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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

人吉城の桜 「 花と弁当と着物 」

2013-03-26 07:01:06 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



人吉城の桜

























人吉城内にある相良神社







花の絨毯に座っての 「 鶏のてりやき弁当 」 は最高だった。







着物姿の二人










今年の桜は早く咲いたので、
人吉の桜は、もう散り始めていた。
そんなヒラヒラと舞い散る花びらの下で “ 鶏のてりやき弁当 ” を食べた。

花の絨毯に腰を下ろし、
人吉城から景色を眺めながらの弁当は格別だったが・・・
いつも動画の撮影に使っていたサイバーショットの調子が悪かったので、
代打にIXYを使ったら、映像が今イチだった。

そのうちカメラも戻って来ると思うが、
今回の人吉シリーズは御了承願いたい。



「 DOBOKUの本 」

2013-03-26 06:59:23 | 近代化産業遺産・土木遺産






先日、地元北九州のNHKのニュースの中で紹介された 「 DOBOKU ( どぼく ) 」の本。
これは北九州市が3000部だったか?部数限定で販売したもので、
普段見ているのに気付かない遺産やその詳細な部分まで紹介している。
中には未だ知らない近代化遺産などがあったので、
いつの日か探訪に行くのを楽しみにしている。

ちなみに価格は500円と、値段の割にお得な保存版である。





久し振りに登場のムサシ

2013-03-26 06:53:30 | 柴犬 ムサシとピース



筑後川の河川敷で遊ぶムサシ




久し振りに愛犬ムサシの登場である。

写真は、先日の筑後川に行った時のものであるが、
17日に8ヵ月になったばかりのムサシ。
毎日、寝起きを共にしているのでそんなに感じなかったが、
こうして改めて見ると大きくなったと思う。
まだまだヤンチャで幼いムサシだが、利口な犬である。




長崎県南島原市 「 瀬詰埼灯台 」

2013-03-25 00:08:24 | 長崎の灯台



「 瀬詰埼灯台 」






































灯台への専用通路






昔の遠見台に立つ展望台













所在地 / 長崎県南島原市口之津町瀬詰埼 
塗色  / 白色
構造  / 塔形   
構造材質 / コンクリート造
灯質  / 等明暗白光 明3秒暗3秒
光度  / 110カンデラ  
光達距離 / 5.5海里 
頂部までの高さ / 11.17m
平均水面から灯火までの高さ / 13.1m
現用灯器 / LED灯器 ( Ⅲ型白 )
電球 / LED
設置、点灯および業務開始年月日 / S.41.10.31


瀬詰埼灯台は、個人的に好きな灯台である。
以前、口之津港から鬼池港にフェリーで渡る途中に遠望で見た瞬間から、
「 行ってみたい。見てみたい 」 灯台であった。
そして、実際に灯台に行ってみて、
灯台までのグレーチングの桁橋を渡りながらの眺望は、
思ったとおり絵になるものであった。



平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 仲屋金盛ミャーカ 」

2013-03-25 00:05:55 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所













平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


このミャーカは、16世紀初期に宮古の支配者として君臨した仲宗根豊見親の嫡子の
仲屋金盛豊見親を葬った墳墓である。
仲宗根豊見親の亡き後、その家督は嫡子の仲屋金盛に継がれた。
この頃、城辺の友利には金志川那喜多津豊見親が城辺の首領として施政を委ねられていた。
那喜多津は農事を奨励し、神仏を尊敬して祭祀を興すなど仁政を施したので、
領民から篤い人望を得ていた。
仲屋金盛の家臣に仲屋勢頭というという者がいて、那喜多津の勢力が日々強まるのを危惧し、
将来、中曽根家を脅かす存在になると金盛に讒言 ( ざんげん ) した。
那喜多津の名声を好ましく思わぬ金盛は、この讒言を受けて1532年に野原岳に酒宴を張って、
那喜多津を招き、宴たけなわに及ぶ頃、大勢の伏兵を動かし謀計を以って那喜多津を討った。

この 「 野原岳の変 」 は、やがて琉球王府に知れ渡り、金盛を究明する使者が宮古に派遣された。
金盛は王府の責めにあい、前非を悔いて後悔すれども遂に及ばず、
家臣の仲屋勢頭を斬り捨て、自身も自刃し果てた。

