※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)
(4)-5 西田はアリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えるor《逆転》させる!「基体」(個物)は「限りなき述語の統一」すなわち「判断と判断とを統一するもの」であり「判断以上のもの」だ!それは「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」であり「直覚的」だ!《個物》(「基体」)はそのような「直覚」を「概念化」することによってはじめて考えられる!(91-93頁)
D-7 西田は、「純粋経験」という思想の「論理化」の糸口として、アリストテレスの「基体」(個物)の概念に注目した。しかし西田はこのアリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えるor《逆転》させる。(93頁)
D-7-2 西田は「基体」(個物)をめぐって次のように述べる。(論文「内部知覚について」1924年。)(a)「何処までも主語となって述語とはならない基体」(個物)は「限りなき述語の統一」すなわち「無限なる判断を統一するもの」だ。(b)このように「判断と判断とを統一するもの」は「判断以上のもの」だ。(b)-2 それは「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」だ。(c)かかるものは「直覚的」である。(91-92頁)
D-7-2-2 西田は、《これ》と指し示される《個物》(「基体」)の根底につねに「非合理的なるものの直覚」があると主張する。つまり「判断」の根底にはつねに《「判断」がそこへと到達することのできないもの》がある。《個物》(「基体」)は、そのような「直覚」を「概念化」することによってはじめて考えられる。(92頁)
(4)-5-2 「純粋経験」は「論理化」すれば、「超越論的述語面」として捉えることができる!「超越論的述語面」とは、「限りなき述語の統一」であり《すべての判断の基礎となる超越的なもの》で「直覚的」だ! (92-93頁)
D-7-3 アリストテレスは「基体」(個物)について、「判断の主語となるが、しかし決して述語にはならないもの」という定義を与えた。(91頁)
D-7-3-2 ところが西田は《個物》(「基体」)を「限りなき述語の統一」、「無限なる判断を統一するもの」と捉える。(92頁)
D-7-3-3 言い換えれば、西田は、《個物》(「基体」)を(アリストテレスとは全く逆に)「つねに述語となって主語とならないもの」と捉えたのだ。西田の《個物》(「基体」)の概念は、アリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えたものor《逆転》させたものである。(93頁)
D-7-4 アリストテレスの「基体」(個物)概念の《根本的な修正》or《逆転》を西田にもたらしたのは、判断の包摂構造への注目である。(92頁)
D-7-4-2 例えば「AはBである」という判断は、AがBに包まれることを意味する。判断は、主語と述語、あるいは特殊と一般の包摂関係である。(主語は述語に包摂される。特殊は一般に包摂される。)(92頁)
D-7-4-3 この包摂関係を述語の方向にどこまでも推し進めて行けば、最後に《無限大の述語》すなわち「超越論的述語面」(※純粋経験)へと至る。(32頁)
D-7-4-4 この「超越論的述語面」こそ「限りなき述語の統一」であり、《すべての判断の基礎となる超越的なもの》(※純粋経験)である。このように西田は考えるに至った。(93頁)
《感想1》「純粋経験」は「論理化」すれば、すなわち「超越論的述語面」として捉えることができる。「超越論的述語面」とは、「限りなき述語の統一」であり《すべての判断の基礎となる超越的なもの》で「直覚的」だ。
《感想2》「純粋経験」は、「事実其の儘」あるいは「真の直覚」である。(56頁)つまり「純粋経験」は(外的)実在であって同時に(内的)意識である。(※ナントイウコトダ!)
《感想3》「純粋経験」は「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」(91-92頁)であり、「純粋経験」は「直覚」を無限に「概念化」すること(無限大の述語)によってはじめて考えられる!
