郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol5

2012年12月07日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol4の続きです。

  国会図書館憲政資料室の井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、著者不明で、肝心な部分が4行ほど、墨で黒々と消されている!謎の伝記です。

 皆川真理子氏が土佐史談に書かれました論文の脚注で、私はこの伝記の存在を知りました。
 憲政資料目録 の●井上馨関係文書、●書類の部、●碑銘・建碑・記伝とクリックしていきますと「712-10 近藤長次郎伝」が出てきます。

 えーと、その。
 私、幕末オタクですし、若いころから、国会図書館の憲政資料室で、かなりの幕末維新関係の史料を複写できることは、知っておりました。
 憲政資料のあれが見たい、と思いました場合、近くの公立図書館で相談してみればいいことも、です。
 地方に住んでいますと交通費がかかりますが、国会図書館へ直接足を運びますのが、やはり一番早くはあるのですが。
 ともかく、この謎の伝記を自分の目で確かめてみたい、と思われましたら、どちらかで、どうぞ。

 まず、この井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」が書かれました時期です。
 文末に、長次郎の顕彰記事があるんですね。
 明治11年に靖国神社に祀られましたこと。
 明治18年に建立されました、高知の東大島岬の神社(現在の護国神社)の南海忠烈碑に名前が刻まれましたこと。
 高知県護国神社さんのHP南海忠烈碑銘に碑面の写真がありますが、裏面上から三段目の左端に、近藤長次郎の名前があります。
 そして最後が贈位記事なのですが、「明治三十一年七月特旨を以て正五位を追贈せらる」とありまして、明治31年以降に書かれたものであることには、まちがいがいありません。

 ただ、ユニオン号事件につきまして、あまり詳しく書かれているわけではありませんし、なにしろ井上馨関係文書ですから、私、「井上伯伝」が出版されます明治40年よりは以前に書かれたものと、推測しました。

 著者はだれなのか、ですが、最初、私、「井上伯伝」を書くための材料として中原邦平が書いたのかな、と憶測していました。文中、長次郎が高杉晋作に漢詩を贈られたことが出てきますので、ますますそんな気がしたのですが、そこで、一坂太郎氏の「高杉晋作 漢詩改作の謎」を思い出しました。

高杉晋作 漢詩改作の謎
一坂 太郎
世論時報社


 これによりますと、高杉晋作の漢詩文集「東行遺稿」は、明治20年、土佐の田中光顕(青山伯)の手で、改作された上(大方は悪意の改作ではなく、漢詩上手が添削した形らしいのですが、青山のじじいは、よほど自分が高杉に漢詩を贈られていませんのが残念だったようで、高杉が「(薩摩の)西郷隆盛の漢詩を読んで」と題名に書いておりますのに、「田中光顕が西郷の詩を見せてくれた」と、自分の名前をもぐりこませているそうです。p75-76)、自費出版されているんですね。
 近代デジタルライブラリーの「東行先生遺文」に「東行遺稿」が収録されていまして、確かに266コマp37の最後に「送上杉宗二郎」も掲載されておりますね。

 としますと、例えば高知県護国神社に祀られたことが詳しく書かれているなど、高知出身者が書いたものではないのか、という感を深くしまして、考えてみましたら、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにしております「井上伯伝」よりも、内容がはるかに、大正元年に刊行されました坂崎紫瀾の「維新土佐勤王史」に近いんですね。
 それで私、著者は坂崎紫瀾でまちがいなかろう、と思います。

 長次郎の死の原因は、はっきりと、「一人だけ留学しようとしたことが社中の掟に背いていたので、社中全員から自刃を迫られて、そうするしかなかった」と書かれています。手に入れるのがめんどうなものですし、関係部分を引用しますと、以下のようです。ただし、カタカナをひらがなにし、句読点を補い、漢字を開きますなど、改変を加えますし、まちがいもあるかもしれないことをご了承ください。

 はじめ長次郎、勝氏の塾にあって海外文物の盛んなるを慕ひ、遊学の心切なりといえども、学資を得る道なく、空しく志を遂くるを得ず。井上聞多、伊藤俊輔(博文)等の親愛を受け、その委託をもって汽船を求め、巨額の金員を授受するに至って素志勃発し、ほとんど制すべからず。ついに長藩に頼って素志を遂げんことを図り、聞多等に就て懇請して金を借り、英船の帰便に附搭するを約し、まさに明日をもって発せんとす。同志中、このことをもれ聞きする者あり。同志を集めて相議しもって違約となし長次郎を責問す。はじめ同志盟約書に連著し九つ事は大小なく必ず相議して行ふべく、もし相謀らずして行う者あれば違約の責は割腹をもって謝するの文あり。長次郎陳謝する道なく●●●●●●●●

 ここで、ほぼ4行分、黒々と墨線が引いてありまして、読めないんです!!!