『忠導氏仲宗根家家系図家譜』は、この事について 「 金盛・不届きに付き家督を継がず 」 と記している。
以後、豊見親の称号は廃止されたが、王府においても仲宗根豊見親の功績が考慮され、
豊見親の末子・うまのこ ( 玄屯 ) が平良の頭職に任ぜられた。

所在地 : 宮古島市平良 東仲宗根





大分県院内の石橋 11 「 打上橋 」

2013-03-25 00:04:13 | 大分の石橋



打上橋の向うに打上水路橋が見える








現役であるため鋼材とガードレール等で補強・補修がされている







打上橋の下は深い谷になっている







草に覆われた橋脚部分







ところどころ補修が見える輪石








自然の栗石が使われた壁石







間近で見ると石橋の迫力が感じられる






橋の袂にある 「 車矼供養塔 」







石工の名が刻まれた供養塔の側面







供養塔の側面には 「 石工 山袋村 山村藤四郎 」 と刻まれている







橋の下を流れる下流の谷





所在地 /  大分県宇佐市院内町高並 打上 ・ 高並川
架橋  /  文久3年 ( 1863年 ) 5月
石工  /  山村藤四郎
長さ   /  17.8m   幅   /  3.0m
拱矢  /   5.3m   径間  / 11.8m
環厚  /   55㎝   
単一アーチ


打上橋は壁石の上部が破損したこともあって、橋面上に鋼桁を渡して利用している。
右岸の橋の袂には 「 車矼供養塔 」 があり、架設年月や石工名が刻まれている。
石工は明治24年に東谷村(現在の中津市本耶馬渓町)の深瀬橋を架けた、
宇佐山袋の山村藤四郎である。
高並川へ降りて下から見上げると、上の打上橋と上下するように打上水路橋が並んで見え、
こうして上下2段に石橋が見れるのも珍しい旧・院内町では最古の石橋である。


打上橋へのアクセス
打上橋へは、国道387号線を宇佐市内から宇佐別府道路の院内インターを過ぎて、
1キロほど行くと県道664号線に入る道が右にある。
そこから入って500mほど行った右側に水路橋と上下して架かっている。
橋の袂には打上橋の展望所がある。
駐車は町の施設が多いので、邪魔にならない駐車場所に止めた。



沖縄県渡名喜島  「 渡名喜港灯台 」

2013-03-24 04:49:03 | 沖縄の灯台



渡名喜港灯台

































渡名喜港灯台は、渡名喜島の港内に面したターミナルの裏に立っており、
オレンジの屋根の間から白い塔が新鮮に見える。
四角でガッチリした造りは海からの強風にも耐えうるもので、
地上から頂部までの高さは10mで、等明暗白光で明4秒暗4秒の間隔で点灯している。
以前は頂部にある小窓に指向灯が設置されていたが、2003年8月1日に廃止され、
現在は灯台のみになっている。

渡名喜港灯台へのアクセス
渡名喜港灯台へは、那覇の泊港から渡名喜経由の久米島行きで2時間で到着する。
船上からも上部だけは見ることが出来るが、波が強い日は渡名喜港に接岸しないこともある。


灯台表番号 / 7145
ふりがな / となきこうとうだい
標識名称 / 渡名喜港灯台
所在地 / 沖縄県島尻郡渡名喜村(出砂島南端の東南東方約4.0km)
北緯  / 26-22-21 
東経  / 127-08-28 
塗色 / 白色
灯質 / 等明暗白光 明4秒暗4秒
光度 / 590カンデラ
光達距離 / 8.0海里
地上上~頂部の高さ / 10m 
平均水面上~灯火の高さ / 15m 
地上~灯火の高さ / 10m
業務開始年月日 / 昭和53年3月2日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)



