DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

いろはかるた「鬼に金棒」: 君は運が上向きで、めでたい!

2018-08-26 22:28:41 | 日記
「鬼に金棒」
A devil is strong. Moreover it also has a metal menacing club and becomes stronger.

《感想1》君がすでに強力な時に、さらに強い武器・援軍が加わる。君は運が上向きで、めでたい。
《感想2》ところが落ち目の時は大変!「泣き面に蜂」だ。困っているところに、さらに災難が降りかかる。惨めな土砂降りだ。
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精神において独立した人になる

2018-08-26 10:39:30 | 日記
精神において独立した人になるのは大変なことだ。
①賢くなければならない。周到な観察を怠ってはいけない。経験から学ぶ。
②人に依存しない。しかし人からの好意は感謝して受け入れる。
③狡知が不可欠だ。油断してはいけない。騙されない。
④失敗した時は、しばらく絶望するだろうが、できるだけ早く気力を再起動させる。
⑤人の顔色をうかがうばかりではだめだ。君の決断が重要だ。ただし慎重に決断する。
⑥黙って、自らの判断でやってしまうことも大事だ。しかし他方、相手に自分の意図をあらかじめ伝えておくことも大事だ。
⑦君に向けられる攻撃、悪意、憎悪、侮蔑に対し、固く防御する。ただし相手への反撃は、十分慎重に行う。
⑧君は自分を守らねばならない。そのために経済的に自立する。また健康を保つ。
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「スタンス」への問いに対する返信:存在論・認識論のスタンス、人間論のスタンス、政治論のスタンス

2018-08-26 08:31:24 | 日記
「貴兄のスタンス」について「お話をお伺いしたいと思っています」との事ですので、少し書いてみました。

(1)他我理解の問題
私は、他我との了解がいかにして可能かをこの40年間、ずっと考え続けてきました。他我理解の問題です。

(1)-2 《客観(物)の「像」》or《主観の内に客観「そのもの」が出現する》
フッサールは独我論と批判されますが、むしろ問題は、《主観(意識)が客観(物)の「像」であると捉える》のか、《主観の内に客観「そのもの」が出現すると捉える》かの問題にあります。

(1)-3《超越論的意識は、意識(主観)であるが、同時に客観(物)そのものと連続している》
私には、《主観の内に客観そのものが出現する》としか思えません。フッサールのヒュレー(質料)は、実は、客観の「像」でなく、客観「そのもの」の出現です。《超越論的意識は、意識(主観)であるが、同時に客観(物)そのものと連続している》としか考えられません。

(1)-4 物世界の同一性(共有性or間主観性)
同一の物世界(客観)が形成されるのは、同一の物世界「そのもの」が、この主観(意識)と他の主観(意識)の一部として、同時に出現する場合のみです。物世界の同一性(共有性or間主観性)は、《この主観(意識)に出現した自なる物(身体)》と《他の主観(意識)に出現した他なる物(身体)》が(直接に)接触する場合にのみ可能です。

(1)-5《物の出現》はモナドにおける「感覚」としてしかありえない
そもそも《物の出現》とは、相互に他なる物の接触(抵抗性と延長)です。ただし、《物の出現》はモナドにおける「感覚」としてしかありえません。

(2)《モナド》=《物(客観)の宇宙の出現(つまり感覚)》+《感情・欲望(自発性)・意図(欲望の目的)の出現(狭義の心)》
他方、《主観の内に客観そのものが出現する》とすれば、主観はそれ自身、物(客観)の宇宙を含みます。《物(客観)の宇宙の出現を含む主観(意識)》はモナドです。(超越論的主観性はモナドとして理解されねばなりません。)
モナドは、一方で物(客観)の宇宙の出現(つまり感覚)であって、他方で同時に感情・欲望(自発性)・意図(欲望の目的)の出現(狭義の心)です。

