだ歌だ。笑い合い、連帯を確かめ合う。(和銅6年、713年に木曽路を開いた。)(238-239頁)
(11)-3 防人(サキモリ)の歌:防人たちは「部領使」(コトリヅカイ)に連れられ隊伍を組んで都へ向かった!(239-241頁)
K-5 奈良時代、東国から防人と呼ばれる兵が徴集された。万葉集(巻20)には、755年に集められた防人の歌84首が載る。彼らは各国から上京し、さらに難波から船で北九州に向かった。毎回、各国200-300人、総員2000-3000人が集められた。防人は東国の農民だから、防人の歌の内容は「東歌」(アズマウタ)とひとしい。(239頁)
K-5-2 防人たちは「部領使」(コトリヅカイ)と呼ばれる引率者に連れられて隊伍を組んで都へ向かう。ある下野国の兵(物部真島マシマ)が東山道で歌ったのが次の一首だ。
「松の木(ケ)の 並(ナ)みたる見れば 家人(イハビト)の われを見送ると 立たりしもころ」(240-241頁)
松の木が並んでいるのを見ると、家の者たちが立ち並んで見送っているみたいだ。(「もころ」は如(ゴトシ)の意。)「あれは女房だ、こっちは子供だな」などと、がやがや隊列が進んでゆく。生還は期しがたいとしても葬列のごとくではなかったろう。(240-241頁)
(11)-4 『万葉集』の無名歌は、『古今集』の平安初期の無名歌へと引き継がれた!(242-244頁)
K-6 万葉集の貴族の歌は759年(天平宝字3年)大伴家持の歌で終わる。だが万葉集の無名歌(民衆歌)は、万葉集が成立するまで、収録された。万葉集が現存するものとほぼ等しい形になったのは、780年代だ。かくて万葉集の無名歌は、次の歌集『古今集』の無名歌と連続する。(242頁)
K-6-2 古今集の歌は、平安初期の多くの無名歌から、小野小町・在原業平ら六歌仙の創作歌を通って芸術的洗練を加えて行った。万葉集の無名歌は、古今集の平安初期の無名歌へと引き継がれた。(242頁)
K-6-3 古今集に、万葉集と同じように大和の地名を用いた無名歌がある。
「吉野川 岩きりとほし 往く水の 音には立てじ 恋ひは死ぬとも」
(吉野川の岩を切り開いて流れる水が烈しい音を立てる。だが私は自ら音(言葉)に出し騒ぐことはしない。恋焦がれて死ぬことになっても。」)(243頁)