ぴよこの足跡

「いま」在ることに感謝

「いま」の一歩を明日へ繋げる

その足取りを「いま」ここに綴ります

2013-10-02 | 習い事
今日から茶道復帰です!
とは言え、柄杓をきりっと構える時は
唯一[ピシッ]と腕に痛みが走った。
むぅ、本調子はまだまだっすね。
でも重い水差しも持てたし(水の入った入れ物)
袱紗捌きも出来たしokとします。


さて、今夜の軸
『掬水月在手』
両手で水を掬ったら、そこに月が映った。という意味。
丁度名月の季節にぴったりですね。
そしてその心は、
両手の水に映った月は
手や心を揺らすと形が崩れてしまい、
いかに自分の心を沈めて落ち着かせていられるか
名月を愛でていられるか
そんな意味にも取れるらしい。

日々時に、
とんちんかんな電話がかかってきてイラッとしたり
あまりの来客の多さに仕事が捗らなくて
これまたイラッとしたり
(受付に一番近い席&一番下っ端の為
来客対応担当らしい立場。涙)
心がぐらんぐらんっしてしまう。
そんなに噴火してどうするよ、私。
心穏やかに居られるには、まだまだ修行が足らんねぇ。
そんな事を軸を拝見しながら思いました。


さて、硲。
先生に「どうして茶道は敷居が高く見られ、捉えられるのか?」
片づけをしながらそんな質問を投げかけてみました。
非日常の動作、非日常の空間、道具、
茶道はどう考えてもその日常と非日常のギャップがある。
もっと真髄と言うか
家元のお手前を知りたいと思ったら
稽古代だけでも恐ろしい額になる。
全然気軽じゃないし、OLにとってはむしろ恐怖だ。
かといって
昔のお教室は市が運営してて驚愕するほど破格の稽古代。
んー結局誰に学ぶか、先生によって変わるのかなぁ?
中身も値段によって違うのか?
結局、実用的でなく
非日常的なことであり、
その価格設定が高い認識や
上下関係の圧迫感が強いのかな?

ただ、何となく非現実的な?
現実だけに振り回されない静な心を養えたらいいなー
ほんと、
『掬水月在手』
今の私の掌の中には
まんまるなお月さんが映っているだろうか?