想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

樹下山人と司修

2014-03-17 09:53:43 | 
重くないから枕元で読むのにいいし、持ち歩けるので文庫本を
買い求めることが多い。
ただ、大事にしている本はまた別で、本棚もそれように別個に
あって、そこには死ぬまで手放さない本が置いてある。

時流はますますもって電子書籍だけれど…。乗り遅れたまま
紙と活字と函イノチで行くような気がする。
本は中身はむろんだけれど、函と装丁がよければなおいい。
司修の装丁本は何冊もあるが、装丁だけで買っていたのは
若い頃で、今は欲しかった本がたまたまそうだったという
ほうが喜びが増す。
いかにもという奇をてらったところやわざとらしさもない
手に取るたびに知らずと愛でる、好みの装丁である。

前登志雄の歌集「樹下集」は函に入って本棚のほぼ中央に
座している。函のデザインも不思議だけれど、本の表紙は
意外な明るさで、めぐる季節に静かに華やかに装いを変えて
みせる樹木の、いつまでも老いない内面のきらめきを
写しだしてみせたようなデザインである。

雨が雪に変わって、雪がまたみぞれに変わりしながら、
少しのあいだ降り続いていた。
ようやく止んだ。

「雪まじり霙ふるなり これの世に
 なすことありと 山言はなくに」

〈わたしたちの詩歌の言葉は大いなる生命の隠喩として存在
するものならば、樹上にそよぎ、ゆらぎ、ひるがえる葉っぱの
一枚一枚はことばである。そのことばにわたしたちは無心に
応じていかねばなるまい。〉(吉野日記)
降るみぞれに、そよぐ葉音に、自然の、神の、命そのものの
声を聞きわけ、歌を詠んだ前さんは時空を超えて現れた古人
のような人であった。

山にいるあいだは忘れていた都会でのあれこれが、ある地点
を境にしてどっと身体に流れ込んでくる。沈んでいた澱が
浮き上がるというのでもなく、明らかに外からやってくる。
その衝撃で、ああ東京に戻ったと気づき、いや東京へ来たと
いつも言い換える。
わたしは山の人でありたいと望んでいるからだ。
東京の衝撃波は人工のもので、そこには慈愛がない。

言葉を扱い、古代と現代を結ぼうと苦戦している日々、
前さんの歌に救われることが多い。
奈良ではこの春もまた前さんの樹下山人忌が行われるので
あろうから、今年こそ足を運んで吉野の風にも吹かれて
みたいと思っている。
かなえばの話だが、春の吉野は人いきれのほうが多くて
樹々も桜も疲れることだと思うと自分一人分でも遠慮したく
なって足が遠のく。
奈良まで行って吉野へ行かないというのは毎度のことだが。
今年は樹下山人の声に触れたいとしきりに思う。

〈磐座をつたえる水はみな凍り
       しろがねの泪天くだるなり〉






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