 そして、●●●●●●●●遂に小曽根の家において自尽す。実に(慶応)二年正月二十四日なり。

 自尽の理由は、「汗血千里駒」と同じく、「長州藩に頼っての留学」なのですが、嘘か本当かはわかりませんが、社中の「盟約書」なるものがあったことになっておりまして、「長次郎に自尽を迫ったのは龍馬ではなく、社中の面々だった」ということです。
 「維新土佐勤王史」になりますと、社中の面々の代表としまして、沢村惣之丞の名前が出てくるのですが、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」、読めます部分に限っての話ですが、個人の名前は出てきておりません。

 ただ、この井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」、ユニオン号をめぐります長州往来の中で、沢村惣之丞の名前ばかりが頻繁に出てくるんですね。
 しかし沢村惣之丞は、「沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州」に書いておりますが、井上聞多が汽船の名義借りの交渉で、小松帯刀、近藤長次郎とともに薩摩入りしましたときには、開成所(薩摩の洋学校)のオランダ語教師をしておりまして、ユニオン号購入に関しまして、当初はほとんどかかわってなかった、と思われます。
 したがいまして、「井上伯伝」の近藤長次郎とともに当初から活動していましたのは高松太郎であった、という方が、正確ではないか、と思うのですが、いま「井上伯伝」が手元にありませんし、そこらへんの考察は、また後日にまわします。

 坂崎紫瀾がずっと、「近藤長次郎の死は長州に頼っての洋行が同志を売るものとされたから」と信じ続けていたにつきましては、坂崎紫瀾著、明治31年発行の陸奥宗光(近代デジタルライブラリー)に25コマ、p27の最後に、「近藤のみは学才ありしが、たまたま軍艦買入の葛藤起り、長藩とひそかに洋行の内約をなせしは同志を売る者なりとて、割腹してその罪を謝したり」とあることで、知れます。
 
 坂崎紫瀾の経歴は、wiki-坂崎紫瀾に詳しいのですが、「汗血千里駒」の成功によりまして、自由党の星亨が主宰します小新聞「自由燈」に招かれて、上京します。
 星亨は陸奥宗光に近い人でして、紫瀾が後に林有造、陸奥宗光の伝記を書くことになったことから見ましても、この二人は西南戦争呼応挙兵を企てて、入牢した人物ですし、板垣退助とは距離を置くようになったのではないか、と思われます。
 そして、明治37年ころから「維新土佐勤王史」執筆の準備に入ったというのですから、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、その材料集めの段階で、中原邦平の求めに応じて、生まれたものではないでしょうか。

 コトバンクー中原邦平の「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」の方を見ますと、中原は紫瀾より一つ年が上なだけで、どうも同じくらいの時期に、ロシア正教の宣教師ニコライ・カサートキンの塾にいたようなのですね。
 ニコライ・カサートキンは、神田のニコライ堂の創設者で、その最初の日本人の弟子は、龍馬の実の従兄弟・沢辺琢磨です。

 紫瀾が陸奥宗光の伝記を執筆しました翌年、明治32年のことですが、16年前、紫瀾が「汗血千里駒」を連載しました土陽新聞に、川田雪山の龍馬の妻・お龍さんへの聞き書き 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)が、連載されました。
 以下、引用です。

 ある日、伏見の寺田屋へ大きな髻わげを結つた男が来て、「阪本先生に手紙を持て来た」と云ひますから、私は龍馬に何者ですかと聞くと、アレは紀州の伊達の子(陸奥宗光)だと云ひました。此時から龍馬に従つたのです。持て来た手紙は、饅頭屋の長次郎さんが長崎で切腹した事を知らせて来たのです(千里駒には龍馬が長崎に於て近藤を呼び出し切腹を命じたりとあれど誤り也)。長次さんは全く一人で罪を引受けて死んだので、俺が居つたら殺しはせぬのぢやつたと龍馬が残念がつて居りました。アノ伊藤俊助さん(博文)や井上聞多さんは社の人では無いですが、長次さんの事には関係があつたと見え、龍馬が薩摩へ下つた時、筑前の大藤太郎と云ふ男が来て伊藤井上は薄情だとか卑怯だとかやかましく云つて居りましたが、龍馬は、ソンナに口惜しいなら長州へ行つて云へと、散々やり込めたのです。

