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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県朝倉市  『 天狗笑 ( てんぐわらい ) 』  豊島与志雄

2017-01-01 13:32:22 | 文学・文化・映画作品



豊島与志雄出生之地碑






福岡県朝倉市甘木出身の豊島与志雄は、
ヴィクトル・ユーゴーの 「 レ・ミゼラブル 」 や、
ロマン・ロランの 「 ジャン・クリストフ 」 の翻訳家として知られているほか、
幻想味を帯びた心理小説や戯曲、随筆。
さらには評論などに多くの作品を残している。
戦後は日本ペンクラブの再建にも尽力を注いだ。

『 天狗笑 』 は、大正15年 ( 1926年 ) に、
「 赤い鳥 」 に発表されたもので、
自然豊かな村を舞台に、子どもたちが人間の格好をした天狗と
無邪気に遊ぶ光景を描いた童話である。
天狗という異形のものを自然の神秘として表し、
無垢な心と先入観にとらわれない自由な精神をうたっている。


「 むかし、ある山裾に、小さな村がありました。
村のうしろは、大きな森から山になってゐまして、
前は、広い平野に美しい小川が流れてゐました。
村の人たちは、平野をひらいて穀物や野菜を作ったり、
野原に牛や馬を飼ったりして、
たのしく平和にくらしてゐました 」


一人息子だった与志雄は、邸内の樹齢数百年の楠の大木でよく遊び、
寝るときは祖母から昔話を聞いて育った。
後年、彼はそのことを 「 中に出てくるものは、
人間をはじめ、鳥や獣や虫や魚など、さまざまでした。
それらの話を思い出すと、今でもあたたまるかんじがします 」 と記している。

与志雄が生まれた旧朝倉郡福田村 ( 現・朝倉市小隈 ) は、
佐田川と小石原川に挟まれた穀倉地帯で、
『 天狗笑 』 の舞台となった場所である。

そんな与志雄の生家横には 「 生誕碑 」 が建っている。


豊島与志雄 ( とよしまよしお ) は、
福岡県朝倉郡福田村大字小隈(現 朝倉市小隈)の士族の家に生まれる。
福岡県中学修猷館、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部仏文科卒業。
東京帝大在学中の1914年(大正3年)に、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと
第3次『新思潮』を刊行し、その創刊号に処女作となる「湖水と彼等」を寄稿し注目される。
1915年(大正4年)、東京帝大卒業。
1917年(大正6年)、生活のため、新潮社に中村武羅夫を訪ねて仕事を貰ったのが、
『レ・ミゼラブル』の翻訳であった。
これがベストセラーになり、大金を得た。
この翻訳は今も何度か改訂を経て岩波文庫で読み継がれている名訳である。
こうして、翻訳が主で創作が従の活動が続く。

1923年(大正12年)、法政大学法文学部教授となる。
1925年から再び旺盛な創作活動が始まる。
1927年(昭和2年)〜1928年(同3年)、『レ・ミゼラブル』の再刊で再び印税多量に入る。
1932年(昭和7年)、明治大学文芸科教授となる。
1934年(昭和9年)、法政大学で野上豊一郎と森田草平の対立激化、解雇される。
1936年(昭和11年)、河出書房の編集顧問となる。
1938年(昭和13年)、再び法政大学教授となる。

戦後は、第二次世界大戦により活動を停止していた日本ペン倶楽部(当時の会名)の再建に尽力し、
1947年2月、再建された日本ペンクラブの幹事長に就任する。
1949年(昭和24年)、法政・明治両大学を辞職、法政大学名誉教授。
同年、日本芸術院会員となる。
1952年(昭和27年)、旧訳『ジャン・クリストフ』が売れ、莫大な印税が入る。
1955年(昭和30年)6月18日、心筋梗塞のため死去。享年64。

主な著書に、 「 生あらば 」 「 野ざらし 」 「 山吹の花 」 などがある。



福岡県朝倉市  『 帰 省 』  宮崎湖処子 

2016-12-31 13:13:31 | 文学・文化・映画作品



福岡県朝倉市の札の辻公民館にある宮崎湖処子の 「 帰省 」 の文学碑





宮崎湖処子は、北村透谷と並ぶ
明治20年 ( 1887年 ) 代後半を代表する詩人の一人である。
『 帰省 』 ( 民友社 ) は、明治22年 ( 1889年 ) 8月、
東京から帰郷したときの感激を詩を挿入して書いた抒情的散文である。
生まれ故郷・三奈木 ( みなぎ ) 現・朝倉市甘木への憧憬にあふれており、
翌年8月に出版され、当時多くの読者に愛読された。
近代化が進んだ東京を批判し、故郷を美化して描いたが、
湖処子自身は故郷に帰る事ができないという矛盾の中で、
故郷喪失者という意識を抱き続けることとなった。


