(1)
父親は建築家。母親は出版社勤務。中流の豊かな家。飼い犬のユッコ。そして4歳の男児「くんちゃん」。そのくんちゃんに、妹「未来」が生れる。生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、くんちゃんはイライラし、嫉妬し、幼児返りする。ここからの回復は、くんちゃんが、「自分が兄であり、妹を守る立場だ」という規範を自分の内に取り込むことで解決される。
《感想1》
映画は、4歳の男児に妹が生まれた時の嫉妬と、そこからの心理的回復の過程を描く。
(2)
くんちゃんが妹への「嫉妬」に気づくのは、飼い犬のユッコ(王子)が教えたからだ。
《感想2》
4歳の男児に、「嫉妬」などという言葉が理解されることはない。映画は、4歳の男児でなく、例えば高校生以上のくんちゃんを想定している。
(3)
嫉妬から抜け出すためには、自分への信頼(自信)が必要だ。くんちゃんは自分が自転車に乗れるようになって、自分への信頼を獲得する。
《感想3》
映画は、ひいじいじが、自転車の乗り方を教えたと描くが、これは、くんちゃんの現実と無縁。全くの妄想的なな空想だ。4歳の男児くんちゃんは、ひいじいじと何の関係なく、自分の力で自転車に乗れるようになったのだ。
(4)
くんちゃんに手を焼く母親は、ひどくいらいらする。しかし他方で、「くんちゃんはわたしの宝」という気持ちが、彼女に常にある。この母親の気持ちがくんちゃんに伝わり、これも、くんちゃんが自分への信頼を回復する契機となったはずだ。
《感想4》
現実には、母子関係の破綻もありうるが、映画は、幸福な母子関係を描く。
(5)
映画が前提する世界観が、ふたつある。
①個人の存在は、《過去から連綿と続く生命の連鎖》の結果である。(※これは事実としてその通りで、生命的な因果の連鎖の結果として、個人は存在する。)
②映画はさらに、《過去の個人の体験(意識)》が、語られなくとも、生命的連鎖を通じて、今の個人に伝わるとの立場をとる。(※これは、事実に反する。DNAレベルでの複製はあるが、《過去の個人の体験(意識)》が、生命的連鎖を通じて、後の個人に伝わることは、ありえない。)
《感想5》
過去の個人の体験(意識)に関して何らかの情報伝達(あるいは教育・学習)がなされないと、それが、今の個人(くんちゃん)に伝わることはない。過去の個人の体験(意識)の生命的連鎖的伝達を、この映画は主張するが、それは妄想だ。
《感想5-2》
未来のミライちゃんの時空移動による、くんちゃんへの過去の個人(自分たちの家族・先祖)の体験(意識)の情報伝達は、4歳時点のくんちゃんに対しては無理だ。
《感想5-3》
未来のミライちゃんは高校生で、その時くんちゃんは大学生だ。その頃なら、くんちゃんもミライちゃんも、過去の個人(自分たちの家族・先祖)の体験(意識)について知れば、そこから教訓を得るだろう。
《感想5-4》
かくて「未来のミライちゃん」は、「未来のくんちゃん」の経験の先取りだ。映画が描くのは、今の4歳のくんちゃんの経験でなく、高校生以上のくんちゃんの経験だ。