我が良き池よ
「小山ぁー、エビの血液型しってるかー!?」
「いや、知りたくもねえ」
「AB型に決まってるじゃねーかー。ダッハッハッ」
約25年の歳月を費やし、池沢と私の間にはこれとまったく同じ会話が少なくとも300回以上は繰り返されたことと思う。
連発されるその数の多さと、ドン引き間違いなしのお寒いクオリティを誇る池沢の駄ジャレは、室内の温度をイッキに5度ぐらい下げる勢いを持っていた。私の駄ジャレも相当やばいが、池の足元には到底およばなかったのである。
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私の兄弟分、池沢俊男は二年前の5月に逝った。
突然の心不全だった。49歳と1ヶ月。そりゃねえだろ。
絵に描いたような親孝行息子だったが、最後にとんでもねえ親不幸をやりゃがった。大好きな酒を飲んだ後に眠ったまま苦しむことなく逝っちまったことがせめてもの救いだった。
周囲の幸せが常に最優先でテメエのことはいつも後まわしの池ちゃんは、地元(JR平井駅近辺)で有名なチャンコ屋“紫鶴(しず)”に集まる常連仲間の中でも大の人気者で、底抜けに気性のいい男だった。
当たり前に女好きだが独身だった池沢に、新潟に住む私の連れ合いの妹を引き合わせようとするプロジェクトが発足した矢先の急逝だった。
おとつい5月17日は、池沢俊男の三周忌だった。
二日遅れになっちまったが、江戸川にあるヤツの菩提寺に朝一番で駆けつけ、池沢の愛した日本酒“久保田”を墓前でイッパイだけやってきたところだ。
“快山俊融居士”。
最近の池沢はこんな異名をとっている。
暗い不誠には顔をしかめるが、体を張って明るい和を求めつづけた彼にふさわしいこの新しいニックネームからは、池にしか出来ない飛びきり上等の笑顔がこぼれた。
ま、そんなこんなで、実を云うとヒヤを二杯やってきた。
だが池の野郎が、どーしてももう一杯やらねーことには帰せねーと云いやがるもんだから、都合三杯やってきた。
今日のブログの文章やら文字やらが、いつもよりさらにヘタなのはそのせいである。
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池沢とは同じ下町に生まれ育ったものの学校は別々で、私の中学同級生の小学校時分のダチつながりだった。
中学時代の仲良しグループに池沢が入ってきたのは24、5歳の頃で、そのころはそうした仲間たちで随分ほうぼうへ遊びに出掛けたものだ。
その頃の写真が会社のPCに残っているので一枚載せる。右から2番目のデブが池沢で、その下にしゃがむバカ面が俺だ。
浦安にディズニーランドが出来た頃は、大晦日はそこで皆して年を越すのが定番だったことも想い出す。
そんな仲良しグループも、ご多分に漏れずそれぞれ仕事や家庭で忙しくなり次第に皆で集まることも少なくなっていったが、なんだか池と私は不思議とウマがあって、月に何度か紫鶴でチャンコと大酒を喰らった。
共通の話題は駄ジャレと野球の話くらいのもので、仕事の話をした記憶はほとんどない。向こうは長男、俺は末っ子、話題がなくても座持ちする、お互い気疲れしない相性だったのだろう。へべれけに酔ってエッチな店にもよく行った。
私は生意気だったのでよく他の常連客にからまれたものだが、そうした相手を巧妙に制止しながら、それでも乱暴沙汰になる場合は身を挺して私をかばったのも池沢だった。
兄弟分と云ったが、尊大なくせに肝心なところではゆるめの弟をかばう実際の兄貴分は池沢だった。学問上の教養はさておき、実人生上の教養(やさしさ)は誰にもヒケを取らない奴だった。
三十代後半、バブル期の建設会社で働く彼と、当時フラメンコ協会設立に向けて動きはじめた私は、ともに殺人的なスケジュールに追われながらも、年に数度は紫鶴でチャンコと大酒を喰らう心地よい習慣を続けていた。互いにとってそれは、唯一完璧に仕事からワープできるひと時だったのである。
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忘れ得ぬエピソードは余りに多いが、あの一件もそうだ。
フラメンコ協会の運営に熱中し過ぎてパセオの経営が相当アブナくなってた頃、いつもの二人会でおそらく私は浮かない表情で呑んでいたのだろう。
「ちょっと待ってろ」と、突然私を紫鶴に置き去りにして店を出た池沢は、しばらくして戻ってくるなり分厚い封筒を私に押し付けた。
「どうせタンスで飼ってる金だから」
………“ゴン”かっつーの。
事情を知らないはずの池沢だが、その洞察力に曇りはない。
もちろん私はうれしかったが、それを断わるべき大きな理由が二つあった。
ひとつには、足りない金はハンパでない金額だったこと。
もうひとつは苦い経験だ。過去に二人だけ親しい友人にまとまった金を都合したことがあり、で、その二人はいまだ行方不明のままなのだが、もし、その金の貸し借りがなければ、不意に私の前に現れるようなこともあったのではなかろうかと。
俺が隅田川や代々木公園の青テントで暮らすことになっても、年に一度くらいはお前と呑みたいのだ。そうするためにも金のことは気持ちだけもらっておくよ、な、わかるだろ。
私は池沢にそういう話を一所懸命にした。すると奴はにわかに泣きだした。ほんとに泣きてーのは俺の方なのだが、俺のピンチを本気で泣いてくれるこのプーロな男に、私はどれだけ力をもらったことかわからない。
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池と最後に呑んだのは2004年の桜の終わりのころ、逝くひと月前のことだった。
いつもとは異質のハイテンションぶりに「女できたか?」と問うと、このタコ野郎がマッ赤になりながら「まあな」と笑った。
なんだよ自力でいけるんじゃねえか、妹のことは余計なお世話だったかと私はよろこびつつも、実は得体の知れない不安に包まれていたのだが、縁起でもねえやとそれは振り払うことにした。
今日もこのあと亀戸まで逢いに行くのだと云う。
ならばといつもより紫鶴を早めに切り上げることにして、私たちは同じ方向の電車に乗り込む。
総武線を西にひとつ、ものの3分で電車は亀戸駅に到着し、
「腰が抜けるまでやったれやー」
と池のでかい背中を思い切りバーンと叩いて送り出した。
それが最後の別れとなった。
不思議なことに奴の背中を思い切り叩いた感触は、いまだに私の右手に残っている。
「オレだよ、池沢俊男だあ!」とフルネームで名乗るヤッコさんの大声が響いたケータイの、その番号登録は二年経っても消せないまんまだ。わかっちゃいるけどやめられない。そのマヌケな大声を、今も私は心待ちにしているのだろう。
「あの世」を信じる私ではないが、「池沢が待つあの世」であるならばそう悪くはない。ま、そういうおめでてーファンタジー語りならばバチも当たるまい。
遅れて到着した俺の肩をバーンと叩きながら、我が良き池はきっとこう云う。
「早えじゃねえかー小山ぁー、
エビの血液型しってるかー!?」
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