このうるはしき天地 ( あめつち ) に、
父よ安かれ母も待て、
学びの業 ( わざ ) の成る時に、
錦飾りて帰るまで、



この詩は 『 帰省 』 第一章に入れられた自作詩の一節であり、
昭和41年 ( 1966年 ) 、三奈木の札の辻公民館敷地内に建立された
文学碑に刻まれている。

湖処子は、イギリスの湖畔詩人、ワーズワースの詩と生涯を
「 ヲルヅヲルス 」 ( 明治26年 ) にまとめて、
我が国に初めて紹介した人でもある。


朝倉市甘木の三奈木は、集落の中に清冽な小川がめぐり、
静寂そのものの田園地帯である。
広い平野を清らかな佐田川が流れ、
土手道や屋形原橋付近は湖処子の 『 帰省 』 当時を思わせる。



  帰省の前に帰省なし、帰省の後に帰省なし 

宮崎湖処子 ( こしょし ) の本名は宮崎八百吉と言い、
出身地は、福岡藩大老三奈木黒田氏の別邸・播磨屋敷から近い
現在の朝倉市三奈木札の辻。
宮崎仁平の二男として、文久3年 ( 1863年 ) 9月20日に生まれた。
 
湖処子のほかに、愛郷学人などの別号があり、
一時は末兼姓を名乗っていた。
宮崎家は、口碑によれば、秋月城主秋月種実の侍大将・三奈木弥平次の末裔で、
農業を営む旧家であった。
弟の右夫は詩人で、号を亡洋と言い著書に 「 貧の朋友 」 がある。


 「 帰省の前に帰省なし、帰省の後に帰省なし 」 とまで言われ、
多くの若者の心を掴み、
当時のベストセラーになった 「 帰省 」 誕生の経緯を略述。

父の死にも帰省しなかった湖処子は、父の一周忌に、兄の強い催促で帰省。
帰省にあたって一抹の不安が脳裏を掠める。
というのも、上京する時政治家になることが夢であったが、
今の自分を直視するとき、
果たして家族をはじめ親戚知人は暖かく迎えてくれるであろうか
という心配があったのだろう。

しかし、帰省してみると、不安とは裏腹に人情と平和のすめる故郷があった。
都会とは別世界の田園の理想像桃源郷の故郷の存在、
母の実家佐田安谷の美しい自然もそのまま、
後の湖処子夫人となる女性の優しいもてなし、
6年ぶりの帰郷は、湖処子の心に故郷礼讃を育んだ。
これがきっかけで翌年明治23年 ( 1890年 )6月 、
「 帰省 」 として民友社より刊行され、
故郷を賛美する田園文学の最高峰として絶賛をあびたのである。



『 帰 郷 』  海老沢泰久

2016-12-30 03:29:06 | 文学・文化・映画作品








栃木県の田舎の小さな町工場で自動車エンジンの組立作業員が、
その技術を買われてF-1のメカニックのチームに入り、
イギリスへ行き、その腕を磨いていくが、
3年の任期を終えて帰ると、F-1後遺症が彼を気難しくさせる。
そんな心の変化を描いている。

この本を読んだのは20年以上も前のことだが、
それ以来、 「 帰郷 」 のことをいつかブログに書こうと思っていた。
そして本棚から捜し出して、再び手に取って読んでみると、
ところどころに読んだ文面の記憶と、
その当時の自分に重ね合わせた心情が甦ってきた。



福岡県小郡市  『 文学散歩 ( 第24巻 ) 』  野田宇太郎

2016-12-05 16:05:14 | 文学・文化・映画作品



三井高校の近くにある 「 水鳥 」 の詩碑









野田宇太郎の経歴






松崎城跡





「 文学散歩 」 という言葉は、詩人で評論家の野田宇太郎の創案である。
昭和26年 ( 1951年 ) に、日本読売新聞に 「 新東京文学散歩 」 を連載したことに始まり、
『 九州文学散歩 』  『 関西文学散歩 』 『 四国文学散歩 ー 愛媛 』 などをまとめて、
『 文学散歩 』 ( 全24巻25冊、別巻4冊 ) が、昭和52年に文一総合出版が刊行された。

