「懐徳堂 18世紀日本の「徳」の諸相」
(テツオ・ナジタ著 子安宣邦訳)
大江健三郎往復書簡集「暴力に逆らって書く」
の中で、ナジタへの手紙はこの本についての
感想から始められている。
大江健三郎がこれまで誰にも話した
ことがないのだけれどと前置きし、
戦争末期の夏の日、父が酒に酔って自分が
学問のない商人であることを恥じていると
目の前に座った自分に嘆き、繰り言を
言ったことがあったのだと書いた。
そして、
「無力感と悲しみで聞くだけだった自分」
だった。もしも父親に懐徳堂の話を聞かせて
あげたとしたら、と思う。
ナジタの著作を読んでそう思ったと語る
言葉に、少年だった大江健三郎の身を裂く
ような哀しみがにじんでいる。
創設者の一人「三宅石庵が…「仁」を
《人間の寛容さ、同情、慈悲心の基礎》
としたことをつたえ、
それならお父さんにはあると思う、と
いえたならと夢みます。
そして、この根本の徳につらなる「義」は
《精確であろうとし、それゆえ公正で
原則に基づくものでありまたそれゆえ
恣意を排そうとする精神的な能力に
関係している》商人の求める「利」は
そこから生み出されるやはり道徳的な
ものなのだ、と石庵はいった…
お父さんも、恥じる必要はないと思う、
と励ますことができたならば、と…」
そう手紙の書き出しは続いている。
このナジタとの書簡で「徳」を失った
現代日本を憂え、「西欧のまなざし」に
絡め捕られ続ける中央志向の人々への
批判と警鐘を鳴らす作家の言葉はまったく
予言であったと、国会で安保関連法が
強行採決された今は考えあわせずに
いられない。
2011年からは原発再稼働反対運動の
最前衛を言葉だけでなく行動する作家
の姿を何度も目してきた。
過去の言葉を読むと、デモでの姿が
ダブり、先生!という大声に振り返り
手を挙げられた時のお顔が眼前に
浮かび、そしてまた、哀しみも
ぶり返すように襲ってくる。
悲しみと悔いが人を前へと歩ませる。
「徳」は旧事紀を学ぶ身においては
身近な言葉である。よく知る言葉で
あるがゆえに、二百年前の町人、商人
たちが学の土台にそれを置き封建制度
の矛盾から精神を解放し、公平さと
生きやすさと人間性の可能性を追究
したということに興奮と感動をおぼえる。
さらに、ではこの戦争の世紀は何で
あったか、日本人は何をしてきたのか
ともおもわざるをえない。
仁も義も礼もオモテナシナンチャッテ
にとってかわって、がらんどうだ。
ナジタは懐徳堂のネットワークから
生まれた町人知識人の知恵がその後
どのように受け継がれていったのか、
近代化の波で疎外削除されたのかを
「相互扶助の経済ー無尽講・報徳の
民衆思想史」(みすず書房)で追究
している。
ハワイ生まれの日系アメリカ人である
ナジタが綿密な調査と研究によって
明らかにしたこれらのことは、日本の
未来への希望ではなかろうかと思うが
肝心の日本人は気にも留めないという
のでは、あまりにさみしい。
私の認識している徳においての仁、義と
石庵の解釈とはまったく同じではない。
ただ、商人が集まった学問所においての
講義だということをふまえると、納得
する。
「恣意を排そうとする精神的な能力」
とは私を滅すという意味であるから
骨格は変わらない。
仁も義も人を救うもの、そして当然
自らも救われ、生きる喜びを分かち
合うがためである。
西欧の原罪と贖罪の思想とは異質だ。
始めから明るく、最後まで明るい光
に満ちているのが日本の徳が導く道、
これは儒学でも東儒であり古代日本で
育まれたものだ。
すべてのことが失ってから懐かしく
思われ、失くしてからありがたみが
わかる。
けれど、とりかえしのつかないこと
があるということ。
それを、わたしたちはすでに経験した。
くりかえし過ちを侵せば、戻ることは
難しい。
民衆の力とは、生きる喜びを素直に
感受する力。
そして悔恨することができることだ。
日本人は70年前の悔恨を背負うことで
しか明るい未来はつかめない。
喜びを知るゆえに悔恨し、
悔恨の義があるゆえに、再び喜びに
であえる。
この二つがあれば、二百年前、さらに
千数百年前に、生き生きとしてあった
徳の時代に人の心を戻せるかもしれない、
そんなことを夢想する。
そして、徳には日本という国名も国境も
未だ無く、これからも無い。
だからこそアメリカ人であるナジタの
心をとらえたのだろう。
※懐徳堂は1726年に創設された。
「徳の意味を深く心に省ること(懐徳)」
をめざす学校として大阪商人のとその子弟
たちのために開かれたが、その後西日本
全域にわたる学術交流の場として発展した。
100年の長きに渡り、「徳」の研究学問所
として全国に知られるところとなった。
※「徳」は明治維新後に道徳、修身などに
置き換え歪曲される以前の、純真なる徳
であった。それが注目に値することだ。
※往復書簡の当時、1999年は国旗国歌法が
成立、その直前に周辺事態法・防衛指針法
(日米新ガイドライン法)が成立。
不安定な自民党政権が右傾化へ急ぎ、
きな臭さが露骨になってきた頃である。