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「笈(オイ)も太刀も五月(サツキ)にかざれ帋幟(カミノボリ)」芭蕉(『奥の細道』)(12):義経のために死んだ忠臣、佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの寺だ!

2018-08-30 19:29:06 | 日記
「笈(オイ)も太刀も五月(サツキ)にかざれ帋幟(カミノボリ)」(12)
Benkei's wooden backpack and Yoshitune's sword have to be desplayed for Boys' Festival in May while carp-shaped streamers are waving in the sky.

《感想1》福島をすぎて、芭蕉は義経ゆかりの地、瀬の上(セノウエ)宿の医王寺を訪ねる。義経のために死んだ忠臣、佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの寺だ。二人の嫁が、各々の夫の死を隠すため、甲冑を着て、二人を演じ、母親を心配させまいとしたという。「袂(タモト)をぬらしぬ」と芭蕉は感慨を催す。
《感想2》医王寺には、義経の太刀、弁慶の笈(オイ)が宝物としてあった。この日は5月1日。芭蕉が句を詠む。「もうすぐ端午の節句だ。鯉や吹き流しのカミ幟と一緒に、非業の死をとげた弁慶の笈や義経の太刀も、せめて晴れやかに飾ってほしい。」
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モナド論(その4):《世界》に充満する一者である感情・欲望・意図が二重化して、超越論的自我主観性と超越論的他我主観性を成立させる!

2018-08-30 13:42:07 | 日記
(16)「物体」の区別:(1) 「特権的物体」の触覚的出現、(2) 「普通の物体」の触覚的出現、(3) 「音声を発する物体」(後に他我となる、Ex. 母)の触覚的出現、(4)「物体」の視覚的・嗅覚的・聴覚的拡張、(5)「物体」の意味的拡張
さて、世界「そのもの」として「物体」が出現する。この「物体」は次のように区別できる。(1)「特権的物体」(やがて自己身体とされる)、(2)特権的物体と接触しつつ、つまり触覚において生じる「普通の物体」、(3) 特権的物体と接触しつつ、つまり触覚において生じる「音声を発する物体」(後に他我となる、Ex. 母)、(4) 「音声を発する物体」「普通の物体」の視覚的・嗅覚的・聴覚的拡張(触覚できない延長的地平に物体が感覚されること、Cf.1 味覚は特権的物体との接触つまり触覚と同時に生じるので「音声を発する物体」「普通の物体」の味覚的拡張はない)、Cf.2「特権的物体」(やがて自己身体とされる)については触覚(身体内の充実感覚、痛み、冷温感覚)によって「物体」としての範囲が確定されており視覚的・嗅覚的・聴覚的拡張はない。  (5)さらに、これら3種類の「物体」の意味的拡張(Ex. 数学的に計算される宇宙の構造)。(なおこれら拡張(4)(5)はともに、触覚的=接触的に充実されることが要請される)

(16)-2 味覚は触覚の一側面!
味覚は、触覚の一側面と考えてよい。

(17)《世界》に充満する感情・欲望・意図(母の意識と自己意識両者による共有と後に名づけられる)(※(14)参照)&「〇〇ちゃん」・「お母さん」という意味(言葉)の出現
《世界》において、感情・欲望・意図の共有(母の意識と自己意識両者による共有と後に名づけられる)と呼ばれる出来事が生じる時、同時に、特権的物体(やがて自己身体とされる)に対し「〇〇ちゃん」、また「音声を発する物体」(Ex. 母)に対し「お母さん」という意味(言葉)が、「音声を発する物体」(Ex. 母)から発せられる。《世界》における、経験の重なり(意味or言葉)の形成において、「〇〇ちゃん」と「お母さん」という意味(言葉)の出現はエポック(決定的転換点)だ。

(17)-2 「充実」されていない空虚な「意味」(言葉)が、《経験の重なり》として「充実」させられる!
「〇〇ちゃん」と「お母さん」という意味(言葉)の出現は、《世界》に充満する一者である感情・欲望・意図が二重化して(つまり共有と呼ばれる)、《自己身体を含む超越論的主観性(意識)》としての自我(自我意識)と《他我の身体を含む超越論的主観性(意識)》としての他我(他我意識)を成立させるにあたり、重要だ。「〇〇ちゃん」と「お母さん」という意味(言葉)は、まだ「充実」されていない空虚な「意味」(言葉)だが、それらは、やがて《経験の重なり》として「充実」させられ、超越論的自我(自我意識)および超越論的他我(他我意識)を「充実」した意味として成立させる!

