郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

普仏戦争と前田正名 Vol8

2012年04月09日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol7の続きです。

 バイエルン王国です。
 バイエルン選帝侯領は、グリム兄弟が生まれましたヘッセン=カッセル方伯領と同じく、神聖ローマ帝国の領邦国家でした。
 ヘッセン=カッセル方伯領との大きなちがいは、カトリックが支配的な宗教であったことです。

バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成
谷口 健治
山川出版社


 谷口健治氏の「バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成」の「終わりに」より、以下引用です。

 1789年の革命によって近代国家に転換したフランスの軍事的圧力を受けて、領邦国家の連合体というかたちで生き延びていた神聖ローマ帝国は、1801年に崩壊を始めた。その渦中で、領邦国家の整理統合が行われ、最終的には35の領邦国家が生き残った。生き残った領邦国家は消滅した領邦国家に所属していた領土を抱え込むことになり、旧来の領土と新しい領土を融合させるために中央集権的な近代国家体制を採用せざるをえなくなったのである。1806年に神聖ローマ帝国は消滅し、領邦国家の君主は完全な主権を獲得したので、領邦国家体制にとどまっている必要もなくなった。さらに、そこに、フランスの法体系や社会体制の輸出を目論むナポレオンの圧力が加わった。大国のプロイセンすらナポレオンの軍隊に抗しきれず、1807年には近代国家建設に向けて舵を切らざるをえなくなった。

 前回、すでにご紹介しておりますセバスチァン・ハフナー氏の「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」によりますと、プロイセンは決して大国ではありませんでしたし、1806年以前にも、「革命後のフランスに進歩性や近代性で負けまいとして、またフランス革命の成果を上からの改革によって模倣しようとして、感動的とさえ言える必死の努力をしていた」のであって、決して、ナポレオンの圧力によって近代化が推し進められたわけではないそうなのですけれども、フランスの圧力があったがゆえに必死の努力をしないわけにはいかなかった、という言い方もできますから、大筋において、谷口健治氏の述べておられることにまちがいはないでしょう。

 ドイツ領邦国家の整理は、神聖ローマ帝国の解体にともなって、必然的に行われたことです。
 フランス革命は、なにしろ王の首を斬り落とし、新しい秩序を打ち立てよう、というところまでいってしまいましたので、王を王たらしめていましたカトリック教会とも、当初、徹底した縁切りをするしかなかったんです。

 ジャン・ボベロ氏著、フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ)によりますと。
 アメリカは清教徒の国でしたから、その独立宣言には「創造主によって……侵すべからざる権利を与えられている」「この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼とともに、我らは相互に以下のものを約する」とありまして、人権をもたらしたのは神(God)なのです。

 一方、フランスはカトリックの国でしたから、「人権宣言の第三条は、主権(=至高性)を宗教から独立したものにしている。つまり、主権は国民から来るのであって、もはや神授権に与る国王は存在しない」ということなのです。

 カトリックは古い宗教で、司教が領主であったり、世俗の権力でもありましたから、そのカトリックを国の宗教としておりましたフランスでは、革命前から宗教の世俗化が進んでおりました。
 アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、フランスにおきますカトリックは、いわば日本の葬式仏教に近いような状態で、アメリカの清教徒のようなプロテスタントの方が、はるかに信心深い場合が多かったわけです。

 とはいいますものの、それまで、それなりに社会を律していましたカトリックを、一挙に全否定してしまいますことには無理があり、ロベスピエールが権力を握りました時期には、ルソーのいわゆる至高存在を神のようなものととらえ、市民教という奇妙な宗教を作り出そうとする模索もありましたが、失敗に終わります。

 再びジャン・ボベロ氏によりますと、結局、フランス革命におきますライシテ(脱宗教性)は不完全で、矛盾をはらみ、非常に不安定な状況を生み出したのですけれども、その混沌を受け継ぎましたナポレオンは、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んでカトリック教会と和解しますが、「革命で得られたいくつかのことが安定したやり方で具体化されているし、市民と認められた人間(男性)の法の前での平等が達成されている。また、限界こそあれ、宗教と信条の自由がきちんと与えられている」というような、施策をとります。

 ナポレオンは、コルシカ島の弱小イタリア貴族の子弟にすぎませんで、神授権を否定した革命の申し子でした。
 神聖ローマ帝国の否定は、その帝冠をひきずったオーストリアのハプスブルク家の権威の否定でありますと同時に、カトリックの頭領ローマ法王の権威の否定でもあったんです。

 ナポレオンがオーストリアをたたきのめした後、1801年に結ばれましたリュネヴィル講和条約によって、神聖ローマ帝国領邦国家の整理統合がはじまりました。
 結果、谷口健治氏によりますと、以下のようなことになります。