 これは後年の聞き書きですから、どこまで本当のことかはまったく謎だったのですが、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」でご紹介しております皆川真理子氏の論文「史料から白峯駿馬と近藤長次諸を探る」(土佐史談240号収録)で、「桂久武日記で、上杉宗次郎の自殺を京都へ告げに来ている小松帯刀の家来・錦戸広樹は陸奥宗光の変名」と解明されていまして、現在では、陸奥が使者だったことは事実だったと、確かめられております。

 陸奥宗光は、長次郎の死を、長崎から京都の龍馬まで告げに駆けつけたわけでして、もしも紫瀾が、生前の陸奥にその話を聞いていましたら、その伝記に書かないはずはない、と思われますのに、書いておりません。
 紫瀾が生前の陸奥宗光に、まったく龍馬の話を聞いてなかった、とは思えないのですが、陸奥は入獄、洋行の後、要職にあり、海外赴任の期間もありましたし、最後は肺結核が進行しておりました。詳しく話が聞けるような機会を、紫瀾は得ることができなかったのだろうと思うのですね。

 しかし紫瀾が、おそらくは馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」も目にしたと思いますのに、「近藤長次郎の死は長州に頼っての洋行が同志を売るものとされたから」という「汗血千里駒」の以来の持論を捨てませんでしたのは、それが紫瀾の創作ではなく、高松太郎から出た話だったから、ではないのでしょうか。

 そして、私、「汗血千里駒」執筆当時の紫瀾は、近藤長次郎とライアンの娘 vol3で推測しましたように、坂本南海男(直寛)から、高松太郎の話を又聞きしただけではなかったか、と思うのですけれども、明治31年に高松太郎が世を去ります前に、紫瀾は直接、話を聞いたことがあったのではないでしょうか。

 それともう一つ、紫瀾は、トーマス・グラバーにも、直接話を聞いていたのではないか、と推測されます。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
クリエーター情報なし
文芸社


 ユニオン号事件に関しますトーマス・グラバーの談話につきましては、明治45年2月刊行の「防長史談会雑誌」27号に、中原邦平が聞き取ったものが掲載されていまして、現在、山口県立図書館にコピーをお願いしているのですが、まだ届いておりませんで、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」に一部引用されておりますので、参考にさせていただきます。

 このグラバー談話、ですね。活字になったのは明治45年ですが、グラバーは明治41年に叙勲されておりまして、山本氏によれば、これは井上聞多と伊藤博文の強力な推薦だった、というんですね。そして、そのために経歴をまとめる必要があり、聞多が中原邦平に頼んだ一環で、中原邦平はグラバーにインタビューしたのではないか、だとすれば、明治41年より前にそれは行われていたはず、ということなのです。

 グラバーの晩年は、基本的に東京住まいです。
 私、「維新土佐勤王史」の執筆準備を始めました坂崎紫瀾が、グラバーの話を聞かなかったはずはない、と思うんですね。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に書いておりますが、維新以降、グラバーを引き立てましたのは、大久保利通と大隈重信でして、グラバーのパートナーは岩崎弥太郎です。
 後藤象二郎の伝記を書きました紫瀾が、グラバーに話を聞きますのは、自然の成り行きかと思います。

 それで、近藤長次郎自刃につきましてのグラバー談話なのですが、山本氏によりますと、おおよそ以下のようです。
 「浪士たちが血判して攘夷団体ができて、長次郎はその一員だった。ところが長次郎は薩摩の人と交際するようになって攘夷に反対するようになり、薩摩の小松帯刀がイギリスへ逃がしてやってくれと頼んできた。そこで私の船に乗せたが、風が反対になってその日は出帆することが出来なかったので、日本を離れるなごりに一夜、長崎の茶屋で長次郎が遊んでいたら、坂本龍馬が踏み込んできて、攘夷の盟約に背いたと長次郎を責め、切腹になったということだ」

 これ、ですね。クラバーはもう、さまざまな記憶をごちゃごちゃにして、おもしろおかしく語っているようなのですけれども、まず。
 社中が攘夷団体であった、ということにつきましては、実際には薩摩から給金を受けていたのですけれども、薩摩は客分あつかいしておりましたし、ユニオン号の交渉では、社中のメンバーが伊藤博文、井上聞多とともにグラバーの前に現れ、長州よりの浪人たち、というような印象が残ったんでしょう。

