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藤田正勝『西田幾多郎』(その8):「純粋経験」の「論理化」の糸口として、アリストテレスの「基体」(個物)概念に注目するが、西田はこれに《根本的な修正》を加えるor《逆転》させる!

2021-08-24 19:40:19 | 日記
※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)

(4)-5 西田はアリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えるor《逆転》させる!「基体」(個物)は「限りなき述語の統一」すなわち「判断と判断とを統一するもの」であり「判断以上のもの」だ!それは「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」であり「直覚的」だ!《個物》(「基体」)はそのような「直覚」を「概念化」することによってはじめて考えられる!(91-93頁) 
D-7 西田は、「純粋経験」という思想の「論理化」の糸口として、アリストテレスの「基体」(個物)の概念に注目した。しかし西田はこのアリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えるor《逆転》させる。(93頁)
D-7-2 西田は「基体」(個物)をめぐって次のように述べる。(論文「内部知覚について」1924年。)(a)「何処までも主語となって述語とはならない基体」(個物)は「限りなき述語の統一」すなわち「無限なる判断を統一するもの」だ。(b)このように「判断と判断とを統一するもの」は「判断以上のもの」だ。(b)-2 それは「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」だ。(c)かかるものは「直覚的」である。(91-92頁)
D-7-2-2  西田は、《これ》と指し示される《個物》(「基体」)の根底につねに「非合理的なるものの直覚」があると主張する。つまり「判断」の根底にはつねに《「判断」がそこへと到達することのできないもの》がある。《個物》(「基体」)は、そのような「直覚」を「概念化」することによってはじめて考えられる。(92頁)

(4)-5-2 「純粋経験」は「論理化」すれば、「超越論的述語面」として捉えることができる!「超越論的述語面」とは、「限りなき述語の統一」であり《すべての判断の基礎となる超越的なもの》で「直覚的」だ! (92-93頁)
D-7-3 アリストテレスは「基体」(個物)について、「判断の主語となるが、しかし決して述語にはならないもの」という定義を与えた。(91頁)
D-7-3-2  ところが西田は《個物》(「基体」)を「限りなき述語の統一」、「無限なる判断を統一するもの」と捉える。(92頁)
D-7-3-3 言い換えれば、西田は、《個物》(「基体」)を(アリストテレスとは全く逆に)「つねに述語となって主語とならないもの」と捉えたのだ。西田の《個物》(「基体」)の概念は、アリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えたものor《逆転》させたものである。(93頁)
D-7-4  アリストテレスの「基体」(個物)概念の《根本的な修正》or《逆転》を西田にもたらしたのは、判断の包摂構造への注目である。(92頁)
D-7-4-2 例えば「AはBである」という判断は、AがBに包まれることを意味する。判断は、主語と述語、あるいは特殊と一般の包摂関係である。(主語は述語に包摂される。特殊は一般に包摂される。)(92頁)
D-7-4-3  この包摂関係を述語の方向にどこまでも推し進めて行けば、最後に《無限大の述語》すなわち「超越論的述語面」(※純粋経験)へと至る。(32頁)
D-7-4-4 この「超越論的述語面」こそ「限りなき述語の統一」であり、《すべての判断の基礎となる超越的なもの》(※純粋経験)である。このように西田は考えるに至った。(93頁)

《感想1》「純粋経験」は「論理化」すれば、すなわち「超越論的述語面」として捉えることができる。「超越論的述語面」とは、「限りなき述語の統一」であり《すべての判断の基礎となる超越的なもの》で「直覚的」だ。
《感想2》「純粋経験」は、「事実其の儘」あるいは「真の直覚」である。(56頁)つまり「純粋経験」は(外的)実在であって同時に(内的)意識である。(※ナントイウコトダ!)
《感想3》「純粋経験」は「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」(91-92頁)であり、「純粋経験」は「直覚」を無限に「概念化」すること(無限大の述語)によってはじめて考えられる!

《参考》「純粋経験」は「判断」以前である!事実には主語も客語(述語)もない!(53-57頁) 
(a)「純粋経験」は「判断」以前である。「此の色、此の音は何であるという判断すら加わらない前」である。(53頁)
(b)「判断」は「命題」の形で言い表される。「判断」は、経験を「言葉」で言い表すことだ。(55-56頁)
(c) 《「判断」する》=《「命題」の形で言い表す》=《「言葉」で言い表す》ことは、経験をある断面で切り、その断面で、経験全体を代表させることだ。言葉には、事柄の抽象化が伴う。(56頁)
(d)「純粋経験」は、「事実其の儘」あるいは「真の直覚」である。「風がざわざわいえば、ざわざわが直覚の事実である。《風が》ということもない。事実には主語も客語もない。」(西田)(56頁)
(d)-2 生起している出来事の主体を確定し(主語)、その主体の動き・変化として出来事を説明する(述語)は、出来事の一部を取り出し固定化する。(57頁)
(d)-3 「実在の真景は唯我々が之を自得すべきものであって、之を反省し分析し言語に表しうべきものではなかろう」。(西田)(57頁)
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藤田正勝『西田幾多郎』(その7):西田は、「純粋経験」という思想の「論理化」の糸口として、アリストテレスの「基体」(個物)の概念に注目した!

