想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

野鳥くんに諭されて

2013-06-20 10:52:44 | Weblog

名は知らない。変な声で啼くなあと耳そばだてて空を
見ていたら近くの樹から降りてきた。





くちばしが鉤状でけっこう大きい。
頭頂から首筋へかけて赤い。変なヤツと思っていたら、
けっこうイカしたモヒカンじゃない? にわかに観察意欲が
出た。

桜の樹に停まってするすると上へのぼっていく姿が丸く
ボテっとして不格好にみえていたのだが、これで奥さんが
いる。つがいで飛びまわり、土の上でせっせと拾い食い。

セキレイの素を軒下でみつけたけど巣立ったあとだから掃除したよ、
カメがそう言ったので、枯れ枝やわらのようなものが散らばって上から
落ちてきた理由がわかった。セキレイ君ならいいやと、えこ贔屓する。
セキレイはここを開墾したばかりの頃からの馴染みなのだ。
毎日やってくる、っていうか住みついているから向こうが
こちらを「やってくる」と思っているだろう。
2、3種類いて、尾が黄色いのが一番古株だ。
壁や樹の枝に巣箱も作った。古い巣箱ではなく軒下にいたとは
知らなかった。そういえば鳴き声がずいぶん近かったと今にして思う。



雨の合間に庭仕事を片付けた。
ニーム播き、液肥撒き、下草とり、古枝の剪定と片付け。
降り出すまでのひさびさの晴れ間に、気になっていることを
つぎつぎにやっていたら汗をかいた。
疲れていると気になっても身体が動かないけれど、こうして
思いつくままに動いているのは元気になったらしい。

古いものを扱いながら、古い執着や腐った概念を押しやって
つき進む勇気のようなもの、そのような力が足りなかった。
停滞の元となる疑義を解きほぐして遅々とした足取りながら前へ
進むことを諦めないでいたら、ようやくすっきりと見えてきた。
先人たちの信念が、信が、熱をもって伝わってきた。

停滞の間、原発事故で放射能が降り注ぐというありえるのに想像も
しなかった事が現実の我が身に起きた。いつかはやってくる愛犬の
死のあたりまえが想像を超えて我が身を打った。
それらを含んでさらに混沌としたものの澱が沈み、澄んでいった。
取捨選択がはっきりとし、いのちはぐっと身近に感じられるように
なった。

言い訳もなくなってきたので、せっせと働こうなどと思う。
野鳥が何の疑問もなくこの森に巣作りするように、わたしも素直に
やっていこうと。

戦の前線に立つ立たないに関わり無く人々の精神を傷め病み、弱らせて
しまったことがなによりも大きな犠牲だった昭和の戦争。
反戦小説なのかどっちつかずの「永遠の0」「海賊と呼ばれた男」の
大流行は天袋の奥にしまいこんだ愛国心という古い風呂敷包みの結びを
解く気にさせたのだろうか。
それで病んだ昭和の精神が蘇るのならかえって恐ろしくはないか。
おもしろく読んだことは読んだけれど、テレビ的な後味であった。

負けて根こそぎ挫けたかにしか見えない。

理由をつきつめずに捩じれたうらみつらみを残したまま、風化するに
まかせてきたツケは従軍慰安婦があったなかったと言い合う議論で
白日に晒されもした。けれど、今回もケリのつけかたをわからずじまい。
薄っぺらな表層の浮沈に目耳を奪われて暮らしている。
感動という言葉に酔って、ほんとうの心を自らのぞいたこともない。
左、右、上、下を意識するけれども中を見ない。

日本には中道の伝統があったことを、誰も指し示さないからだ。
自国の伝統を見失うことなく、以前も以後も変わりなく偏らずに
信を貫いた人はほんとうに少ない。
天皇=右翼なぞと連想する人々が圧倒的に多いなか、国防とは何か
に疑問を抱く人はあまりいない。
保田与重郎、小林秀雄は戦争中は古典や美学に没頭した。
言論と筆の力を奪われた時間を、心をよりどころに耐え忍んだのだった。
それは戦後の作品に結実したが、今ほとんど読まれていない。
外国の人が「日本の美意識」に感動する究極の美がそこに顕われて
いるけれども、自国の人は安い感動小説の方しか見向きもしない。
ましてや古典など読まない。
小林秀雄も保田も記紀を措いて日本を語ることはありえないとした。
国民栄誉賞ものなんだが、いや、それは
いらないよ、ほっといてくれと言われそうな気がする。

記紀を深く読むことの困難を解決することの鍵は旧事本紀の全貌を
含めて読み解くことにある。
小林秀雄は具体的にそれとは示していないが、「本居宣長」の行間には、
のど元につっかえている小骨、隠された言霊をつかみ取った人の喜悦の
ようなものが感じられる。
明確に声高にではないからこそ、伝わってくる。

心は一つ、ぶれることのなく、気兼ねやへつらいのない空洞に
入りて、孤独と表裏にある。けれどとても熱いものだ。
真贋を視る眼は心であるとは知れたことだが、その心に辿りつく
のが生きて在る理由、目的なのだが。







コメント
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