『 文学散歩 』 ( 第24巻 ) では、小倉、若松、柳川、福岡、久留米、朝倉などの文学者、
画家ゆかりの場所などを綿密に踏査し、紹介している。

野田の故郷である 「 筑後松崎 」 については、
「 わたくしの故郷は筑後路の旧宿場で、‥・・宿場町の形は今でもはっきりと残り、
北から上町、中町、下町と分かれたその下町の入口には、
御番所後の古い石垣が残っている 」 と紹介している。

筑前山家宿 ( 現・筑紫野市山家 ) で分岐した薩摩街道は、
松崎宿 ( 現・小郡市松崎 ) を通って南へ向かう。
今も松崎は古い町並みを残し、松崎城跡、茶屋跡、人足長屋跡などの古い石垣が残っている。
また、野田が幼年期を過ごした土地の近くには 『 水鳥 』 の詩碑がある。



昭和62年にオープンした 「 野田宇太郎文学資料館 」 は、
小郡市出身の詩人、野田宇太郎の生涯と文学を、
豊富な写真パネルと資料の対比により紹介している。
レファレンスルームには、近代文学の名著の初版本や、
明治、大正の文芸雑誌、「文学散歩」により収集された新たな文献、
古地図、記録写真など、約3万点の資料が所蔵されている。
当館は、小郡市民ふれあい広場 ( 文化会館・図書館 ) の中に位置している。
年1回企画展があり、10月に 「 水鳥 」 の詩碑の前で生誕祭が催される。


野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、
日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。

福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。
朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。
1930年(昭和5年)、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始する。
1933年(昭和8年)、詩集『北の部屋』を出版。
1936年(昭和11年)、安西均や丸山豊らと同人誌『糧』を創刊。
1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。
その後第一書房、河出書房を経て、
1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。
衆議院議員の羽田武嗣郎(羽田孜の父)と交友があり、彼が創業した羽田書店の顧問も務めた。

1951年(昭和26年)、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載、
その単行本はベストセラーとなり「文学散歩」のジャンルを確立した。
1976年(昭和51年)には『日本耽美派文学の誕生』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。
その後は博物館明治村の常務理事を務め、
1977年(昭和52年)には明治村賞と紫綬褒章を受賞。
1978年(昭和53年)には中西悟堂らと同人誌『連峰』を創刊。



福岡県久留米市 ・ 混声合唱組曲 『 筑後川 』  丸山 豊 作詞

2016-11-17 14:40:41 | 文学・文化・映画作品



雨あがりの筑後川 








丸山 豊 詩碑 「 新春 」 ( 久留米市百年公園内 )






昭和43年 ( 1968年 ) に、
久留米音協合唱団の設立5周年を記念して作られたのが、
混声合唱組曲 『 筑後川 』 である。
作詞は丸山 豊、作曲は團伊玖磨によって作られた。

久留米音協合唱団は、昭和39年 ( 1964年 ) に
地元音楽愛好家の熱意と支援によって、
久留米を代表する合唱団として設立されたものである。


いま うまれたばかりの川
山の光は 小鳥のうぶ毛の匂


で、歌い出し、

筑後平野の百万の生活の幸を
祈りながら川は下る
有明の海へ 筑後川筑後川
その終曲 ( フィナーレ )  あゝ


で終わる全5曲の組曲となっている。

丸山 豊は、筑後川が阿蘇の外輪山のふもとに生まれ、
筑後平野を大きく横断し、九州市の大河に育って悠々として、
有明海に注いでいくまでの様を、
ある時は清らかに、また激しく、
そして最後はおおらかに歌い上げている。



丸山 豊 ( まるやま ゆたか、1915年3月30日 - 1989年8月8日 ) は日本の医師、詩人。
日本の現代詩における代表的詩人の一人で、福岡県八女郡広川町出身。
福岡県中学明善校在学中より野田宇太郎らと同人誌に参加。
第一早稲田高等学院に進学するも中退し、
父と同じく医学を志して昭和12年、九州医学専門学校卒業。

