郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

志士たちへ花束

2005年11月28日 | 桐野利秋
昨日の続きです。
お墓参りといえば、桐野利秋のお墓には、もちろんお参りしました。鹿児島の南洲墓地です。
ここは、話に聞いていた通り、すばらしいところでした。小高い丘で、錦江湾と噴煙をあげる桜島が見渡せるのです。

 我が胸の燃ゆる想いに比ぶれば煙は薄し桜島山

と、思わず平野国臣になりました。いえ、晴れ晴れとしていて、それでいて情趣があって、かかえていった百合の花束が、ぴったりと似合いました。入り口近くに、ちゃんと花屋さんもあるんです。
それに、さすがに桐野です。熱心なファンがいるようで、それもおそらく女性なんでしょう、私の前にすでに、きれいな蘭の花束が手向けられていました。さすがは、「香水紳士」といわれたお方ですね。
事前に、「南洲墓地は明るくて美しい」と、幕末維新好きの知り合いの方から聞いていたのですが、その方がおっしゃるには、「熊本の神風連の墓地は暗くて幽鬼がただよっているみたい」というお話でした。

それにしても、史跡として知られているような墓地はいいのですが、幕末維新好きは、あまり知られていない人物の墓をさがして、うろうろしてしまったり、するものです。
かくいう私も、桐野と仲がよかったという人物の墓を求めて、京都の相国寺や東福寺をうろうろしました。相国寺の方のお墓は見つかりましたが、東福寺の方は、結局、わからず、だったと記憶しています。
知り合いにつき合っての墓さがし、というのもやりました。よく覚えてないのですが、たしか、松陰の肖像画を描いた松浦亀太郎のお墓だったと思うんです。この人、性急にも文久2年に京都で切腹して果てていまして、京都にお墓があるのですが、いやはや、さがしまわりました。ついにさがしあてたときの喜びだけは、いまだに、よく覚えているんです。
しかし、ここまではまだ、京都の町中でしたからよかったんです。池田屋事件で切腹したといわれる海援隊の望月亀弥太。彼の高知のお墓をさがしたときは、山の中で迷うかと思いました。高知市内ではあったんですが、野草の生い茂った山中です。
ようやっと見つけて、それから先がまた、なにしろ草に埋もれていますので、知り合いはまず草刈りから始めまして、私はもう疲れ果て、ぼうっとそれを見ていたように覚えています。

しかし、松浦亀太郎も望月亀弥太も20代ですし、戊辰戦争で死んだ桐野の仲良しさんたちも、大方20代、少し年をくっていても30代の前半です。いえ、それどころか、戊辰戦争や西南戦争では、10代の戦死者も多いですしね。みんな死に急いだ時代だったんだなあ、と。

墓参り好きの癖を発揮して、インゲルムンステル城のモンブラン伯のお墓にも、ぜひ参ってみたいものですね。お城の礼拝堂ですから、捧げる花束はやはり薔薇でしょうか。

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9 コメント

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TBありがとうございました (vagabond67)
2005-12-13 23:17:56
はじめまして,vagabond67と申します。

郎女さんのディープかつ硬派なブログからTBいただき光栄です。

郎女さんは,非常によく調べてらっしゃいますね。

最近の自分の不勉強を恥じ入るばかりです。



それにしても,桐野に百合の花とは流石ですね。

私は,手ぶらで参ってしまいましたが...

折角TBいただいたので,南州墓地から見渡した桜島の写真もアップしておきましたので,今一度ご覧いただければ幸いです。



と,それだけでは能がないので,旧薩摩領(といっても奄美大島ですが)に住む人間として,薩摩人気質について,若干の知見を書き込ませて頂きます。

「桐野利秋とアラビア馬」の中で,「薩摩に関する幕末愛好会がない」との指摘がありましたが,私(薩摩人ではありません)は,基本的に,昔も今も,薩摩という組織は官僚的でシステマティックな土壌をはらんでおり,それが,個々人の個性を覆ってしまい,その結果,本来は個性的なキャラクターを埋没させ,そのことが,好事家の興味を削ぐ最大の要因となっているのではないかと感じています。

