フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

まじめに生きるために [その250]

2009年02月21日 | 超緩色系

 




       まじめに生きるために




                        


 生来私は"生まじめ"な性質だ。 
 だから、余分な"生"の付かない、本当に"まじめ"な人に対して、こりゃかなわんと、いつも負い目を感じながら生きてきた。 
  
 島田紳助、春風亭小朝、サイモン・ラトル、所ジョージ、福田進一、中村勘三郎……。 
 パッと思いつく同世代の有名人だけでも、私の憧れる「まじめな人」はこんなにいる。 
 他の世代の有名人や、愛すべき周囲の仲間を入れたらものすごい人数になりそうだ。 
 
 生まじめな人間というのは、しばしば不まじめな人間よりよっぽどタチが悪いことは、生まじめ人間出身である私がよく知っている。 
 放っておいても約束は守り、生まじめに働くメリットはあるが、細部に神経が集中しすぎて、肝心な全体を見失う致命的なデメリットを有しているのだ。 
 
 それに比べると、まじめな人間というのは、実に全体バランスがしっかりしている。 
 さらに、大切なものとそうでないもののメリハリのつけ方が実にうまい。 
 すでに1コンパス12年近くを暮らす連れ合いなどを観察していても、そのバランス&メリハリ感覚にはなかなかのものがあり、特に「力の入れ方・抜き方」のノウハウはかなり参考になった。 
 
 ただし私の場合は、「力の抜き方」についてのみ、あまりに集中的に学習してしまったため、最近の私は一見、若干、不まじめな人間に見えるかもしれない。 
 実際にはチョー不まじめな人間になってしまったわけだが、こんな極端な成果を出せるのも、肝心な全体を放置したまま、徹底的に細部に集中できる生まじめ人間の特徴である。   
 
 
 
            
 

 
 生まじめ人間を廃業するために、ある時期からの私は徹底的に「ユーモア」を学習した。 
 勉強嫌いの私が、生まれてはじめて着手した本格的な学問だったかもしれない。 
 細部への思い込みの強い人間が、全体バランスを獲得するには、日常的に、かつ徹底的に「自分を笑う」習慣を身につける必要があると感じていたのだ。 
 
 私の育った下町界隈においては、"真心"というものが、いつも"ユーモア"とセットだったことも、そう感じる遠因だったかもしれない。 
 盲目的に細部にこだわるおマヌケな自分をゲラゲラ笑い、その反作用によって冷静な自分を呼び覚ますことで、常に全体バランスの構成に気を配れる自分になりたかったのだろう。 
 
 愚かな自分が勝手に思い込んでる信条のすべてを笑い倒し、その上で改めて、必要最小限のコンパスを選択しようと思った。
 気に入らない他人の言動にハラを立て、貴重な時間を消費するのはヘンだと思った。 
 私に限って云えば、事件が起きたとき、人を疑うより自分を疑った方がはるかに解決は早いのだ。 
 だから、他に対する許容範囲を広げるような方向が望ましいと思った。 
 可能な限り何でもオッケーな幅と奥行きを持ったコンパス&アイレを、シンプルにほんの少しの数だけ選ぼうと思った。  



           

 

 小さい頃からのお笑い好きが幸いして、面白い話に素直に笑えることには自信があった。 
 残る課題は、「自分を笑う」ネタで、いかに「自分を笑わせる」か、それだけである。 
 幸か不幸か、私の場合は、イヤ~な奴の欠点を鋭く暴き、これを一発で撃沈する、辛辣極まりない嘲笑能力にも自信があった。 
 これを人さまに使用することを封印し、その代わりにこの辛辣な批判能力のすべてを、自分自身に集中砲火させる方法を思いついたのだった。 
 
 社会的には罪にならない罪深き凶悪犯罪である"愚痴"をやめたのも同じ頃だ。 
 私を含め、みな自分の愚痴だけは許されると思っている。 
 これほど愚かでみじめでグロテスクな事象を笑わない手はないなと思った。 
 何気ない愚痴でも、結局そのストレスはその下請けに伝染するものだ。 
 それを反面教師化できない心やさしき弱者や子供たちはさらに追い込まれる。 
 下請けから下請けにそのストレスは伝染し、現代日本は立派な鬱社会となった。
 その真犯人は、政治家でもなければ世の中でもない。
 
 そうした風潮の中、逆にフラメンコ人口は増えた。 
 つい口から出そうな愚痴も、フラメンコ的カタルシスでスパークさせれば、それをエネルギーや笑いに逆転させることも可能ではないか?……と。
 フラメンコは“自立と協調”のアートだ!

 そう本能的に察知した人々が、大挙してフラメンコの世界に足を踏み入れてきたのだ。 
 もちろん、それらを自覚できずに、不平たらたらで生きてる人もいるにはいるが、これはカレーを食べながらウンコをするようなものなので、逆にそれだけ器用な人なら、この私もそうであったように、必要な自覚は時間の問題かと思われる。 
 
 愚痴や他者への攻撃を放棄し、自嘲的ユーモアに私が走ったのはそんな理由による。 
 これらの転換の副産物として、自分をとりまく人間運がスイスイ向上し始めたことには、我ながらびっくらこいた。 
 それらの根気よい継続の末に、自分で云ったり書いたりする自嘲ネタで、十年後の自分を笑わせる水準まで、その能力を向上させることもできたと思いたい。 
 
 『オラシオン連歌』や『シュール・アフォリズム』などに毎日10分程度、コンスタントに書き込み続けるのも、自然にチョー大吉を呼び込む、そうした自分好みの感性をサビ付かせないためだ。 
 壊れにくいユーモアというアイレを保つことは、酸いも甘いもある日常生活を丸ごと楽しむことの反映のようにも思える。 
 
 さて、これらの結果、常に全体バランスの構成に気を配れる自分になれる予定であったのだが、あいにく自分を笑わすことに手一杯で、そこまで手が回らなくなってる哀しすぎる現状がある。 
                      
 こんな極端な成果を出せるのも、肝心な全体を放置したまま、徹底的に細部に集中できる生まじめ人間の特徴である。