職場の方は忙しいながらも、同僚たちの協力もあってどうにかこうにか今年度を乗り切れそうである。そして数字的な部分を見れば、少なくとも今年度は「それなりの成果を上げた」と言ってよさそうに見える。ただこれで思ったことがひとつ。
映画「ベン・ハー」などをご覧になった方はご存知かもしれぬが、古代の海戦において、もっとも一般的な戦術は「船による体当たり攻撃」であった。船の前方、水面下に金属製の突起を取り付け、これを敵の船の側面にぶち当てるのである。当時の船は木造であったから、全速力で側面から金属製の突起を当てれば、大きな穴をあけることができた。こうすればそこから浸水させて、敵の船を沈めることができた。この突起を衝角(しょうかく)という。
Wikipedia「衝角」
やがて大砲が出現し、これを使った撃ち合いが海戦の主流になっていくにつれ、衝角はいつしか時代の彼方に消え去ってしまった。しかしこの衝角、19世紀に入って一回「復活した」時があったのである。軍艦に蒸気機関が導入され、さらに軍艦の表面に鉄板を張り巡らせた装甲艦が出現し始めたころであった。特に衝角の存在を有名にしたのは普墺戦争中にオーストリアとイタリアの間で戦われたリッサ沖海戦である。
Wikipedia「リッサ海戦」
この海戦の最中に、オーストリア艦隊の旗艦「フェルディナンド・マックス」はイタリア艦隊の装甲艦「レ・ディッタリア」に衝角を使った体当たり攻撃を行いこれを撃沈した。海戦もオーストリア海軍の勝利に終わり、衝角攻撃はこれに伴って一気に有名になった。列強の主力艦のほとんどに衝角が装備されるようになったのである。あの日本海軍の「三笠」も例外でなく、艦首には衝角を装備していた。
横須賀その11
しかし、リッサ沖海戦での勝利をよくよく見てみると、いくつかの条件が重なっていたことがわかる。1)イタリア艦隊は戦闘直前になって旗艦を変更したため指揮が混乱していた。戦闘中も艦隊に統一の取れた運動ができず、バラバラに動いていた。2)装甲艦のスピードは当時それほど早くなかった。「フェルディナンド・マックス」も最高速度は12.5ノット(時速23.15km)、イタリア艦隊も同程度の速度であり、体当たりしに行ってもかわされなかった。3)軍艦に積まれた大砲の威力はさほどでなく、当たっても敵艦の装甲を貫通できないことが良くあった。なので衝角で勝負をつけるのが最も確実ということになった--などの条件がそろっていた。これらの条件のうち1つでも欠けていたら、「フェルディナンド・マックス」は敵艦を撃沈できなかったであろう。その後軍艦は次第に高速になり、大砲も強化されていく。しかしこういった条件は無視され、その後もしばらく衝角は軍艦の標準装備であり続けた。
その約30年後に発生した日清戦争の黄海海戦ですべては否定された。日本艦隊には高速艦が多く、特に第一遊撃隊は旗艦「吉野」の最高速度22.5ノット(時速41.67km)をはじめとして全艦が18ノット(時速33.34km)以上を発揮できる高速艦隊であった(清国艦隊の旗艦「定遠」の最高速度は14.5ノット)。日本艦隊はこれを一列縦隊にして高速で走り回らせつつ速射砲を打ちまくる戦術を採用し、衝角をぶつけようとする清国艦隊を翻弄して勝利したのである。
Wikipedia「黄海海戦(日清戦争)」
その後も軍艦の高速化、艦砲の威力の強化の流れは続き、衝角が有効となる時代はもう2度と来なかった。むしろ味方艦同士の衝突事故が発生したときに衝角があると味方の軍艦を沈めてしまうことが多く(上記の「吉野」も最後はこれで沈没している)、次第に装備されなくなっていった。
現在においても、一回「上手くいった」ことから正しい戦訓を導き出すのは存外に難しい。なまじ成功例であるだけに、そこから何かを変更するのは逆に勇気がいるのである。「成功したのにそれを変更し、結果上手く行かなかった」日には何を言われるか分かったものではない。それは全くその通りなのであるが--ただその「成功」の前提条件は何だったのか、その前提条件は今現在も変わらず続いているのか、これは少し立ち止まって考えてみる価値がある。「プランB」というか、前と同じ戦術を取って上手く行かなかった場合の対応策は、常に頭に浮かべておくべきである。