 帝国代表者会議によって正式決定された領土の変更は、非常に大規模なものであった。この領土の変更によって、マインツからレーゲンスブルクに移転したもとのマインツ大司教とドイツ騎士団の領土を除いて、68の聖界諸侯領はすべて姿を消した。また、51の帝国都市のうち、45の都市が帝国直属の地位を失った。聖界諸侯から取り上げられた領土や帝国都市は、ライン左岸がフランスに割譲されたために領土を失った世俗の帝国諸侯に補償として分配された。これによって、神聖ローマ帝国は重要な支柱であった聖界諸侯と帝国都市の大半を失い、崩壊への歩みを速めることになった。

 まあ、あれです。
 聖界諸侯領を天領に置き換えれば、廃藩置県で日本に起こったことに、似ているといえば、いえなくもありません。
 薩摩とか土佐とか長州とかは、「領邦国家」でも規模が大きく、薩摩にいたっては、琉球国名義で独自外交をくりひろげて西洋諸国と独自の通商条約を結ぼうとしていたのですから、幕末、幕府の統制がゆるんでバイエルン王国並になっていた、とはいえるでしょう。
 しかし、わが愛媛県、7世紀の令制国の一つであります伊予国は、江戸時代、十五万石の松山藩を筆頭に、小は小松藩、新谷藩の一万石まで、十近い藩に分かれていまして、別子銅山を中心とします天領も混在していました。

 ツヴァイヴリュッケン公爵マクシミリアン・ヨーゼフは、ルートヴィヒ2世の曾祖父ですが、1799年2月、縁戚で嫡出子がいませんでしたバイエルン選帝侯カール・テオドーアの死によって、バイエルン選帝侯領を受け継ぎました。
 マクシミリアン・ヨーゼフは、フランス王軍のドイツ人部隊、アルザス連隊の司令官の地位にあったくらいでして、フランス文化になじんでいました。
 しかし、フランス革命のためにその職を失い、しかも1795年、やはり嫡出子がおりませんでした実兄が死に、ツヴァイヴリュッケン公爵となりましたときには、その公国はフランスに占領され、無くなってしまっていました。

 私、これもまったく知らなかったのですが、バイエルン人は伝統的に、オーストリアが嫌いだったんだそうです。
 そうは言いましても、フランス革命勃発直後、1792年に始まりました対フランス戦争は、プロイセンとオーストリア、そして神聖ローマ帝国領邦諸国が戦ったのですから、バイエルンに迷いはなかったでしょう。

 しかし、1795年、プロイセンが戦線を離脱しましてから、国内には親フランス勢力もあって、厭戦気分がひろがっていたようなのですが、前選帝侯カール・テオドーアが親オーストリアだったことも手伝い、マクシミリアンが選帝侯になりましたときには、バイエルンは対仏同盟に取り込まれて、オーストリアの大軍が国内に駐留していました。

 マクシミリアンは、オーストリアを牽制する意味からも、ロシアに近づき、ロシアの仲買でイギリスからの補助金を受けることにしました。
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争4に書いているのですが、伝統的に正規常備陸軍が小規模でしたイギリスは、同盟国の陸軍に資金援助をすることがよくありました。
 イギリスはまた、 神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯領と同君連合でして、ときのイギリス王ジョージ3世はハノーファー選帝侯ゲオルク3世でもあったわけですから、ナポレオンによります攻勢は、他人事ではありませんでした。
 しかし、バイエルンのイギリス補助金軍と言いますのも、なんだか奇妙です。

 その補助金軍は、オーストリア軍に合流しまして、スイス方面からドナウ川添いに東進してきますフランス軍と戦いましたが、敗退し、フランス軍はバイエルン領内に入って、首都ミュンヘンを占領します。
 いったん退却しましたオーストリア&補助金軍は、さらに1800年12月、ホーエンリンデンで大敗を喫しました。
 この年の6月、北イタリアのマレンゴでも、オーストリアはナポレオンが指揮するフランス軍に敗れていまして、ついにリュネヴィル講和条約が結ばれ、前述しました神聖ローマ帝国領邦国家の整理統合、となったわけです。

 もともとが領土の大きかったバイエルンは、敗戦国でしたし、この整理統合で、領土をひろげたというほどではありませんでした。
 しかしフランスは、オーストリア、プロイセンを牽制する意味で、この地域に中規模国家を育成したがっていましたので、バイエルンは近隣にあった司教領や修道院領、帝国都市を得ることとなり、領土一円化の足がかりができました。
 以降、バイエルンはフランスに近づき、オーストリアと手を切ります。
 
 再び、「バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成」より引用です。

 1799年にマックス(マクシミリアン)・ヨーゼフの政権が誕生すると同時に近代国家への模様替えが始まっていたバイエルンの場合も、その後の事情はほかのドイツの領邦国家と変わらなかった。1801年から始まる神聖ローマ帝国の崩壊過程で、バイエルンはナポレオンと手を結んで領土を拡大した。バイエルンの場合、領土の拡大に近代国家への転換の出発点があるわけではないが、領土の拡大が近代国家体制の整備を促したことは間違いない。1806年にはバイエルンは王国に昇格し、神聖ローマ帝国も消滅したので、近代国家体制を整備するうえでの障害物もなくなった。その後、ナポレオンとの外交的駆け引きのなかで、1808年にはバイエルン最初の成分憲法が制定されて、非常に中央集権的な近代国家が生み出されることになった。