(18)《世界》に充満する感情・欲望・意図が、一方で「特権的物体」に属し、かくて自我(「〇〇ちゃん」、ただし超越論的自我)が成立する!他方で、その《世界》に充満する感情・欲望・意図が、同時に、「音声を発する物体」(Ex. 母)に属し、かくて他我(「お母さん」、ただし超越論的他我)が成立する!
「音声を発する物体」(Ex. 母)が発する「言葉」に随伴し《世界》に充満する感情・欲望・意図が、現に「そのもの」として、この《世界》に出現している。その《世界》の感情・欲望・意図が、一方で特権的物体(やがて自己身体とされる)の超越論的意識(モナド、宇宙)に属し、かくて自我(「〇〇ちゃん」、ただし超越論的自我)が成立する!同時に他方で、その《世界》に充満する感情・欲望・意図が、同時に、「音声を発する物体」(やがて他我の身体となる、Ex. 母)の超越論的意識(モナド、宇宙)に属し、かくて他我(「お母さん」、ただし超越論的他我)が成立する!

(19)《世界》に充満する一者である感情・欲望・意図が二重化して(つまり共有と呼ばれる)、《自己身体を含む超越論的意識》としての自我と《他我の身体を含む超越論的意識》としての他我を成立させる!
まず一者がある。それは《「世界がある」「いろいろなものがある」という事態としての世界》に出現した一者だ。すなわち「音声を発する物体」(Ex. 母)が発した「言葉」に随伴し今や《世界》に充満する感情・欲望・意図が、その一者である。この一者が、二重化する(つまり、これは共有と呼ばれる)。一方で《特権的物体(今や自己身体とされる)とその感情・欲望・意図からなる世界》(超越論的意識としての自我)、他方で《「音声を発する物体」(Ex. 母)(今や他我の身体とされる)とその感情・欲望・意図からなる世界》(超越論的意識としての他我)が、成立する。すなわち《世界》は、一方が《特権的物体(自己身体)をそのうちに含む超越論的意識》としての自我、他方が《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)をそのうちに含む超越論的意識》としての他我からなる。

(19)-2 《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)は、もともと一つのモナド=宇宙であったが、この一者が二重化し、ふたつのモナド=宇宙が出現する!
ここで魔術的変換が起きている。「音声を発する物体」(Ex. 母)は、他なる「物体」にすぎず、この場合、その「音声を発する物体」(Ex. 母)は、それ自らを含む超越論的主観性の領野をもたない。ところが今や、《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)を起点として、その感情・欲望・意図(一者)の広がりが、つまり一つだったもともとの超越論的主観性の領野が、二重化する。つまり、一方で《特権的物体(自己身体)をそのうちに含む超越論主観性の領野》としての自我、他方で《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)をそのうちに含む超越論的主観性の領野》としての他我へと、一挙に二重化する。ここで超越論的主観性の領野とは、モナドであり、宇宙である。《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)は、もともと一つのモナド=宇宙であったが、この一者が二重化し、ふたつのモナド=宇宙が出現する。

(19)-2-2 二重化するにあったって、《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)の一定範囲は、同一である。しかも《特権的物体(自己身体)》と《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)》は相互に接触して相互に他である物体を出現させているので、その出会いの境界面は同一である!
二重化するにあったって、《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)の一定範囲は、同一である。しかも《特権的物体(自己身体)》と《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)》は相互に接触して相互に他である物体の出現という出来事を「そのもの」として出現させているので、相互に他なる「物体」として、その出会いの境界面は同一である。

(19)-3 超越論的主観性の領野(世界、モナド、宇宙):①物的世界(感覚)と心的世界(感情・欲望・意図・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構)!or②感覚(物体が出現する)、感情・欲望(Cf. 認知は注視の欲望にもとづく)・意図(欲望が目指す目標)・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構!
超越論的主観性の領野(世界、モナド、宇宙)は、物的世界(感覚)と心的世界(感情・欲望・意図・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構)からなる。あるいは、物的世界(感覚)と心的世界を分けるのでなければ、超越論的主観性の領野(世界、モナド、宇宙)は、感覚(物体が出現する)、感情・欲望(Cf. 認知は注視の欲望にもとづく)・意図(欲望が目指す目標)・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構からなると言ってもよい。

