(15)確認:《世界》は、世界「そのもの」がここに現れているのであって、《世界》は、真に実在する世界の「像」ではない!
《世界》(《「世界がある」「いろいろなものがある」という事態としての世界》)は、世界「そのもの」が、ここに現れているのであって、そうした世界が、真なる(真に実在する)世界の「像」であるとする理由がどこにもない。
(15)-2 確認(続):「意識」そして意識に現れる「現象」は実は、「実在」だ!
現象学は、ここに現れているもの(「現象」)を、世界「そのもの」と把握すると解釈すべきだ。世界「そのもの」を「実在」と呼ぶなら、「現象」は実は、「実在」だ。現象学は「実在」を認めない「現象主義」でない。
(15)-3 確認(続々):人間の意識に現れる「現象」と別に、現象をもたらす普遍的実体としての「実在」があるわけでない!「意識」そして意識に現れる「現象」は、それ自身、「実在」の世界(宇宙)そのものだ!つまり人間の「意識」領野は「実在」領野であり「モナド」だ!
現象は、人間の意識に「現れ」るもののことである。だが人間の意識に現れる「現象」と別に、現象をもたらす普遍的実体としての「実在」があると想定するのは、幻想だ。「意識」そして意識に現れる「現象」は、それ自身、「実在」の世界(宇宙)そのものだ。このように捉えられかぎりでの意識は「モナド」である。
《世界》(《「世界がある」「いろいろなものがある」という事態としての世界》)は、世界「そのもの」が、ここに現れているのであって、そうした世界が、真なる(真に実在する)世界の「像」であるとする理由がどこにもない。
(15)-2 確認(続):「意識」そして意識に現れる「現象」は実は、「実在」だ!
現象学は、ここに現れているもの(「現象」)を、世界「そのもの」と把握すると解釈すべきだ。世界「そのもの」を「実在」と呼ぶなら、「現象」は実は、「実在」だ。現象学は「実在」を認めない「現象主義」でない。
(15)-3 確認(続々):人間の意識に現れる「現象」と別に、現象をもたらす普遍的実体としての「実在」があるわけでない!「意識」そして意識に現れる「現象」は、それ自身、「実在」の世界(宇宙)そのものだ!つまり人間の「意識」領野は「実在」領野であり「モナド」だ!
現象は、人間の意識に「現れ」るもののことである。だが人間の意識に現れる「現象」と別に、現象をもたらす普遍的実体としての「実在」があると想定するのは、幻想だ。「意識」そして意識に現れる「現象」は、それ自身、「実在」の世界(宇宙)そのものだ。このように捉えられかぎりでの意識は「モナド」である。