《参考》「純粋経験」は「判断」以前である!事実には主語も客語(述語)もない!(53-57頁)
(a)「純粋経験」は「判断」以前である。「此の色、此の音は何であるという判断すら加わらない前」である。(53頁)
(b)「判断」は「命題」の形で言い表される。「判断」は、経験を「言葉」で言い表すことだ。(55-56頁)
(c) 《「判断」する》=《「命題」の形で言い表す》=《「言葉」で言い表す》ことは、経験をある断面で切り、その断面で、経験全体を代表させることだ。言葉には、事柄の抽象化が伴う。(56頁)
(d)「純粋経験」は、「事実其の儘」あるいは「真の直覚」である。「風がざわざわいえば、ざわざわが直覚の事実である。《風が》ということもない。事実には主語も客語もない。」(西田)(56頁)
(d)-2 生起している出来事の主体を確定し(主語)、その主体の動き・変化として出来事を説明する(述語)は、出来事の一部を取り出し固定化する。(57頁)
(d)-3 「実在の真景は唯我々が之を自得すべきものであって、之を反省し分析し言語に表しうべきものではなかろう」。(西田)(57頁)
(4)-5 西田はアリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えるor《逆転》させる!「基体」(個物)は「限りなき述語の統一」すなわち「判断と判断とを統一するもの」であり「判断以上のもの」だ!それは「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」であり「直覚的」だ!《個物》(「基体」)はそのような「直覚」を「概念化」することによってはじめて考えられる!(91-93頁)
D-7 西田は、「純粋経験」という思想の「論理化」の糸口として、アリストテレスの「基体」(個物)の概念に注目した。しかし西田はこのアリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えるor《逆転》させる。(93頁)
D-7-2 西田は「基体」(個物)をめぐって次のように述べる。(論文「内部知覚について」1924年。)(a)「何処までも主語となって述語とはならない基体」(個物)は「限りなき述語の統一」すなわち「無限なる判断を統一するもの」だ。(b)このように「判断と判断とを統一するもの」は「判断以上のもの」だ。(b)-2 それは「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」だ。(c)かかるものは「直覚的」である。(91-92頁)
D-7-2-2 西田は、《これ》と指し示される《個物》(「基体」)の根底につねに「非合理的なるものの直覚」があると主張する。つまり「判断」の根底にはつねに《「判断」がそこへと到達することのできないもの》がある。《個物》(「基体」)は、そのような「直覚」を「概念化」することによってはじめて考えられる。(92頁)
(4)-5-2 「純粋経験」は「論理化」すれば、「超越論的述語面」として捉えることができる!「超越論的述語面」とは、「限りなき述語の統一」であり《すべての判断の基礎となる超越的なもの》で「直覚的」だ! (92-93頁)
D-7-3 アリストテレスは「基体」(個物)について、「判断の主語となるが、しかし決して述語にはならないもの」という定義を与えた。(91頁)
D-7-3-2 ところが西田は《個物》(「基体」)を「限りなき述語の統一」、「無限なる判断を統一するもの」と捉える。(92頁)
D-7-3-3 言い換えれば、西田は、《個物》(「基体」)を(アリストテレスとは全く逆に)「つねに述語となって主語とならないもの」と捉えたのだ。西田の《個物》(「基体」)の概念は、アリストテレスの「基体」(個物)概念に《根本的な修正》を加えたものor《逆転》させたものである。(93頁)
D-7-4 アリストテレスの「基体」(個物)概念の《根本的な修正》or《逆転》を西田にもたらしたのは、判断の包摂構造への注目である。(92頁)
D-7-4-2 例えば「AはBである」という判断は、AがBに包まれることを意味する。判断は、主語と述語、あるいは特殊と一般の包摂関係である。(主語は述語に包摂される。特殊は一般に包摂される。)(92頁)
D-7-4-3 この包摂関係を述語の方向にどこまでも推し進めて行けば、最後に《無限大の述語》すなわち「超越論的述語面」(※純粋経験)へと至る。(32頁)
D-7-4-4 この「超越論的述語面」こそ「限りなき述語の統一」であり、《すべての判断の基礎となる超越的なもの》(※純粋経験)である。このように西田は考えるに至った。(93頁)
《感想1》「純粋経験」は「論理化」すれば、すなわち「超越論的述語面」として捉えることができる。「超越論的述語面」とは、「限りなき述語の統一」であり《すべての判断の基礎となる超越的なもの》で「直覚的」だ。
《感想2》「純粋経験」は、「事実其の儘」あるいは「真の直覚」である。(56頁)つまり「純粋経験」は(外的)実在であって同時に(内的)意識である。(※ナントイウコトダ!)
《感想3》「純粋経験」は「我々の判断作用が無限に之を志向するが、之に達することのできない対象」(91-92頁)であり、「純粋経験」は「直覚」を無限に「概念化」すること(無限大の述語)によってはじめて考えられる!
《参考》「純粋経験」は「判断」以前である!事実には主語も客語(述語)もない!(53-57頁)
(a)「純粋経験」は「判断」以前である。「此の色、此の音は何であるという判断すら加わらない前」である。(53頁)
(b)「判断」は「命題」の形で言い表される。「判断」は、経験を「言葉」で言い表すことだ。(55-56頁)
(c) 《「判断」する》=《「命題」の形で言い表す》=《「言葉」で言い表す》ことは、経験をある断面で切り、その断面で、経験全体を代表させることだ。言葉には、事柄の抽象化が伴う。(56頁)
(d)「純粋経験」は、「事実其の儘」あるいは「真の直覚」である。「風がざわざわいえば、ざわざわが直覚の事実である。《風が》ということもない。事実には主語も客語もない。」(西田)(56頁)
(d)-2 生起している出来事の主体を確定し(主語)、その主体の動き・変化として出来事を説明する(述語)は、出来事の一部を取り出し固定化する。(57頁)
(d)-3 「実在の真景は唯我々が之を自得すべきものであって、之を反省し分析し言語に表しうべきものではなかろう」。(西田)(57頁)