2021-08-24 14:37:05 | 日記
※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)

(4)-3「純粋意識」の立場(『善の研究』1911年)から「場所」(Platz)の立場への転換(1926年)!(86-89頁)
D-5 西田は「純粋経験の立場は・・・・『働くものから見るものへ』(1927年)の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して『場所』の考えに至った。そこに私は私の考えを論理化する端緒を得た」と述べる。(87頁)
D-5-2 この場合、「純粋経験」の思想が《彗星の如く消え去っていった》わけでない。
D-5-2-2 《根本の立場》に立ち戻り、《直接なもの》、《もっとも具体的なもの》から出発しようという西田の姿勢は生涯変わらなかった。(88頁)
D-5-3 『働くものから見るものへ』(1927年)の最初の論文「直接に与えられるもの」において西田は言う。「《真に与えられた直接経験》とか、《純粋経験》とかいうべきものは、無限の内容を含んだものと考えられねばならぬ。我々がこの深底に入り込めば入り込む程、そこに《与えられた現実》があるのである。それは主観的に云えば《対象化することのできない自己》であり、客観的に云えば《反省しつくすことのできない直接の所与》である。そこに《主客合一の直観》、《純粋活動の意識》があり、《すべての知識の根源》がある。」(88-89頁)

(4)-3-2 西田は「純粋経験」という思想の「論理化」、つまり「心理主義」の克服を目指し、「場所」の思想に至った!「論理化」とは、直接的な《経験》(※純粋経験)と、《判断》(命題)の形で言い表される概念的な知識が、いかに関わるかを明らかにすることだ!(89-90頁)
D-5-4 西田の問題にしようとしたことは常に、「与えられた現実」、つまりかつて「純粋経験」と呼ばれたものである。これが「対象化することのできない自己」(「我」)、「反省しつくすことのできない直接の所与」として捉えなおされ、「場所」と呼ばれることになる。(89頁)
D-5-4-2 西田はたとえば「我とは・・・・一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」と言う。(89頁)
D-5-5 西田は『善の研究』(1911)以後の自らの思索の課題を「心理主義」の克服という点に見出していた。つまり西田は「純粋経験」という思想の「論理化」を目指し、「場所」の思想に至った。(90頁)
D-5-6 「論理化」とは、《われわれに直接に与えられている現実》(「純粋経験」)が、ただ単に《実在》であるだけでなく、同時に《われわれの知を成り立たせているもの》であることを明らかにすることだ。(90頁)
D-5-6-2  すなわち「論理化」とは、直接的な《経験》(※「純粋経験」)と、《判断》(命題)の形で言い表される概念的な知識が、いかに関わるかを明らかにすることだ。(90頁)

(4)-4 西田は、「純粋経験」という思想の「論理化」の糸口として、アリストテレスの「基体」(個物)の概念に注目した!(90-91頁)
D-6  西田にとって、「純粋経験」という思想の「論理化」の糸口になったのが、ギリシアの哲学、すなわちアリストテレスの「基体」(ヒュポケイメノン)(個物)の概念だった。(90頁)
D-6-2  アリストテレスは「実体」(真に存在するもの)を「本質」・「一般」(「種」)・「類」・「基体」の4つに分類する。「基体」が真の意味の実体であり「第一実体」だ。(他は「第二実体」。)
D-6-2-2 「基体」は「他のいかなる主語の述語ともならず、他のいかなる主語のうちにも存在しないもの、すなわち個物、たとえばこの人、この馬」と定義される。(アリストテレス『カテゴリー論』)。(90-91頁)

《参考1》アリストテレスは、『オルガノン』の第一書である『範疇論』(『カテゴリー論』)で、「実体」を、(ア)「第一実体」すなわち主語になる「個物」(※基体)と、(イ)「第二実体」すなわち述語になる「種」・「類」に、分ける。Cf.「イデア」こそ本質存在と考えた師プラトンとは逆に、アリストテレスは「個物」(※基体)こそ第一の実体と考えた。(参照:Wikipedia「ウーシア」)
《参考2》アリストテレス『形而上学』(第7巻)では、(ア)(主語になる)「第一実体」としての「個物」は「質料」(基体)と「形相」(本質)の「結合体」であり、真の実体は「形相」(本質)であると述べる。 また(イ)(述語になる)「第二実体」は「種」・「類」からなる「普遍」であるとする。(参照:Wikipedia「ウーシア」)

D-6-2-3 《これ》と指示しうる特定の「個物」がアリストテレスの言う「基体」だ。(91頁)
D-6-3  「基体」(個物)についての《判断の主語となるが、しかし決して述語にはならないもの》という定義に、西田は(「純粋経験」という思想の「論理化」の糸口として)注目する。(91頁)
D-6-3-2  要するに、西田は《反省しつくすことのできない直接の所与》(「純粋経験」)すなわち《リアリティ》(実在)と、《概念的知識》との関りを説明する鍵として、アリストテレスの「基体」(個物)の概念に注目した。(91頁)
《参考》「論理化」とは、《われわれに直接に与えられている現実》(「純粋経験」)がただ単に《実在》であるだけでなく、同時に《われわれの知を成り立たせているもの》であることを明らかにすることだ。(90頁)
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