巨人13連敗
映画「ベン・ハー」などをご覧になった方はご存知かもしれぬが、古代の海戦において、もっとも一般的な戦術は「船による体当たり攻撃」であった。船の前方、水面下に金属製の突起を取り付け、これを敵の船の側面にぶち当てるのである。当時の船は木造であったから、全速力で側面から金属製の突起を当てれば、大きな穴をあけることができた。こうすればそこから浸水させて、敵の船を沈めることができた。この突起を衝角(しょうかく)という。
Wikipedia「衝角」
やがて大砲が出現し、これを使った撃ち合いが海戦の主流になっていくにつれ、衝角はいつしか時代の彼方に消え去ってしまった。しかしこの衝角、19世紀に入って一回「復活した」時があったのである。軍艦に蒸気機関が導入され、さらに軍艦の表面に鉄板を張り巡らせた装甲艦が出現し始めたころであった。特に衝角の存在を有名にしたのは普墺戦争中にオーストリアとイタリアの間で戦われたリッサ沖海戦である。
Wikipedia「リッサ海戦」
この海戦の最中に、オーストリア艦隊の旗艦「フェルディナンド・マックス」はイタリア艦隊の装甲艦「レ・ディッタリア」に衝角を使った体当たり攻撃を行いこれを撃沈した。海戦もオーストリア海軍の勝利に終わり、衝角攻撃はこれに伴って一気に有名になった。列強の主力艦のほとんどに衝角が装備されるようになったのである。あの日本海軍の「三笠」も例外でなく、艦首には衝角を装備していた。
横須賀その11
しかし、リッサ沖海戦での勝利をよくよく見てみると、いくつかの条件が重なっていたことがわかる。1)イタリア艦隊は戦闘直前になって旗艦を変更したため指揮が混乱していた。戦闘中も艦隊に統一の取れた運動ができず、バラバラに動いていた。2)装甲艦のスピードは当時それほど早くなかった。「フェルディナンド・マックス」も最高速度は12.5ノット(時速23.15km)、イタリア艦隊も同程度の速度であり、体当たりしに行ってもかわされなかった。3)軍艦に積まれた大砲の威力はさほどでなく、当たっても敵艦の装甲を貫通できないことが良くあった。なので衝角で勝負をつけるのが最も確実ということになった--などの条件がそろっていた。これらの条件のうち1つでも欠けていたら、「フェルディナンド・マックス」は敵艦を撃沈できなかったであろう。その後軍艦は次第に高速になり、大砲も強化されていく。しかしこういった条件は無視され、その後もしばらく衝角は軍艦の標準装備であり続けた。
その約30年後に発生した日清戦争の黄海海戦ですべては否定された。日本艦隊には高速艦が多く、特に第一遊撃隊は旗艦「吉野」の最高速度22.5ノット(時速41.67km)をはじめとして全艦が18ノット(時速33.34km)以上を発揮できる高速艦隊であった(清国艦隊の旗艦「定遠」の最高速度は14.5ノット)。日本艦隊はこれを一列縦隊にして高速で走り回らせつつ速射砲を打ちまくる戦術を採用し、衝角をぶつけようとする清国艦隊を翻弄して勝利したのである。
Wikipedia「黄海海戦(日清戦争)」
その後も軍艦の高速化、艦砲の威力の強化の流れは続き、衝角が有効となる時代はもう2度と来なかった。むしろ味方艦同士の衝突事故が発生したときに衝角があると味方の軍艦を沈めてしまうことが多く(上記の「吉野」も最後はこれで沈没している)、次第に装備されなくなっていった。
現在においても、一回「上手くいった」ことから正しい戦訓を導き出すのは存外に難しい。なまじ成功例であるだけに、そこから何かを変更するのは逆に勇気がいるのである。「成功したのにそれを変更し、結果上手く行かなかった」日には何を言われるか分かったものではない。それは全くその通りなのであるが--ただその「成功」の前提条件は何だったのか、その前提条件は今現在も変わらず続いているのか、これは少し立ち止まって考えてみる価値がある。「プランB」というか、前と同じ戦術を取って上手く行かなかった場合の対応策は、常に頭に浮かべておくべきである。
巨人13連敗