1941年以降、軍医として中国、フィリピン、ビルマを転戦した。
大尉で復員後の昭和21年、久留米市にて豊泉会丸山病院を開業。
医師として働く傍ら詩作を行う。
1947年、安西均、野田宇太郎らと詩誌「母音」を創刊。
谷川雁、川崎洋、有田忠郎ら九州の詩人たちが参加した。
1973年第1回久留米市文化賞受賞、1974年第33回西日本文化賞受賞。
1989年、日本現代詩人会主宰の先達詩人顕彰受賞。
1963年にはアラゴン主宰の『フランス文学』誌上で
「十人の日本詩人」の一人に選ばれるなど、国際的評価も高い。
氏の功績を記念して1992年に「丸山豊記念現代詩賞」がつくられ、
谷川俊太郎(第1回)、新川和江(第3回)、まどみちお(第11回)らが受賞している。



福岡県田川市 ・ 大牟田市  『 炭坑節 』

2016-11-08 11:24:21 | 文学・文化・映画作品



田川市炭坑記念公園内にある 「 炭坑節之碑 」









歌詞のモデルになった 「 大煙突 」








石炭記念公園の入り口付近に建つ 「 炭坑節発祥の地 」 碑













6日の日曜日に、田川市の石炭記念公園広場で行われた 「 炭坑節まつり 」。
約1万人が総踊りで炭坑節を踊ったという。
そのくらい筑豊地区では地域に根づいた労働歌である。


  月が出た出た 月が出た
  伊田の炭坑の上に出た
  あんまり煙突が高いので
  さぞやお月さん煙たかろ
  サノヨイヨイ



このよく知られた歌詞で始まる 「 炭坑節 」 の起源は、
炭坑の作業歌 ( 炭坑唄 ) の一つだった 『 選炭節 』 である。
炭坑唄には、「 採炭節 」 、 「 石刀 ( せっとう ) 唄 」 、
「 小炭坑 ( こやま ) 唄 」 、「 南蛮 ( なんば ) 唄 」 に、
最初に紹介した 「 選炭節 」 などがあり、
激しい労働を少しでも和らげようと、各炭鉱でさまざまな唄が歌われていた。

選炭は、掘り出された原炭から燃えないボタを取り除き、
使える石炭を選別する作業である。
明治40年 ( 1907年 ) ごろ、
それまでほとんど手作業で 「 場打ち選炭 」 と呼ばれていたものから、
ベルトコンベアを使った 「 機械選炭 」 に替わって行った。

「 炭坑節 」 は、この機会選炭の速くなったテンポに合わせた
『 選炭節 』 が元歌だという。

戦後、「炭坑節」の発祥は筑豊か?大牟田か?の ” ふるさと論争 ” があった。
しかし、歌詞の原型から田川地方で歌われた 『 選炭節 』 が起源だと、
明らかになった。

昭和の初めには、ラジオを通じて全国的に広まり、
一般にも歌われるようになった。
それが劇的なブームとなったのは、戦後の石炭景気で沸いた時期で、
そのとき大牟田がブームの震源地となり、
全国で盆踊り大会などで愛唱されるようになった。



伊集院 静さん 「 紫綬褒章 」

2016-11-02 11:11:50 | 文学・文化・映画作品









作家、伊集院静さんが紫綬褒章を受けることになった。
当初は、受章を断ろうと思ったのだというが、
しかし故郷山口県防府市に住む95歳になる母に、
「 ( 辞退は ) 許しません 」 と言われて翻意したという。

「 あの子のカーネーション 」 からだから・・・
伊集院さんのファンになって、かれこれ25年ほどになる。
「 受け月 」 で直木賞を受賞した時も嬉しかったが、
今回の紫綬褒章は、特別な感動があった。
ボブ・ディランのノーベル文学賞ではないが、
自伝的な小説が認められた証だと思う。

それに自伝的な小説の中に
亡くなった弟さんのことが多く書かれていたから、
それを含めて日の目を見た気がした。


伊集院さんは、1992年 「 受け月 」 で直木賞。
防府市の佐波山をテーマにした 「 峠の声 」 や
自伝的な 「 海峡 」 3部作。
そして柴田錬三郎賞の 「 機関車先生 」 は、
剣道を通じた教師と生徒を描いた。
また、亡くなった元妻の夏目雅子さんをモデルにした 「 乳房 」 など、
人々の哀切をすくい上げる。