若干短絡的かもしれませんが,維新前の郷中教育では,「議を言うな」とのテーゼが重んじられ,名君の誉れ高く革新的事業を多数打ち立てた島津斉彬が不明の死を遂げていることにも(お由羅騒動が背景にあるとの説もありますが),何か官僚支配的な象徴的なものを感じます。

また,時を移して現在,例えば,鹿児島県警では,ベビーブーマーの大量退職に備え,中堅層育成の切り札として件の郷中教育を導入する方向で検討され,小学校の運動会では,ほとんどの学校でマスゲーム(北朝鮮の行事で良く行われている,アレ)が行われる(しかも県下で同じ振り付け!)等,没個性を推進するかのような催しも継続されています。

もちろん,私も,規律,基本的な道徳の重要性を軽んじるものではなく,むしろ全ての社会生活の基本として当然なくてはならないものだと思います。

が,若干,それらの部分に重きが置かれすぎているような気がするのです。

郷中教育についても,宇宙的な革命感と天才的戦術感を持った西郷隆盛,近代的行政制度の礎を作り上げた大久保利通,北海道開拓の父ともいわれる黒田清隆をはじめ,無数の逸材を輩出していることからも,極めて効果的な教育だったとも思います。

が,やはりそれら薩摩を取り巻く組織的,政治的,文化的な状況にはモノトーンなものを感じてしまいます。

新撰組や長州のように,煌めく個性を感じないのです。

そして,その印象は,現代の薩摩人に対しても同様に感じます。

とまあ,久々に徒然と書いてしまいましたが,これも,郎女さんの奧の深いブログの賜物(いろんなエントリーを興味深く読ませて頂きました),ご容赦ください。



奄美に住む私は,とりあえず,島尾敏雄の提唱した「ヤポネシア」文化論,そして田中一村ぐらいについては,少しは深めたいと思っているのですが,雑事ばかりで道程は遠いですね...
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ようこそおこし下さいました。 (郎女)
2005-12-14 23:50:11
TB返していただいて、ありがとうございます。

うちには絵がありませんので、感謝、です。

あー、「濃い」とはよく言われるのですが、硬派ですか。自分では軟派なんだと思い込んでおりました。なにしろ「男は顔です」ですし(笑)



で、これが硬派といわれるゆえんなのかもしれませんが、反論させていただきます。郷中教育が束縛になっていた、というのは、おっしゃる通りだと思います。ただ、それは、幕末の時点においては、官僚的というよりは、その反対のもっと土俗的なもの……、だったのではないか、という感触を持っております。

お由羅騒動のときに、斉彬側について処刑された人物の書簡だったかを、なにかの引用で見て、驚いたことがあるんです。いくらなんでも藩主をここまで罵倒するかな、というほどのものでした。藩主が官僚組織の頂点にいるのではなく、生の人間なんです。個人的に気に入らなければ、下級藩士でも藩主に罵声をあびせる。桐野も、久光に対して「名門先生になにがでくる」と、鼻で笑ったような言葉を残しておりますし。

西日本の太平洋岸には、農漁村に若者宿の制度が濃く残っておりましたが、郷中制度はその士族版、と考えればいいのではないでしょうか。

結局、郷中のリーダーだった西郷と大久保が、その土着の団結力を利用し、久光公を騙して藩を動かし、維新に持ち込んだわけです。

薩摩藩兵の銃は、藩のものではなくそれぞれ個人のものですし、火薬庫でさえも藩のものではなく、下級藩士の共有財産でした。

しかし、こういった土着の組織というのは、異分子に容赦がありませんよね。明治時代に書かれた桐野の伝記に、中井桜州からの聞き書きがあるんですが、彼は2度脱藩し、「親しくしてくれたのは桐野だけだった」というようなことを述べています。西郷さんに嫌われていたんですよね。



薩摩に関する幕末愛好会がないのは、おっしゃるように、その土俗の団結の中心にいた西郷、大久保の影が巨大すぎて、個々の個性がきわだたないから、というのは大きいですね。しかもその二人が、清濁あわせのむ政治家の色合いが濃いですし。