(19)-4 物体の出現とは、相互的な《他》の出現だ!
①感情・欲望・意図においては、実は、そもそも《他》という契機がない。《他》は、感覚という出来事(物体の出現)においてのみ生じる。すなわち物体の出現(これが感覚という出来事だ)とは、相互に他である抵抗・延長の出現だから、常に《他》が前提される、つまり物体の出現とは、相互的な《他》の出現だ。

(19)-5 《意識、つまり世界の出現》とは、《感情・欲望・意図の充足》そのものである!
②さて《意識、つまり世界の出現》は、感情・欲望・意図を前提する。例えば感覚(物の出現)は、注視の欲望と意図にもとづき、指で何かをなぞること、あるいは感情にもとづき体が風や水を感じること(物は個体でなくてもよい)、この欲望・感情・意図によって自由になる側の物体、それが《自》である。
②-2《意識》するとは、認知的には注視の欲望の充足である。さらに欠如の感情としての欲望が充足されることも、《意識》である。空虚な意味が充足され満足することも、《意識》である。

(19)-6 《自》とは《感情・欲望・意図》のことだ!《自》なしに、世界の出現はない!したがって物体の出現もない!今、「音声を発する物体」(後に他我の身体となる、Ex. 母)が出現すると、それは、相互的な《他》の出現としての物体の出現であるが、こちら側が《自》なので、当然にも、向こう側が《他》となる!
③さて、相互的な《他》の出現としての物体の出現は、やがて、一方が《自》となり、他方が《他》となる。つまり相互的な《他》の出現としての物体の出現においてのみ、自他の差違が出現する。(⑥-2参照)
④今、「音声を発する物体」(後に他我となる、Ex. 母)が出現する。それは、相互的な《他》の出現としての物体の出現であるが、こちら側が《自》なので、向こう側が《他》となる。
⑤ まとめよう。物体的出会い(物体の出現)としてしか、《他》は出現できない。(参照①)また《この世界の出現の形式》においては、つまり《世界が意識される》あるいは《世界の出現》とは、《感情・欲望・意図の充足》そのものである。(参照②-2)《自》とは、この《感情・欲望・意図》のことだ。《自》なしに、世界の出現はない。したがって物体の出現もない。
⑤-2なお《感情・欲望・意図》は、詳しくは《感情・欲望(Cf. 認知は注視の欲望にもとづく)・意図(欲望が目指す目標)・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構》である。

(19)-7 《自》身体は、もともとの超越論的主観性(=宇宙=モナド)に含まれているが、この超越論的主観性(=宇宙=モナド)に《自》という性格はまだ出現していない!「音声を発する物体」(Ex. 母)が、《他》身体に転換する時、それは同時に《他》身体を自らの内に含む含む《他》なる超越論的主観性(=宇宙=モナド)の出現であり、さらに同時に《自》身体を含むもともとの超越論的主観性(=宇宙=モナド)に、《自》という性格を出現させる!
⑤-3 《他》は、物体の出現なしに、出現しない。さて、すでに見たように、《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)を起点として、その感情・欲望・意図(一者)の広がり(《後に自己身体となる特権的物体》を含む超越論的主観性の領野)が、二重化する。つまり、一方で《特権的物体(自己身体)をそのうちに含む超越論主観性の領野》としての自我(自我意識)、他方で《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)をそのうちに含む超越論的主観性の領野》としての他我(他我意識)へと、一挙に二重化する。この二重化には、《他》の出現が必須であり、つまり《他》なる「物体」が必須だ。《他》なる「物体」なしに、他我の超越論的主観性の領野、つまり「音声を発する物体」(他我の身体、Ex. 母)を含む超越論的主観性の領野は、成立しない。
⑥「物体」の出現なしに《他》は出現できないので、「物体」を介してのみ他我(他の超越論的主観性=宇宙=モナド)は出現する、あるいは出現できる。(なお、他我の出現は、同時に、もともとの超越論的主観性=宇宙=モナドに、《自》あるいは自我という性格を与える。)
⑥-2 ここで《自》身体は、もともとの超越論的主観性(=宇宙=モナド)に含まれているが、この超越論的主観性(=宇宙=モナド)に《自》という性格はまだ出現していない。「音声を発する物体」(Ex. 母)が、《他》身体に転換する時、それは同時に《他》身体を自らの内に含む含む《他》なる超越論的主観性(=宇宙=モナド)の出現であり、さらに同時に《自》身体を含むもともとの超越論的主観性(=宇宙=モナド)に、《自》という性格を出現させる。
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