4歳の時、 「 60歳まで生きたら冠をかぶる ( 偉くなる ) 」 と占師に言われ、
そこで 「 60歳から仕事を倍にしよう 」 と決め、
今までの約4倍の仕事をこなしている。
歯に衣 ( きぬ ) 着せぬエッセー 「 大人の流儀 」 がヒットし、
「 星月夜 」 などミステリーにも挑戦するほど、
月に原稿用紙600枚執筆している。
それに近々、歴史小説にも挑むという。

66歳を過ぎてなおバイタリティーがあり、勢力的である。

※ ちなみに機関車先生では、当時現役の競輪選手の名が、
吉岡誠吾や佐古校長などにアレンジされて使われていた。




北九州市門司区  『 舟みえて霧も迫門 ( せと ) こすあらしかな 』 宗祇

2016-10-30 08:52:13 | 文学・文化・映画作品



和布刈の句塚付近から関門海峡を望む































宗祇は室町時代の代表的な連歌師である。
応仁元年 ( 1467年 ) 応仁の乱が起こり京都が騒然になると、
関東で乱を避け、漢詩と和歌、連歌を学んだ。
その後、連歌指導のため各地遍歴の旅をし、連歌を芸術的に高めた。
豊前、筑前を旅した時に綴った紀行文が 『 筑紫道記 』 である。

文明12年 ( 1480年 ) 周防国(山口県)の大名・大内政弘の招きで周防へ下った宗祇は、
さらにその庇護のもと周防を発ち、赤間関 ( 下関 ) に着く。
『 筑紫道記 』に 「 赤間関はやとものわたりにいたる。
潮のゆきかひ矢のごとくして、音に聞しにかはらず 」 ( 同9月9日 ) とある。

そして九州に入り、門司城主・門司氏の居館に泊まる。
9月11日、寺で連歌の会が催され、


  舟みえて霧も迫門 ( せと ) こすあらしかな 


と発句する。

難所の関門海峡を舟で渡るときの句であり、
霧模様のなか、激しく揺れる小舟で海峡を渡るさまがありありと伝わって来る。

関門海峡は、本州と九州を分ける海峡で、
東口の 「 早鞆の瀬戸 」 は幅約800mで最も狭く、
潮の流れが速い時は、時速約10ノットで流れることもある。
潮流は満潮時には、東の周防灘から海峡に入り、
干潮時には、西の響灘から東へと流れる。

和布刈神社は、関門橋門司側の橋桁の近くにあり、
航行安全のために神功皇后が創建したと言われている。
旧暦元旦の午前二時ごろに、神社下の海で神官が新若布を刈り取り、
神前に捧げる 「 和布刈神事 」 が1300年以上も続けられている。

そんな和布刈神社の横にある早鞆稲荷大明神横に、
関門海峡と源平合戦の壇之浦を望むように宗祇の句碑が建っている。



宗祇 ( そうぎ ) 、 姓は飯尾。
応永28年 ( 1421年 ) に生まれた。
生まれは近江国 ( 現・滋賀県 ) 、紀伊国 ( 現・和歌山県 ) の両説がある。
30歳の頃から連歌の道に入り、宗砌、心敬に学ぶ。
応仁の乱のときは、主に関東におり 「 古今和歌集 」 を学び、
「 吾妻問答 」 「 白川紀行 」 などを著す。
文明5年 ( 1473年 ) 京都に帰り 「 老のすさみ 」 「 筑紫道記 」 などを著し、
明応4年 ( 1495年 ) 「 新撰菟玖波集 」 を編集した。
文亀2年 ( 1502年 ) 81歳で没した。

主な作品に、歌集 「 宗祇法師集 」 、句集 「 萓草 ( わすれくさ ) 」 、
連歌論書 「 連歌心付之事 」 などがある。


福岡県福津市  ・  『 海辺の民俗学 』   石井 忠

2016-10-16 08:11:41 | 文学・文化・映画作品
















貝殻をはじめ、植物の種子、ガラス瓶、イルカの骨に亀の甲羅、
さらにヤシの実などと、海辺にはさまざまな物が流れ着いている。
宗像市福間町に住む石井 忠は、これら玄界灘沿岸の漂着物に興味を抱き、
その採集と研究を続けている。

『 海辺の民俗学 』 ( 平成四年 ・ 新潮社 ) では、
黒潮の出発点であるフィリピンや南方の島々をも巡り歩き、
玄界灘沿岸の漂着物と重ね合わせ、
さまざまな角度からの考察を試みている。

