DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

いろはかるた「塵(チリ)も積もれば山となる」:価値あるものを少しずつでも、集めていけば、いつかついに山のようなよい結果を生む!

2018-08-04 17:57:25 | 日記
「塵(チリ)も積もれば山となる」
Even small things like dust come to a mountain when they tremendously gather and heap up.

《感想》
価値あるものを、倦(ウ)まず弛(タユ)まず、塵のように少しずつでも、集めていく。そうすれば、ついには山のように大きな結果を生む。否定的で悪い結果でなく、肯定的でよい結果だ。例えば、細かいお金も少しずつ貯めていけば、やがて大金となる。「千里の道も一歩から」だ。価値あるものを少しずつでも、集めていけば、いつかついに山のようなよい結果を生む。君の苦労は報われるだろう!
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『未来のミライ』(2018年)細田守監督:《過去の個人の体験(意識)》が、生命的連鎖を通じて、後の個人に伝わることは、ありえない!

2018-08-04 10:12:25 | 日記
(1)
父親は建築家。母親は出版社勤務。中流の豊かな家。飼い犬のユッコ。そして4歳の男児「くんちゃん」。そのくんちゃんに、妹「未来」が生れる。生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、くんちゃんはイライラし、嫉妬し、幼児返りする。ここからの回復は、くんちゃんが、「自分が兄であり、妹を守る立場だ」という規範を自分の内に取り込むことで解決される。
《感想1》
映画は、4歳の男児に妹が生まれた時の嫉妬と、そこからの心理的回復の過程を描く。

(2)
くんちゃんが妹への「嫉妬」に気づくのは、飼い犬のユッコ(王子)が教えたからだ。
《感想2》
4歳の男児に、「嫉妬」などという言葉が理解されることはない。映画は、4歳の男児でなく、例えば高校生以上のくんちゃんを想定している。

(3)
嫉妬から抜け出すためには、自分への信頼(自信)が必要だ。くんちゃんは自分が自転車に乗れるようになって、自分への信頼を獲得する。
《感想3》
映画は、ひいじいじが、自転車の乗り方を教えたと描くが、これは、くんちゃんの現実と無縁。全くの妄想的なな空想だ。4歳の男児くんちゃんは、ひいじいじと何の関係なく、自分の力で自転車に乗れるようになったのだ。

(4)
くんちゃんに手を焼く母親は、ひどくいらいらする。しかし他方で、「くんちゃんはわたしの宝」という気持ちが、彼女に常にある。この母親の気持ちがくんちゃんに伝わり、これも、くんちゃんが自分への信頼を回復する契機となったはずだ。
《感想4》
現実には、母子関係の破綻もありうるが、映画は、幸福な母子関係を描く。

(5)
映画が前提する世界観が、ふたつある。
①個人の存在は、《過去から連綿と続く生命の連鎖》の結果である。(※これは事実としてその通りで、生命的な因果の連鎖の結果として、個人は存在する。)
②映画はさらに、《過去の個人の体験(意識)》が、語られなくとも、生命的連鎖を通じて、今の個人に伝わるとの立場をとる。(※これは、事実に反する。DNAレベルでの複製はあるが、《過去の個人の体験(意識)》が、生命的連鎖を通じて、後の個人に伝わることは、ありえない。)
《感想5》
過去の個人の体験(意識)に関して何らかの情報伝達(あるいは教育・学習)がなされないと、それが、今の個人(くんちゃん)に伝わることはない。過去の個人の体験(意識)の生命的連鎖的伝達を、この映画は主張するが、それは妄想だ。
《感想5-2》
未来のミライちゃんの時空移動による、くんちゃんへの過去の個人(自分たちの家族・先祖)の体験(意識)の情報伝達は、4歳時点のくんちゃんに対しては無理だ。
《感想5-3》
未来のミライちゃんは高校生で、その時くんちゃんは大学生だ。その頃なら、くんちゃんもミライちゃんも、過去の個人(自分たちの家族・先祖)の体験(意識)について知れば、そこから教訓を得るだろう。
《感想5-4》
かくて「未来のミライちゃん」は、「未来のくんちゃん」の経験の先取りだ。映画が描くのは、今の4歳のくんちゃんの経験でなく、高校生以上のくんちゃんの経験だ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平川新(アラタ)(1950-)『新しい江戸時代論の原点』NHK文化講演会(2018/08/04放送):「共同体(村社会)否定論」への違和感!&「豪農半プロ論」から「地域リーダー論」へ!

2018-08-04 09:06:10 | 日記
(1)
かつての「共同体(村社会)否定論」への平川氏の違和感。村は、過干渉で、プライバシーがなく、よそ者を排除し、封建的だとするのは、都会出身者の議論だ。平川氏は村出身(「田舎育ち」)で、彼の知る限り、村は他人の子供も心配する共感的社会で、行商など「よそ者」にも親切にした。
《感想》
平川氏が、かくて「流行の論理に乗ってはいけない」、「資料から事実を読み起こせ」と言うのは実にもっともだ。

(2)「豪農半プロ論」も平川氏は批判する。「豪農半プロ論」は、村は、収奪する豪農、小農民、半プロレタリアート(日雇いにも従事する小作)からなると分析する。これは階級闘争史観である。そして、これこそ科学的歴史観だとされた。これに対し、平川氏のような資料に即した村の分析は「素朴実証主義」と非難された。
(2)-2
さて、平川氏(当時、大学生)の地元では、父親が選挙で、山林大地主の県会議員を応援していた。「豪農半プロ論」の観点から、平川氏が、村民を収奪する「豪農」にあたる者を、応援するのだと質問。父親は「地域をよくしようとしているから応援する」と答えた。
(2)-3
平川氏は、その時、納得しなかった。しかし、江戸時代の資料を読む中で、平川氏は、村役人が、地域をよくするため尽力するのを、繰り返し確認した。彼らは、幕府からの資金調達にも努力した。(これを権力との癒着と批判することはできない。)かの山林大地主の県会議員は、こうした村役人に似る。平川氏は、「豪農半プロ論」に代えて、「地域リーダー論」を打ち出す。

《感想1》
階級闘争史観(例えば「豪農半プロ論」)は、人の善意(感情・意志の一種)に目を向けることが出来ない。
《感想1-2》
評者の見解では、歴史は、個人の感情や意志で動く。それらの感情や意志が大量の人間に共有されれば、巨大な力となり、権力関係、経済関係、さらにとりわけ国家的意思決定を左右する。
《感想1-3》
「地域リーダー論」は個人の感情や意志に注目する。こちらの方が、歴史を事実に即して見ていると言える。
《感想2》
階級闘争史観も、個人の感情や意志のレベルから説明することが可能だ。階級闘争史観の人間観は、人間は経済的利害関心・権力的利害関心を中心に動くとする。
《感想3》
だが人間には、理想への献身という関心、宗教的関心、道徳的関心、人としての共感という関心等々、様々な関心(これは感情であり、また感情に由来する意志である)がある。これらの関心を、経済的利害関心・権力的利害関心とともに考慮し、歴史上の人間行動を読み解く必要がある。(「地域リーダー論」はこの立場だ。)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする