(2011.3.12午前10時の散歩)
2011.3.11、その日は東京から森の家へ戻る日でした。
いつものようにギリギリの時間まで働き慌てて支度をし、
昼食用のサンドイッチを買いに行く途中、ちょこちょこと
寄ってきた子猫に目がとまりました。
シマコによく似た小判の紋所をつけているのです。
カメラを持っていなかったのでケータイを急ぎ取り出し
構えたけど、子猫は足元にすり寄ってくるので顔が撮れ
ません。商店街の舗道をねぐらにしている野良ちゃんの
ようで、シマコと似ているというだけで心惹かれて離れ
難いのでした。後ろ髪をひかれながら、バイバイ。

高速道路を走行中、栃木中部あたりで地震発生でした。
地震の被害は山道へ至る途中の崖崩れだけで、幸い我が家
はほとんど被害はなく安堵したのですが、下の村は断水して
いました。
散乱した家の中を片付け、翌朝いつものように散歩に出ました。
地震の後の森の様子を点検する目的もあります。
この時はまだ爆発事故は起きていませんでした。
まだ春遠く雪が残る山道、澄んだ空気を思い切り吸い込んで
ベイビーはヘラヘラ、ご機嫌でした。
彼は生後間もない頃からこの森で育ちましたから、戻ってくると
別人いや別犬のようにはりきります。

福島第一原発一号機が危ないとの情報で正午からは東電記者会見の
ニュースに釘付け、テレビから目を離せないのは初めてでした。
山ではほとんどテレビは観ないし、地デジも映らない場所です。
スカパー契約のニュース番組とラジオが情報源でした。
1号機の水素爆発から3号、2号、4号とたった三日のうちに
次々に爆発しました。福島に住んで10年以上経つのに、原発立地
県だという意識が薄い、というよりほとんどなかったのでした。
原発も核もいらないという考えであったけれど、そこにそれが
あるのだ、という意識はなかったのです。これは意識していない
のと同じことでした。
森は曇りでした。まだ雨は降っていませんでしたが、ここは
別名風の谷(命名したのはうさこですぅ)東西南北の風がこの
上空でぶつかり合います。
ニュースの直後から、ベイビーの散歩時は合羽を着て数分間で用足し
のみ、急いで家へ戻ります。
ベイビーの身体が少しでも濡れたらゴシゴシと拭き、ヒトはマスク、
雨があがっていても合羽をきて外へ出るようにしていました。
締め切った窓から外を眺め、失われてしまったものの大きさに
打ちのめされていました。
私の森、私の庭、私の樹々、私の、私の、とふだんなら私の
とは思わないのに、自分がそれらのものにいかにすがっていたか
生かされてきたかを、嘆きながら過ごしました。
不安というより、ああ、失った、と泣くだけで、何をどうしたら
いいのか、何も思いつきませんでした。
いい歳なのに、まるで放り出された子どものようでした。

本家、庭猫のシマコがこうして縁側にねそべるのを笑いながら
見守っていられた、しあわせな時間。
この後もシマコはここに来続けたのですが、夏を最後に姿を
みせなくなりました。
猫の背丈の空間線量は、あの頃いったいどのくらいあったの
でしょう。思うと身体が震えてきますので、シマコは早くに
逝ってよかったのではないかしら、そんなことさえ思います。
今、すっかり変わってしまった森に前と同じように生きている
動物たち、猫たち、樹々は、これから長い歳月、いわれない
苦しみを受入れなければなりません。
悲しいと声にだしては言うことがない代わりに、少しずつその
姿に、放射能の刻印が表われてくる、それをわたしはまっすぐに
見る勇気が自分に残っているかどうか、自問し続けたのでした。
ツイッターで@SciCom_hayashiさんがこう言いました。
「(福島)の中通りのある方は、もっと多くの人たちが東電に
対して怒りの声をあげてほしいと語っていました。汚染被害、
いままで食べられていた産地のものが食べられなくなる(食べ
たくなくなる)被害を、全国3000万人以上の人が申し立てたら
事態はかわると。」
わたしはそれに対して、「個々の声を一つに、ですね」と返し
ました。多くの人が思っていることは同じだと、何一つ責任を
とらず原発を再稼働することばかり言っている政府、野田首相、
そして逃げ回る東電に怒りを感じないわけがないと思うからです。
「自分はしないが誰かが立ち上がるだろう、誰かがデモに行く
だろう、自分も反対だけれど仕事があるから、きょうは都合が
あるから」と実際には行動しない人が、行動するようになれば
事態は変わります。
誰かがって、それはあなた、あなたが必要なのです、と隣の人に
伝える、伝えられらまた伝える、伝える輪を広げていく。
すでに小さな、中くらいな、いろんな輪っかがあるのですから
それは必ず「事態を変える」大きな一つの輪になるのではないか
そう思っています。
あの日からいくつもの出会いがあって、教えられ、励まされ、
「不安でどうしたらいいかわからない」を卒業することができそうです。
2011.3.11、その日は東京から森の家へ戻る日でした。
いつものようにギリギリの時間まで働き慌てて支度をし、
昼食用のサンドイッチを買いに行く途中、ちょこちょこと
寄ってきた子猫に目がとまりました。
シマコによく似た小判の紋所をつけているのです。
カメラを持っていなかったのでケータイを急ぎ取り出し
構えたけど、子猫は足元にすり寄ってくるので顔が撮れ
ません。商店街の舗道をねぐらにしている野良ちゃんの
ようで、シマコと似ているというだけで心惹かれて離れ
難いのでした。後ろ髪をひかれながら、バイバイ。