流れ寄ったヤシの実に、日本人の祖先の縄文人が、
この見知らぬ植物を不思議そうに眺めながら工夫して、
容器として使った暮らしを思い描き、
玄界灘沿岸で生きている化石といわれるオウムガイと出会った時は、
寒風の中で 「 拾った、拾った 」 と叫び、さらに海岸を探し続けた。


 「 私の住んでいる玄海沿岸は、・・・・・・突き出た岬や埼、
鼻といった岩礁部と長い砂浜の海岸線で、
それが交互に連なり玄界灘に突き出ていて、
丁度、 「 ひろげたパラソルのふち 」 のように見える。
そして沿岸は数千年の間に砂が堆積し、玄海砂丘と称される砂丘を形成している 」


作者が漂着物を求めて歩く海岸は、
志賀島から遠賀川河口西岸の芦屋まで56キロにおよぶ。
そのほぼ中間に当たる福間海岸は、
遠くからウインドサーフィンや海水浴を楽しみにやって来る。
また、津屋崎の漁港の波止は格好の釣り場として賑わっている。



海岸に打ち上がる漂着物を通して歴史や文化を読み解く漂着物学を確立し、
漂着物学会の初代会長を務めた石井 忠が、
今年5月30日に心不全のため死去した。78歳だった。

石井 忠は、昭和12年、福岡市生まれ。
昭和36年、国学院大学史学科を卒業後、高校で日本史の教鞭をとる。
漂着物との出会いは1968年、
娘と古賀の海岸を歩いていて娘が拾った貝殻がきっかけだった。
名前も分からず図鑑で調べるなどしているうちに漂着物に魅せられていった。
主な著書に 「 漂着物 ( よりもの ) の博物誌 」 「 漂着物辞典 」 などがある。



福岡県宗像市  ・ 呑海山 隣船寺 「 山頭火 唯一生前に建てられた句碑 」

2016-10-15 08:09:51 | 文学・文化・映画作品




































呑海山隣船寺は室町時代に宗像大富司家武将占部甲斐守により創建されたもので、
本山は千利休等茶道ゆかりの京都の大徳寺である。



 「 松はみな枝垂れて南無観世音 」 


山頭火がこの寺を訪れた当時の境内には、
「 潜龍松 」 と呼ばれる老松が四方に枝を伸ばしていた。
その松の向かい側には今も地元の信仰の篤い観音堂があり、
山頭火の出家の地でもある 「 味取観音 」 での句が刻まれた。

漂泊の俳人種田山頭火が隣船寺16世宗俊和尚と親交を深め、
その証として山頭火生存中唯一の句碑が寺に残したわけである。
その句碑は昭和8年の秋に建立され、
句碑のために山頭火が自ら揮毫した唯一の句碑である。



所在地  /  福岡県宗像市神湊1183


北九州市門司区  『 バナナのたたき売り 』

2016-09-28 04:41:32 | 文学・文化・映画作品



バナナの叩き売り発祥の地









旧門司税関













バナナが日本に輸入されたのは、明治36年 ( 1903 ) ごろ、
台湾の基隆 ( キールン ) の商人が神戸に持ち込んだのが始まりであるが、
数年後には地理的に近い門司港に大量に荷揚げされるようになり、市場が設けられた。
ところが、船で輸送中に蒸れたもの ( 籠熟れ ) が生じる。
その分は早く売りたい。そんな思いから、バナナ専門の露天商が誕生したわけである。

大正期後半から昭和初期にかけて門司駅 ( 現・門司港駅 ) 、
郵船ビル付近から桟橋にかけての一帯に露天が並び、
その中でバナナの叩き売りはひときわ目立った。

日暮れともなると、アセチレンガスの下の戸板にバナナを並べ、
竹や棒、あるいは丸めた新聞紙で戸板を叩き、
手拍子名調子の口上 ( こうじょう ) が通行人の興味をそそり、
足を止めさせた。

最盛期には、5、60店も軒を連ね、町の風物詩となった。
しかし、昭和12年 ( 1937 ) をピークに、
第二次世界大戦の激化でバナナが入らなくなり、
たたき売りも消えていった。
今は、門司港発展期成会バナナ叩き売り保存会によって復活され、
門司港みなと祭りなどで聞くことができる。

