郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

続・謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行

2006年01月17日 | 幕末長州
昨日の記事、謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行
どうも、すっきりしませんで、ただいま、防府市教育委員会へ電話をしまして、真相をお訊ねしました。

まず最初に、現在、三田尻御茶屋(旧構内付大観楼)は、国の史跡になっています。

そして、招賢閣という呼び名と三田尻御茶屋の関係なんですが、正式には、三田尻御茶屋全体が招賢閣だったわけではなく、招賢閣という名の会議室があり、その建物は、現在はないそうなのです。
しかし、幕末の志士たちが「招賢閣へ行く」と言った場合、御茶屋全体を、招賢閣と呼び慣わしていたことも、また事実のようです。
そして、招賢閣は会議室なのですから、七卿が滞在したのは、やはり、写真の英雲荘だったのです。
また、大観楼とは、そういう名の建物が別にあったわけではなく、英雲荘の二階部分を、そう呼んだのだそうです。
さらに、英雲荘も花月楼も、まったくの立て替えであったわけではなく、古い建物ではあったのですが、改築の手が大分入っていた、ということのようで、英雲荘は現在、明治時代の姿に戻すために、保存修理中です。
花月楼の保存修理はすでに済んでいて、防府市民がお茶会で使用しているとのこと。

十数年前に訪れた時、観光案内所で聞いても場所がわからず、防府市の係の方に場所をお聞きして、わざわざ案内してもらった、と言いますのも、当時、英雲荘は、公民館のような使われ方をしていたから、だったようです。
保存修理後の使い方としても、市民の結婚式などで使う、という話になっているようでして、観光施設ではないのですね。
しかし、希望があれば案内もしてくださるそうですし、それは、保存修理中の現在でも、そうなのだとか。

あー、だから、つまり、です。
写真に撮った部屋が七卿の居室だったと聞いたのは、聞き間違いではなく、英雲荘で志士たちをしのんだのも、けっして勘違いであったわけではなかったのです。

十数年前の防府は、不思議な雰囲気を持った街でした。
戦災にあってなかったためでしょうか、古書店に立ち寄れば、戦前の教科書とかが、無造作に置いてあったりしたんですね。
山頭火の街でもありますし、伊予松山とは縁が深く、もう一度行けたら、と思います。


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2 コメント

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ごぶさたになってしまいました。 (へいたらう)
2006-01-18 19:42:00
毎日、記事は拝見しておりましたが、目下、少々、多忙でコメントすることができませんでした。



防府は、毛利博物館・・・でしたっけ、前作を書いているときに、新資料でもあれば・・・と思って行ったことが有ります。

ただ、そのときも、広島の三原まで行く途中でしたので、それほど、毛利博物館さえも、慌ただしく、切り上げた風でしたので、他はまるで行くことができず、三田尻御茶屋などは存在も知りませんでした。



ちなみに、七卿は五卿となって、太宰府に居ましたが、哀しいかな筑前福岡藩は、この五卿を賓客としてではなく、罪人として、遇してしまったようです。

おまけに、鳥羽伏見の直前に乙丑の獄と呼ばれる大弾圧で、勤王派を根こそぎ殺してしまって・・・。



維新が起こって、慌てて、執り成しを五卿に願い出たら、「まず、首持って来い。」なんて言われて・・・。
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へいたろう様 (郎女)
2006-01-19 03:42:55
いつも、ありがとうございます。

私が防府へ行ったのは、どっぷり幕末にはまっていたころでしたので、三田尻といえば招賢閣、しか、思い浮かばなかったほどでして(笑) その、毛利博物館とかには、行ってないんです。柳井へ行って、防府で一泊しましたのに。

山頭火も、行ってから気づいたような次第でして。



このときの旅は、「青山」のお方と防府の招賢閣と、長府の高杉につきまして、東行庵を訪れたのもこのときです。時間があれば下関へも行きたかったのですが。



福岡藩の五卿のあたりは、調べたはずなんですが、忘れてしまっております。中岡慎太郎や土方久元が、京で桐野と会っていますし、高杉との接点をさがすならここらかな、ってことでして。



戦国から以降の毛利家は、村上水軍とかなり関係が深いんですよね。三田尻にいた水軍も、もともとは村上水軍で、大島に移住していたのも水軍配下。庶民レベルの交流は密接で、幕末の第二次征長は、松山藩にとっては実に複雑な状況でした
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