(3)モナドの《経験の重なり》としての「意味」、さらに「言語」
モナドの《経験の重なり》が「意味」であり、この「意味」と、《音声的あるいは形象的経験の重なりとしての意味》が、連関させられて「言語」が発生します。

(3)-2「意味」(あるいは「言語」)に蔽われる
感覚の宇宙(物の宇宙)も、《狭義の心》もすべて、「意味」(あるいは「言語」)に蔽われます。

(4)《狭義の心》の共有、さらに「意味」(あるいは言語)の共有
《狭義の心》、さらに「意味」(あるいは言語)も共有されますが、共有が可能なのは《この主観(意識)に出現した自なる物(身体)》と《他の主観(意識)に出現した他なる物(身体)》が(直接に)接触する場合にのみ発生可能です。

(5)《存在を産出し続ける時間の一致》と《経験の重なり(意味)を形成する注視の欲望(自発性)の働き方の一致》:モナドの調和
モナドは調和します。《自なる物と他なる物が(直接に)接触する》、つまり《この主観(意識・モナド)と他の主観(意識・モナド)が直接に出会う》、つまり《共有された物世界》が成立するためには、《存在を産出し続ける時間が一致》しなければならず、また《経験の重なり(意味)を形成する注視の欲望(自発性)の働き方が一致》しなければなりません。

(5)-2 《客観の形式的構造》の一致(《存在を産出し続ける時間の一致》)と《主観の形式的構造》の一致(《経験の重なり(意味)を形成する注視の欲望(自発性)の働き方の一致》):モナドの調和(続)
つまり《客観の形式的構造》と《主観の形式的構造》が、この主観(意識・モナド)と他の主観(意識・モナド)との間で一致しなければなりません。つまりモナドは調和します。

(6)《共有された狭義の心》・《共有された意味世界》の基盤としての《共有された物世界》
《共有された狭義の心》の成立と、《共有された意味世界》の成立の基盤は、《共有された物世界》の成立です。

(7)客観的時間と主観的時間
客観的時間(物の宇宙時間)と主観的時間は同一です。

(7)-2 「いわゆる主観的時間」:時間にかかわる「意味」を含めた《客観的時間=主観的時間》
記憶や予期は、《時間に関する欲望(自発性)(受動的綜合と能動的綜合)》にもとづく「意味」であって、普通、主観的時間と呼ばれるものは、時間にかかわるこのような「意味」を含めた《客観的時間(物の宇宙時間)=主観的時間》です。

(8)「心」=モナド
他我理解の問題は、「心とは何か」の問題でもあります。一方で「心」は物(の宇宙)そのもの(感覚)です。他方で「心」は感情・欲望(自発性)・意図(欲望の目的)の出現(狭義の心)でもあります。「心」は、宇宙(物世界)そのものと連続した《モナド》です。

ざっと、考えていることを、要約してみました。独りで考え続けましたので、大変、粗雑で詰めも大不足、疑点満載です。私としては《宇宙(物)とこの心と他の心の関係》、つまり《他我の存在と他我理解の問題》、また《狭義の心が、宇宙もこの心も他の心も、全てを「意味」で覆い尽くそうとする欲望(注視の自発性)を持つこと》について素描が欲しくて、40年間、考え続けました。(正確には30年前に、一度、頓挫し、その後、一人で考え続けていました。)

以上が、今の私の存在論・認識論のスタンスです。

私の人間論のスタンスは、「人間は否応なく宇宙的に存在してしまったので、つまり不幸か幸福かいずれかを選択するしかないので、こうなったら、幸福のために生き抜くしかない」ということです。(ただし大変悲観的です。人間は愚かで、憎悪、嫉み、侮蔑、悪意、暴力のとりこにすぐになります。)

私の政治論のスタンスは、「全ての人がどうしたら幸福になれるか、その方法を見いだす努力をしていく」ことです。

存在論・認識論のスタンス、人間論のスタンス、政治論のスタンスについて、ざっと述べましたが、まことにナイーブで、どうしようもありませんが、以上が私のスタンスです。参考に書いてみました。
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