しかし、結局維新がなったのは、薩摩の現実主義の賜物だと、私は思っています。明治時代に、あの米一俵の小林虎三郎の弟が、薩長土肥を評して、薩摩を一番買っているんです。



現代の薩摩は……、たしか司馬遼太郎氏が、萩には昔の士族社会のいい面が残っているけれども、鹿児島からはまったく消えてしまった、というようなことを、おっしゃっていたような気がします。



田村一村は、母がテレビで見て気に入り、うちの方で展覧会があったとき、ひっぱっていかれて見ました。それまでまったく知らなかったのですが、よかったです。分厚い画集を買いました。島尾敏雄氏の小説も、何冊か読んでいますし、『ヤポネシア序説』を持っています。



若者宿、ひいては郷中制度は南島文化の流れかと(笑)





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なるほど (vagabond67)
2005-12-15 22:10:33
>西日本の太平洋岸には、農漁村に若者宿の制度が濃く残っておりましたが、郷中制度はその士族版、と考えればいいのではないでしょうか。



なるほど,そういう背景があるのですね。

郎女さんのコメントを読んでいてふと思ったのですが,私自身が,おそらくこれまでの日本で根付いていた官僚制度について,土俗的なものや,土着の組織の延長線上にあるものを感じ取っていたのかもしれません。

「官僚制度」論を郎女さんに吹っ掛けるほど勉強していませんが,官僚制度と一蓮托生だった自民党(土俗的なものが凝縮している?)がここ1,2年で大きく変質している以上,官僚制度も大きく変質するのだろうと漠然と感じます。

何だか話をそらしちゃいましたが,「濃い」郎女さんのブログ,また遊びに来させてもらいます。
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おお! (へいたらう)
2005-12-18 13:11:32
我が筑前福岡藩出身、平野国臣ではないですか!

彼のこの句は、秀逸ですよね!

句という点では、吉田松陰なども絶品ですが、国臣のこの一句は、同国人として、数少ない誇れるものです。
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言い忘れました。 (へいたらう)
2005-12-18 13:21:56
山口県の東行庵には行かれましたか?

高杉晋作の墓と、彼と共に戦った奇兵隊墓地があるところです。

名もなき、奇兵隊士の墓には、「小者 佐助」などと書いてあります。

それ以上の肩書きはないんですよね。

それがいいと思い、そちら系が好きな人間が来たときは、いつも連れて行きます。



萩の吉田松陰墓地も、こちらのものは、京都の護国神社みたいに、こてこての観光地!って感じにはなってませんから、結構、目立たないところにあります・・・。

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平野国臣は (郎女)
2005-12-19 01:11:27
辞世の詩もすごくいいんですよね。たしか、京都の霊山記念館にあって、知ったんですけど。好きです。



憂国十年 東走西馳

成否在天 魂魄歸地



東行庵は、行っております。「久坂玄瑞の法事」に書いているんですけれど、あそこの一坂太郎氏は親切な方でした。

ただ……、萩は行ってないんです。最初の長州への旅が、長府とか防府とか、瀬戸内海側のみでしたので、次ぎに山口と萩の旅を計画し、宿の予約もすませていたところが、今思い出しても悔しいのですが、得意先の仕事が入ったんです。お盆に仕事を入れないで欲しかった! 以来、行けてないんです。
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是非! (へいたらう)
2005-12-19 11:33:18
いらしてくださいな。

福岡まで来られたら、ご案内しますよ(笑)。



平野国臣の墓は行ったのですが、これが書いてあったのは、まったく、覚えてません。

そう言えば、見たような・・・(笑)。
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Unknown (是非とも)
2005-12-20 02:48:34
うかがいたいものです。野村望東尼さんの旧跡も訪ねたいと、昔から思っておりましたし。

あんなばあさんになりたいと(笑)
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野村望東尼は (へいたらう)
2005-12-20 11:24:05
福岡市の高級住宅街の中に彼女が杉晋作をかくまったという山荘が当時のまま、ありますよ。

近くにうまいチャンポンやがあり、他県民を連れて行くときの私の定番コースになっております(笑)。
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