生まれは台湾台中の阿里山麓の片田舎・・・
金波銀波の波を越え、海原遠き船の旅
艱難辛苦の暁に、ようやく着いたが門司港・・・
さぁ買うた、さぁ買うた・・・

そんなバナナの叩き売りの威勢のよい口上が響き、
大陸貿易の拠点として繁栄を誇った門司港は、
いまレトロの街として生まれ変わっている。

門司港駅から門司郵船ビルをめぐり、
門司第一船だまりの入り口に架かる
日本最初の歩行者専用はね橋 「 ブルーウイングもじ 」 を渡ると、
赤煉瓦造りの 「 旧門司税関 」 が、
明治45年(1912)の創建当時の姿で建っている。
これは昭和初期まで税関庁舎として利用されていた港湾都市門司を象徴する
貴重な建物で、平成7年3月から、港を望む休憩・展望施設、
その他、絵画などの文化発表の展示場として活用されている。



福岡市東区  ・   『 志賀島 』  岡松和夫

2016-09-27 02:43:35 | 文学・文化・映画作品








志賀島は、博多湾と玄界灘を隔てる海の中道の先端に続く
周囲約11キロの楕円形の小島である。

岡松和夫の 『 志賀島 』 は、昭和50年 ( 1975年 ) に発表され、
その年の第74回芥川賞を受賞した作品である。

『 志賀島 』 は太平洋戦争前後の混乱期の博多を舞台に、
作者の分身である青柳 宏と、国民学校の同級生で米軍の銃撃を受け、
視力障害者となった竹元 啓がたどる人生の変遷と戦争の悲劇とを、
少年やその家族を凝視し続けることで描き尽くしている。

このモチーフは、岡松文学の主軸を成しており、
戦時中の博多の街が巧みに描かれ、
九州帝大での捕虜生体解剖事件や福岡大空襲も織り込まれ、
奥深い作品となっている。


「 『 志賀島がみえるねえ。昔のままや 』 不意に竹元が云った。
宏は黙ったままだった。
今日は宏の眼には志賀島は見えなかった。海は靄 ( もや ) に覆われていた。
『 うちが流れついた雁ノ巣の松原までよう見える。美 ( うつく ) しか 』
よく見ると、竹元は眼を閉じているのだった。
『 こうして眼をつぶらんと見えんとやけん 』
竹元はそこから眼を開いた。
竹元は笑った。その笑顔はもうすっかり青年のものだった 」



岡松和夫は昭和6年 ( 1931年 ) 福岡市に生まれる。
旧制福岡中学校、旧制福岡高等学校を経て、東京大学文学部仏文学科卒。
1954年に東京大学文学部国文科に学士入学。

1955年、 「 百合の記憶 」 が
「 文藝 」 全国学生小説コンクール佳作第一席として
青柳和夫の筆名で 『 文藝 』 に掲載される。
この時の佳作同期に大江健三郎がいる。
1956年に国文科卒業。大学院に入るがほどなく池田亀鑑が死去。
翻訳家の平井呈一の姪である瀬山梅子と1957年に結婚。
横浜学園高等学校に勤務。

1959年に 「 壁 」 で第9回文學界新人賞受賞。
1964年に立原正秋が編集長格の同人誌 『 犀 』 に参加。
ほかに加賀乙彦、佐江衆一、後藤明生、高井有一らも参加していた。

1966年に関東学院短期大学国文科専任講師に就任、
1968年に助教授となり、1973年には教授へ昇任。

作家としては1974年、「 墜ちる男 」 で第70回芥川龍之介賞候補、
「 小蟹のいる村 」 で第71回芥川龍之介賞候補となり、
1975年、 「 熊野 」 で第72回芥川龍之介賞候補になり、
翌1976年、 「 志賀島 」 で第74回芥川龍之介賞を受賞した。

1981年、研究者としてブラジルのサンパウロに滞在。
1985年、 「 面影 」 で第12回川端康成文学賞候補となり、
1986年に 『 異郷の歌 』 で第5回新田次郎文学賞、
1998年には 『 峠の棲家 』 で第2回木山捷平文学賞をそれぞれ受賞した。

国文学者としては一休宗純の研究などを行っていた。

2012年1月21日、肺炎のために逝去した。80歳であった。



天に月と日と光と・・・ 『 月光 』   柚木結羽

2016-09-25 04:50:03 | 文学・文化・映画作品








著者の柚木結羽さんのブログで紹介されていた 『 月光 』 。
海や山に行くことはあっても、なかなか街には出ないので、
書店ではなく、 ” ネット ” で注文していた本が届いた。
楽しみにしていたので、すぐに開封して本を手に取った。