 グラバーが長州への武器と軍艦の売り渡しをしぶっていたにつきましては、近藤長次郎とライアンの娘 vol2で書きましたように、長崎奉行所に届け出ることのできない朝敵・長州との取り引きは条約違反となる、といいますことも、もちろんあるのですが、伊藤と井上が長崎に武器と軍艦を買いに行きました慶応元年(1865)のほんの2年前、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますが、文久三年(1863)の馬関攘夷戦におきまして長州海軍は、オランダ海軍士官の助言を受けて砲を据えつけました洋式帆船・庚申丸、砲10門のイギリス製の小さな木造帆船・癸亥丸などで、見境もなく、外国商船に襲いかかったんですよ? 
 ついでにいいますと、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3に書いておりますが、長州攘夷派は、薩摩商船を二度も攻撃しましたが、薩摩商人が殺害され、積み荷も船も焼き捨てられました加徳丸は、グラバーに売り渡す綿花(アメリカの南北戦争で国際価格がつり上がっていました)を積んでいたんです!
 この時期、自由貿易を信奉しますイギリス商人たちも、さすがに、狂犬みたいに襲いかかってきました長州に、武器を売ろうという者はおらず、薩摩の名義借りに関係がなかった井上・伊藤とは別ルートの買い入れは、失敗に終わっているんです。

 「私の船に乗せたが、風が悪く出帆することが出来なかったので、茶屋で遊んでいた」、の部分は、おそらく、「団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航」の、肥前鍋島藩の石丸虎五郎と馬渡八郎、安芸の野村文夫の密航とごっちゃになっているんでしょうね。
 私、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」でも推測しておりますが、伊藤が書簡で「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」と言っていました長次郎の洋行は、肥前鍋島藩の石丸、馬渡、安芸の野村といっしょだったのではないか、と思うんですね。石丸はオランダ海軍伝習を受けていたのですから、当然勝海舟の知り合いです。野村も勝海舟の門人に知り合いがいたようですし、長崎で知り合って、そのまま洋行話になって、おかしくないのではないでしょうか。

 これ、いわばグラバーの持ち船でしたし、野村の日記に、風待ちで出港が遅れた話や、日本を離れるなごりに、上陸して長崎の茶屋で思う存分遊んだ話が出てきます。
 なにしろ長崎からイギリス直行の貨物船ですから、あまり費用はかかりませんし、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4で書きました長次郎の海軍振興の上書(建白書)(やはり「玉里島津家史料三」にありました!)は、使節と留学生とのイギリス密航に向けまして、最後の決断をしようとしておりました島津家にとって、非常に参考になるものだったでしょうし、少々の費用ならばと、小松帯刀が出す話になっていたのではないでしょうか。
 そして、おそらくは伊藤の言う通り、長次郎はユニオン号の周旋で、石丸たちとは洋行できませんで、また別の洋行話が持ち上がったんだと思うんですね。
 しかし、それはまた後に検討することにいたしまして、グラバー談話です。

 最後に、「坂本龍馬が踏み込んできて、盟約に背いたと長次郎を責め、切腹になった」という部分ですが、これは、「汗血千里駒」の照り返しでしょう。
 当然のことなのですが、グラバーは、長次郎の死の状況がどうだったのか、知らないんです。知っていたのは、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人だけです。
 グラバーは「汗血千里駒」が描きました長次郎の死の状況を、本当のこととして、聞いたのだと思います。誰からって、岩崎弥太郎からです。

 覚えておいででしょうか? 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1で書きましたが、長次郎は岩崎弥太郎の愛弟子でした。弥太郎は明治18年に世を去りましたが、その2年前に、「汗血千里駒」は出版されていまして、弥太郎が読んだ可能性は高いと思います。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に書いておりますが、弥太郎は最晩年、井上聞多が後援します共同運輸会社と熾烈な競争をくりひろげ、その心労で病死したともいえるほどでして、その時期に、幕末からの知己で、長年のパートナーでしたグラバーに、最新の出版物が語ります龍馬と長次郎のことを、話したとしてもおかしくないのではないでしょうか。

 というわけでして、グラバー談話は、ほとんど事実に即していないのですけれども、坂崎紫瀾は、そのうち「イギリス船で翌日欧州へ出発するはずだった」を採用し、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」を書いたのだと、私は推測しています。「盟約に反したと仲間に攻められた」といいます部分は、グラバーの裏付けも得られた、と思っていたのではないでしょうか。

 では、黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのでしょうか。私は、この部分こそ高松太郎から聞いた話だったと思います。なぜならば、なにが起こったのか事実を知っていたのは、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人だけだったのですから。
 
 次回、私の推測を述べたいと思います。

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