宮崎名物 「 肉巻きおにぎり 」

2013-03-24 04:47:11 | グルメ














忘れた頃に 「 早く紹介しなくては 」 と、思いながら
延び延びになった宮崎名産の 「 肉巻きおにぎり」。

「 肉巻きおにぎり 」 は、1997年に宮崎市で開業した
「 元祖にくまき本舗 」 が発祥の店である。
肉巻きおにぎりは 「 元祖にくまき本舗 」 社代表の山口信一が、
1992年に宮崎市西橘通り ( ニシタチ ) にて経営していた居酒屋 「 雑食堂 」 で、
賄い料理として出されたものが原型である。
この肉巻きを従業員だけでなく常連客へ提供したところたちまち爆発的な人気を集め、
1997年の11月、に 「 とりあえず本舗 」 ( 現宮崎本店 ) を開店となった。
その後東京、大阪に出店するなどして、全国的に知名度を高めた。

当初、元祖にくまき本舗のものは三角形のおにぎりを使用していたが、
食べやすくするために、俵型となって定着した。

この肉巻きの良いところは、味がシッカリして “ 冷めてもおいしい ” ところである。
こうして書いていると、また、食べたくなった。




今日の 「 筑後川の桜と添田公園の桜 」

2013-03-23 17:11:17 | 花・鳥・虫・魚・猫










筑後川の堤に咲く桜

























添田公園の桜







添田公園の桜は 「 ほぼ満開 」










昨日で現場の仕事が終わったので、添田公園と筑後川に花見に行って来た。
今年は例年よりも早い桜の開花に、思いつき花見となった。
今年未だ見ぬ人に桜を愛でて頂きたいと思っている。

そうそう、明日は以前から予約していた 「 SL人吉 」 に乗るため人吉まで行って来る。




沖縄県読谷村  ・  おもろ歌唱者終焉の地 「 赤犬子宮 ( アカヌクー ) 」

2013-03-23 07:11:49 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



おもろ歌唱者終焉の地 「 赤犬子宮 」






























赤犬子 ( あかいんこ )

昔、読谷山間切楚辺村の 《 屋嘉 》 に、チラーという大変美しい娘がいた。
その娘には大変可愛がっている赤犬がいた。
ある年、長い早魃が続き村の井戸はすべて枯れ果てて、村人は大変困っていた。

そんなある日、赤犬が全身ずぶ濡れになって戻ってきた。
赤犬はチラーの前で吠え立てて、着物の裾を口でくわえて引っ張って行った。
この日照りに犬がずぶ濡れになってくるのはおかしいと思ったチラーは、さっそく後について行くと、
その赤犬は南側の洞窟に入って行った。
しばらくすると、赤犬は再びずぶ濡れになって戻ってきたので、
びっくりしたチラーは急いで家に戻り、そのことをみんなに話した。
それから洞窟の中に水があることが分かり、早魃をしのぐことができた。
これが暗川発見の由来である。

それ以前は楚辺は水不足のためにミーハガーが多かった。
しかし、赤犬が暗川を発見してからは、楚辺にはミーハガーはいなくなってしまった。


又、この美しいチラーは、村中の若者の憧れの的であったが、
チラーの心を見事に射止めたのは、 《 大屋 》 のカマーであった。
ところが二人の幸せそうな様子を妬んだ村のある若者が、嫉妬のあまりカマーを殺してしまった。
チラーは愛するカマーを失った悲しさのあまり、毎日泣いて暮らしていた。
そんなチラーの悲しい心を慰めてくれたのが、以前から可愛がっていた赤犬であった。

カマーを殺した若者は、チラーが暗川へ水汲みに行くことを知っていた。
かねてから機会を狙っていた若者は、ある日、暗川に先回りして、チラーがくるのを待ち構えていた。
何も知らないチラーは、暗川の入り口付近までさしかかった時に、
急に気分が悪くなり、その場に座り込んでしまった。
そこへたまたま通りかかったのが若者の妹であった。
そこに座り込んでいるチラーを見て、いたわって家に帰し、代わりに自分が暗川へ水汲みに行った。

なかで待ち構えていた若者は、入ってきた女をてっきりチラーだと思い、無理矢理に犯してしまった。
やがて外に出て見ると、なんと二人は兄妹であることに気付いた。
恥ずかしさと恐ろしさのあまりに、その兄妹はその場で自害してしまった。

その頃、チラーはカマーの子を身ごもっていた。
しかし、カマーは親が決めた縁談でもないし、今はすでに亡き人である。
身ごもっているとはおかしい、赤犬の子を身ごもってしまったんでは、という噂がたちまち村中に広まった。
そして、とうとう村にいることもできずに、チラーは行方をくらましてしまった。

