想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

土を喰らう

2023-06-15 20:01:53 | 
水上勉「土を喰う日々」が映画になり、
ジュリー(沢田研二です)が水上役で主演した。
映画はまだみていないけれども原作は
典座の僧が書いたものに水上勉がさらに滋味を
重ねたようで、とてもよかった。

同じ精進料理でも人生の辛みを悟った作家は
ちょっと甘みを足す。けれども酒は使わない。
小僧時代にもったいなくて酒は使わなかった
経験と、野菜本来の甘みや苦味を引き出して
作る。品のある食事である。

穀物や野菜を通じて土からいただく滋養で
命をつないでいく。
聖俗に関わりなくこうした方法が暮らしの
中心にあった時代、人は土を大事にした。

ところで、神文伝の四十七言のなかにある
男田畠耕(おたはく)は農耕の役目を男性の
務めと教え、女蚕績織(めかうを)に衣服を
調え快適な暮らしの元を支える女性の役目
を説いている。
これを男女の違い(差別ではなく)と狭義に
読まないよう留意がいる。陰陽のはたらきが
事となって顕れるとこうなるという一形態だ。
そして、古代から生活の基本がほぼ変わらない、
その本質を読み取ると興味深い。
男女に分けた両方の仕事が、生きるために
不可欠な衣食住を成り立たせる。
人の暮らしの基本を表している。

しかし千年数百年かけてそれらの意味を
人の世は変えてきた。
いまや土を耕すことが生活から切り離され
土も虫たちも生命を亡くしつつある。
自然も額縁の中の絵のように扱っている。



道元「典座教訓」にある細やかな決まりは
表現は異なるが宗徳経の教えにも重なるので
すんなりと入ってくる。
むずかしいことではなくあたりまえのこと。
そうしたほうがどれほどよい結果を生むかと
いうことをこうしてじっとしている時間には
なおさらわかる。

典座教訓は食事のみならず、人が命の原点を
思い出す方法を教えたものともいえる。
それがなければ祖霊供養も神仏祭祀もまた
意味をなさないのである。
典座は僧堂の役目の一つで食事と湯茶の仕事を
担う。大勢の僧侶の命を養う大事な係である。

典座の務めの困難はまずは一日たりとも休みが
ないこと、一日どころか四六時中、離れていい
ということはない。それを難儀に思わずにする
にはなぜそこにいるのかを思い定めていること
かと思う。

求道心がないのに地味で質素で面倒な料理を
他者のために作り続けることはできない。
他者に喜んで食してもらうことを喜びとする
利他心が自然に備わって料理という小さな仕事に
大宇宙を感得するようになる。

さと芋の皮を薄く剥くというのはあたりまえのこと
だと思っていたが、テレビに出ている料理家が
器用に包丁を使うけれどもずいぶんと分厚く
芋の形が残らないくらいに剥いてザルに投げ
入れていくのに驚いたことがあった。
さと芋に触れるとそれを思いだすことがある。

料理ほど心が表れやすい仕事はないと思う。
見栄えよくおいしくできるのがいいという
のではない。典座の仕事から教えられるのは
心からそれを扱い生かし、拵えているか
ということの大事さだ。
だから集中しなくてはできない。
考え事やよそ見をしていては失敗する。
食べる人のことを思って作らず自分の為すこと
に没頭してもだめである。
落ち着き、よく頭をめぐらし、ていねいに
行う。なにより清潔でなくてはならない。

朝食が終われば昼を、昼が終われば夕食を
そして明日のことを備えておく。
こういうことを惓ことなく何年も何十年も
やるのだから、悟りの域に達しもしようと
思う。
また途中投げ出しても、また戻ってやる
ということができればそうすればいい。
許されればありがたい事だが、山門を追われ
戻る道などまあ実際にはない。



山中のわが家のそばには道場があって週末には
人が訪れる。
食事をする台所もある。
そこで三食を拵えて食し森庭仕事などをして
我が身と我が身を置いた空間を観る。
利害と我欲から離れることは難しいので
あえて自然のなかで、見て見ず、触れて触れず
という時間を過ごすのである。
無心になってといっても‥‥作為的にならず、
そこに在るだけということ。
それがとても難しい。

先生は道場でいくらしくじっても怠けても
教えている先生のほうがそれらをぜんぶ
受け止めておられるようだ。
俗世の濁りや醜さの類はニュートリノみたいに
通過させ何をも滞留させない。
私の身体はその反対に、醜悪さと憎悪を
受け止め満身創痍といったところか。
あのギリギリとした痛みが走った時、
自分が何に対して怒るのかを思い知った。
それがとても悲しいのだった。

人は怒ることも悲しむこともある。
理不尽にも遭遇する。
それをどう乗り越えようかと思い
自分をなだめながらの帰り道だった。

自分自身を許すことが一番難しい。
できない分、何ごとにも感謝する。
それで折り合っていくかと思った。
母を思うと母はずっとそうしてきたのでは
なかったろうかと思った。



病はようやく癒えたけれども自分が
負った傷の深さに気づいた。
器が小さく、ただただ未熟なのである。

森は樹々の緑が日々濃くなっていく。
もう梅雨に入った。
バラも咲き、芍薬も大輪をつけ、
甘くて優美な香りを放っている。

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