想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

木へん 格す

2014-07-02 18:21:49 | Weblog
格す、ただすと訓む。
木の枝を整えるように、悪しき行いを断ち切って美しくあることの
意味である。旧事に用いられている漢字は日本語の深い意味を表現
して、表面の有様だけでなく奥にある心をさしていることが多い。

木に囲まれて暮らしていると、日々、木に教えられる。
木は黙っているが、時にはささやきかけてもくる。
木は想う。
想いが満ち満ちて、こちらへも木の声が聴こえる。
歓喜する木、枝を揺する有頂天の喜びが森ぜんたいを明るくする。
しんとして、木が嘆いている時には、鳥が訪れない。
木の悲しみが わかる。
鳥も イノシシもシカもうさぎも狐も 熊も 人も
森では みな静かに 想い合っている。
木はとても辛抱強く 黙っているけれど。



昨晩の愚かな宰相と取り巻きたちの愚行について書くことはない。
みんな同じ想いだろうから。
代わりに吉野弘の詩「樹」を。

『人もまた、一本の樹ではなかろうか。
 樹の自己主張が枝を張り出すように
 人のそれも、見えない枝を四方に張り出す。

 身近な者同士、許し合えぬことが多いのは
 枝と枝とが深く交差するからだ。
 それとは知らず、いらだって身をよじり
 互いに傷つき折れたりもする。

 仕方のないことだ
 枝を張らない自我なんて、ない。
 しかも人は、生きるために歩き回る樹
 互いに刃をまじえぬ筈がない。

 枝の繁茂しすぎた山野の樹は
 風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ
 密生した枝を払い落す― と
 庭師の語るのを聞いたことがある。

 人は、どうなのだろう?
 剪定鋏を私自身の内部に入れ、小暗い自我を
 刈りこんだ記憶は、まだ、ないけれど。』

吉野さんはこう書いているけれど、寝ても覚めても剪定鋏を
手放せない性、因業なのが詩人という生き方である。

万葉の時代以前、高貴なる人も下賎なる人も違わずみな
詩人の心を持って生きていた。
詩の心なくして天下の政(まつりごと)は立たずというわけだ。
それがふつうの暮らしであった。
土と空と樹がしごく身近にあったからだろう。

破壊者は外からやってきた。
さて…境(みのえ)を立つるということは、
すなわち格すことなり、です。







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