高速道路を走行中、栃木中部あたりで地震発生でした。
地震の被害は山道へ至る途中の崖崩れだけで、幸い我が家
はほとんど被害はなく安堵したのですが、下の村は断水して
いました。
散乱した家の中を片付け、翌朝いつものように散歩に出ました。
地震の後の森の様子を点検する目的もあります。
この時はまだ爆発事故は起きていませんでした。
まだ春遠く雪が残る山道、澄んだ空気を思い切り吸い込んで
ベイビーはヘラヘラ、ご機嫌でした。
彼は生後間もない頃からこの森で育ちましたから、戻ってくると
別人いや別犬のようにはりきります。

福島第一原発一号機が危ないとの情報で正午からは東電記者会見の
ニュースに釘付け、テレビから目を離せないのは初めてでした。
山ではほとんどテレビは観ないし、地デジも映らない場所です。
スカパー契約のニュース番組とラジオが情報源でした。
1号機の水素爆発から3号、2号、4号とたった三日のうちに
次々に爆発しました。福島に住んで10年以上経つのに、原発立地
県だという意識が薄い、というよりほとんどなかったのでした。
原発も核もいらないという考えであったけれど、そこにそれが
あるのだ、という意識はなかったのです。これは意識していない
のと同じことでした。
森は曇りでした。まだ雨は降っていませんでしたが、ここは
別名風の谷(命名したのはうさこですぅ)東西南北の風がこの
上空でぶつかり合います。
ニュースの直後から、ベイビーの散歩時は合羽を着て数分間で用足し
のみ、急いで家へ戻ります。
ベイビーの身体が少しでも濡れたらゴシゴシと拭き、ヒトはマスク、
雨があがっていても合羽をきて外へ出るようにしていました。
締め切った窓から外を眺め、失われてしまったものの大きさに
打ちのめされていました。
私の森、私の庭、私の樹々、私の、私の、とふだんなら私の
とは思わないのに、自分がそれらのものにいかにすがっていたか
生かされてきたかを、嘆きながら過ごしました。
不安というより、ああ、失った、と泣くだけで、何をどうしたら
いいのか、何も思いつきませんでした。
いい歳なのに、まるで放り出された子どものようでした。

本家、庭猫のシマコがこうして縁側にねそべるのを笑いながら
見守っていられた、しあわせな時間。
この後もシマコはここに来続けたのですが、夏を最後に姿を
みせなくなりました。
猫の背丈の空間線量は、あの頃いったいどのくらいあったの
でしょう。思うと身体が震えてきますので、シマコは早くに
逝ってよかったのではないかしら、そんなことさえ思います。
今、すっかり変わってしまった森に前と同じように生きている
動物たち、猫たち、樹々は、これから長い歳月、いわれない
苦しみを受入れなければなりません。
悲しいと声にだしては言うことがない代わりに、少しずつその
姿に、放射能の刻印が表われてくる、それをわたしはまっすぐに
見る勇気が自分に残っているかどうか、自問し続けたのでした。
ツイッターで@SciCom_hayashiさんがこう言いました。
「(福島)の中通りのある方は、もっと多くの人たちが東電に
対して怒りの声をあげてほしいと語っていました。汚染被害、
いままで食べられていた産地のものが食べられなくなる(食べ
たくなくなる)被害を、全国3000万人以上の人が申し立てたら
事態はかわると。」
わたしはそれに対して、「個々の声を一つに、ですね」と返し
ました。多くの人が思っていることは同じだと、何一つ責任を
とらず原発を再稼働することばかり言っている政府、野田首相、
そして逃げ回る東電に怒りを感じないわけがないと思うからです。
「自分はしないが誰かが立ち上がるだろう、誰かがデモに行く
だろう、自分も反対だけれど仕事があるから、きょうは都合が
あるから」と実際には行動しない人が、行動するようになれば
事態は変わります。
誰かがって、それはあなた、あなたが必要なのです、と隣の人に
伝える、伝えられらまた伝える、伝える輪を広げていく。
すでに小さな、中くらいな、いろんな輪っかがあるのですから
それは必ず「事態を変える」大きな一つの輪になるのではないか
そう思っています。
あの日からいくつもの出会いがあって、教えられ、励まされ、
「不安でどうしたらいいかわからない」を卒業することができそうです。