その後、何ヵ年か後に両親は、チラーが伊計島にわたっているという噂を耳にして、娘を訪ねて行った。
しかし、両親に逢うことを恥じたチラーは、男の子を残したまま自害してしまった。
両親は悲しみながら、我が娘をその地に葬って、男の子は一緒に楚辺村に連れ帰った。
この子が後の赤犬子である。

成人した赤犬子は、ポタボタと雨の落ちる音を聞いてひらめき、
クバの葉柄で棹を作り、馬の尾を弦にして、三線を考え出した。
その後赤犬子は三線を弾きながら、歌をうたって村々を旅するのであった。

その旅の途中、北谷村にさしかかった時に、喉が乾いたので、水を乞うためにある農家に立ち寄った。
するとそこには4歳くらいの子どもがいた。
「 おまえのお父さんは何処に行ったかごと尋ねると、 「 ユンヌミ取りに。 」 と答えた。
今度は 「 おまえのお母さんは何処に行ったか。 」 と尋ねると、
「 冬青草 夏立枯かりに。 」 と答えた。

ところがさすがの赤犬子も意味が分からずに、どういうことかと尋ねたら、
「 お父さんは松明り ( トゥブシ ) 取りに。 」 、 「 お母さんは麦刈りに 」 と答えた。
すっかり感心した赤犬子は、再びその農家を訪ねて両親に、
「 あなた方の子は、普通の人より特に優れた知能を持っているから将来は坊主にしてやれ。 」 と
言い残して去って行った。
この子が後の 「 北谷長老 」 であったという。

それから赤犬子が中城の安谷屋を旅している時に、大変喉が渇いた。
近くを通りがかった子どもに、 「 大根をくれ 」 と言うと、
持っていた大根の葉っぱも取り、皮も剥いで、食べやすいように切って赤犬子に渡した。
「 この子どもはきっと偉い人になるだろう。 」 と言ったら、その子どもは後の中城若松になった。

又、国頭方面を旅している時に、恩納村瀬良垣にさしかかった。
その時におなかがすいていたので、海辺で船普請をしている船大工に物乞いをしたところ、
むげに断わられてしまった。
それで瀬良垣の船を、 「 瀬良垣水船 」 と名付けた。

その足で谷茶に向い、そこでも同じように物乞いをした。
するそこの船大工は、丁寧にもてなしてくれた。
それで谷茶の船を、 「 谷茶速船 」 と名付けた。
その後、赤犬子が予言した通りに、瀬良垣の船は沈んでしまい、谷茶の船は爽快に水を切って走った。

そのことに大変怒ってしまった瀬良垣の船大工たちは、赤犬子を殺そうと後を追ってきた。
そこで現在の赤犬子宮のある場所に追い詰められた赤犬子は、そこの岩に杖を立てて昇天してしまった。

又、赤犬子はその他に唐から麦・豆・粟・ニービラなどを持ち帰り、それを沖縄中に広めた。
赤犬子が嘉手納を歩いている時に、道も悪く疲れていたので転んでニーピラを落としてしまった。
それで赤犬子は、 「 この土地にはニ-ピラは生えるな。 」 と言ったので、
嘉手納にはニ-ピラは生えなくなったということである。

また、赤犬子は三線歌謡の創始者と伝えられるが、おもろには三線は出て来ないので疑問である。
琉歌の 「 歌と三味線の昔始まりや犬子音あがりの神の御作 」 というのは後世の作詞である。

楚辺では、昔から赤犬子を琉球古典音楽の始祖、或いは五穀豊穣の神として奉り、
毎年9月20日には、 「 赤犬子スーギ 」  として盛大に執り行っている。




琉球泡盛 「 北谷長老 」

2013-03-23 07:07:12 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒






北谷長老のモデルとなった長老は、
慶長の始め北谷の地に生また高僧として名高い(南陽紹弘禅師)は、
琉球に初めて臨済宗妙心寺派の禅宗を伝え、
生涯を民に尽くし尊崇されたといわれている。
病の人あらば薬餌を与えて癒し、祈祷を捧げ厄災を除き、自ら農事に親しんだ。
悠久の時を越え、滋味深き銘酒として甦った。
そんな北谷長老は、チョコのような甘い香りとソフトな味わいが
微妙な変化で楽しめる古酒である。