「 コツ、コツ、コツ・・・ 」 と、
廊下を歩く靴音からはじまる第一章 『 月の吐息 』から、
第七章の 『 紺青の月 ( ブルームーン ) 』 までの、
190頁たらずを一気に読んだ。

同性であっても、美しいものや、
お互い自分に無いものに惹かれ、憧れるものかもしれない。
作品の中は、自分の知らない世界だけど、
こういう世界もあるのだろうな。と思った。

文を書いて出版する。
1冊の本を出すということは、かなりの本を読んだ以上に知識を生み、
誰もができない経験をすることになる。
そして何よりも、本という  ” 夢をカタチに ” 遺すことだと思う。

上手く表現できないけれど、
スイスイと読み進められる文章だった。



福岡県直方市  ・  随専寺 「 二蕉庵直峰の句碑 」

2016-09-19 02:27:15 | 文学・文化・映画作品










句碑は随専寺の入り口にある辯天堂の横に建っている






  『 行くほどに月雪花の道ふかし 』 



「 月雪花 」 とは、四季の自然の美しさの総称で、
「 月雪花の道 」 と言えば、 「 俳諧の道 」 を意味する。
俳諧の道は、究めれば究めるほど奥が深いという意味であろう。


二蕉庵直峰。 本名伴 ( ばん ) 博隆。
明治15年(1882)~昭和46年(1971)。

福岡県粕屋郡仲原村 ( 現・粕屋町仲原 ) に生まれ、
明治30年に、九州鉄道株式会社に入社し、
昭和7年に、国鉄直方機関区助役を最後に退職。
大正元年(1912)、 二畳庵峰月に弟子入りし、俳諧の道を志した。



北九州市八幡東区  ・ 『 雪霏々と舷梯のぼる眸ぬれたり 』  横山白虹 

2016-09-15 03:50:00 | 文学・文化・映画作品





















横山白虹は東京生まれで、九州大学医学部に進み、
大正13年 ( 1924年 ) に友人たちと 「 九大俳句会 」 を創立し、
吉岡禅寺洞主宰の俳誌 「 天の川 」 に投句を始める。
卒業後は北九州に住み、病院長を務めた俳人で、
後に、 「 天の川 」 の編集長となった。

昭和12年 ( 1937年 )、俳誌 「 自鳴鐘 ( とけい ) 」 を創刊、
「 出航 」 と題して発表した連作五句の中の一句が、次の句である。


  『 雪霏々と舷梯のぼる眸ぬれたり 』  


雪がしきりに降る中を船のタラップを登ってゆく。
その女の人の目が雪でぬれている、という句である。

門司港は古来から九州の玄関口として栄え、
国内外からの船の往来が盛んだった。
客を迎えるか、見送りに門司港へ行った白虹が目にした光景であろう。

この句は白虹の第一句集 『 海堡 』 ( 昭和13年、沙羅書店 ) に収められ、
山口誓子は、その序文でこの句を 「 近年における傑作の一つに数へてゐる。
この作品には白虹君の志向している詩性が、瑞々しく、
しかも的確に描かれてゐるからである 」 と絶賛している。

白虹のこの句碑は、山口誓子の 「 七月の青嶺まぢかく熔鑛爐 ( ようこうろ ) 」 とともに、
北九州市八幡東区の高炉台公園の熊本山にある。



横山 白虹 ( よこやま はっこう )
明治22年(1889年 ) 11月8日 ー 昭和58年( 1983年 ) 11月18日。
俳人、医師 。本名は健夫 ( たけお ) 。
本籍地は山口県大津郡深川町 ( 現・長門市 ) 。

東京府生。父は評論家・ジャーナリストの横山健堂 ( 本名健三 ) 母菊子の長男。
東京府立一中、一高を経て九州帝国大学医学部を卒業。
九州帝国大学医学部講師、三好中央病院長、日炭高松病院長を歴任の後、
小倉市 ( 現・北九州市 ) で横山外科病院を設立。
1930年1月、俳人仲間の美都代と結婚。美津代は次女郁子出産後、産褥熱で死去。
1938年、周囲の反対を押し切って房子と再婚。
1946年、病院が焼失。
1947年小倉市議会議員のち同議長。全国市議長会副議長を歴任。
北九州市誕生と同時に北九州市文化連盟会長。
長男は高分子化学者の横山哲夫 ( 長崎大学工学部教授 ) 、
四女に寺井谷子 ( 現代俳句協会副会長 ) がある。