沖縄本島で今、若者を中心に活気づく町、北谷町。
米軍飛行場跡地から急成長を見せる注目のベイサイドエリア。
その賑やかなベイサイドエリアから少し離れ、
小高い住宅街に位置する北谷長老酒造 ( 旧・玉那覇酒造工場 ) 。
小さな構えで思わず通り過ぎてしまうほどの酒造所だが、
創業150年の伝統を持つ由緒ある酒造所である。




大分県院内の石橋 10 「 櫛野橋 」

2013-03-23 07:05:23 | 大分の石橋























































所在地 /  大分県宇佐市院内町櫛野 ・ 恵良川
架橋  /  大正12年9月
石工  /  不明
長さ   /  38.9m   幅   /  5.0m
拱矢  /   6.9m   径間  / 24.1m
環厚  /   75㎝   
単一アーチ



櫛野橋は、かつての国道387号線の橋であったが、現在は旧道になっている。
恵良川の谷に架かる橋の下が深みになっているため単一アーチで施工されている。
そのため川幅に合わせた長いスパンで施工されている。
この橋の袂付近には櫛野城跡だったことから、その碑と説明板がある。

櫛野橋へのアクセス
櫛野橋へは、国道387号線を宇佐方面から宇佐別府道路の院内インターを過ぎて
500mほど行った集落の中にある。
駐車は、橋の袂の 「 櫛野城跡 」 近くの広くなった場所に駐車した。



長崎県南島原市 ・ 口之津 「 なんばん大橋 」

2013-03-22 00:07:23 | 橋 ・ 鉄橋 ・ ダム ・ 隧道・道



口之津 「 南蛮大橋 」

























遠くからでも色と形が目を惹く「なんばん大橋」は、
口之津湾の入口付近にある赤いアーチ橋である。
海の資料館 ( 歴史民俗資料館も併設 )や旧税関跡 へ
港をまたいで直接行けるように架けられている。

橋の幅員が狭いので対向車が来ると離合が大変だが、
個人的には好きな橋である。

形式 / 鋼アーチ橋
完成 / 1991年


渡名喜港に入港する 「 ニュー くめしま 」

2013-03-22 00:05:40 | 船 ・ フェリー ・ 港



那覇ー渡名喜島ー久米島を結ぶ 「ニューくめしま」







渡名喜港に停泊中の 「 ニュー くめしま 」






渡名喜島









フェリーでの渡名喜島への直行便はなく、
久米島への便で渡名喜島を経由する形になっている。
那覇の泊港から約2時間の船旅だが、
冬場は北風が強く、2~3mの波に揺られながらの航海になる。
那覇空港から飛行機も出ているが、灯台や島を見て行くのが好きなので、
2時間もあっという間であった。

以前、久米島にレンタカーを積んで行ったことがあるが、
船酔いでフラフラしたカラダで運転したのを憶えている。

那覇の泊港に行くと色んな行き先の船が停泊しているので、
どの船を見ても離島へ行きたくなるのである。



大分県院内の石橋 9 「 香下神社稲荷橋 」

2013-03-22 00:03:29 | 大分の石橋



下流側から見た稲荷橋






上流側から見た稲荷橋


















稲荷神社の鳥居



所在地 /  大分県宇佐市院内町香下 ・ 妙見川支流の谷川
架橋  /  大正4年
石工  /  不明
長さ   /  160㎝    幅   /   90㎝
拱矢  /   90㎝     径間  /  100㎝
桁厚  /   24㎝   
一枚自然板橋



香下神社稲荷橋は、香下神社の左側の山の中にある稲荷神社に行くための橋で、
大きな自然石が橋として使われている。谷川自体は上流になるため幅は狭く、
大きな自然石がゴロゴロとしている。
橋は、香下神社からお稲荷さんへの参拝道として役割を果たしていたのであろう。


香下神社稲荷橋へのアクセス
香下神社稲荷橋へは、香下神社第一神橋の上流約150mにあるため、
香下神社第一神橋を参考にしてもらいたい。