 結局のところ、プロイセンにしろバイエルンにしろ、です。
 フランス革命戦争からナポレオン戦争へ、フランスが欧州に巻き起こしました嵐の中で、自国の独立を保ちますためには、上からの近代化をはかる以外に、方法はなかったんです。
 そういった点において、当時のドイツ領邦国家群は、欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達しました幕末維新期の日本と、似ています。

 先に書きましたが、バイエルンは基本的にカトリックの国でした。
 ところが、領土が拡大しますことによって、四分の一のプロテスタントの人口をかかえこみます。
 それまで、もちろん、領邦によって宗教政策はちがっていたのですが、バイエルンが国としてまとまりますために、宗教政策も中央集権化する必要に迫られ、1809年、宗教勅令によって、キリスト教宗派の平等な取り扱いを保証し、宗教活動の自由を認め、と同時に、カトリック教会に対しては、国家の統制権を強化し、ローマ法王とコンコルダート(政教条約)を結んで調整する方向へ進みます。

 ただし、谷口健治氏によりますと、個々の住民の宗教の自由は保障されましたが、バイエルン国内で宗教活動が行えるのは、カトリックとプロテスタントのルター派、カルバン派のみでして、これらの宗派に関しては、国がその人事や財政にも深くかかわっておりまして、徹底的にライシテ(脱宗教性)が追究されたわけでは、ありませんでした。
 しかし、それが19世紀ヨーロッパ近代国家のグローバルスタンダードでしたし、それによって国の安定が得られたわけです。

 国の近代化は、軍隊の近代化に直結します。
 どうも日本では、軍の近代化といいますと、銃器だとか火器の話になってしまうのですけれども、何度か書きましたが、簡単にいいまして、19世紀の大陸国家の陸軍の近代化とは、国民を総動員しまして、ものすごい数の歩兵をそろえることが基本なのです。
 志願兵制で、ものすごい数の歩兵が集まるわけがないですから、必然的に国家が強制力を持って施行する徴兵制となります。

 いわば、ごく一般の人々が大量に、軍隊の最下級の一兵卒になるわけですから、ここでやたらめったら鞭がふるわれたり、奴隷そのもののような扱いですと、徴兵制は機能しません。
 軍の組織そのものが、人権を配慮しましたものに近代化される必要も、出てくるんです。

 そして、ごく一般の農民や商工業者の子弟が大量に動員されるといいますことは、どこの国と同盟してどういった外交を展開するのか、自国の外交が自分たちの運命に直結することになりますから、庶民に政治参加への意欲が生まれ、国民としての意識も強固なものとなり、ナショナリズムが燃え上がりやすくなるわけなのです。

 バイエルン人のドイツナショナリズムが燃え上がりましたのも、プロイセンと同じく、前回に書きましたナポレオンのロシア遠征によって、でした。
 ロシア遠征に参加しましたバイエルン軍3万6千人のうち、無事に帰国できたのは5千人あまりだった、といいます未曾有の惨状に、バイエルン人の対仏感情は極度に悪化し、ドイツナショナリズムが野火のようにひろがっていきます。

 しかし、ナポレオンと手を結び、国を大きくしてきましたバイエルンにとりまして、外交転換の舵取りはむつかしく、1813年、諸国民戦争の最後の最後の段階で寝返り、退却するナポレオン軍に反旗をひるがえします。
 6万のナポレオン軍に襲いかかりました2万5千のバイエルン軍(オーストリア軍とあわせて4万3千)は完敗し、9千人の犠牲者を出すのですが、この犠牲のおかげで、ナポレオンと戦ったという実績が残り、連合軍の仲間入りをして、フランス国内に攻め入ります。
 そして、戦後処理におきましても、バイエルンは領土を減らすことなく、中規模王国として、ドイツ連邦の一員となることができたのです。

 それからおよそ50年、初代国王マクシミリアン・ヨーゼフの曾孫の代になりまして、再びフランス国内へ攻め入って戦うことになったわけなんですけれども。
 バイエルン王国のその後の50年を解説した参考書にはめぐりあえませんで、またしても「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」を参考に、簡単にまとめます。

 
図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
セバスチァン ハフナー
東洋書林


 1815年、ウィーン会議の結果、勢力均衡がはかられ、欧州には平和が訪れました。
 フランスの王政復古とともに、ドイツ領邦諸国も保守的な雰囲気につつまれますが、しかし、フランス革命とそれに続きましたナポレオン戦争によって、神聖ローマ帝国は消えてしまったわけですし、けっして後戻りのきかない変化が生まれていました。
 セバスチァン・ハフナー氏によりますと、「国民は民族としての同一性を意識しはじめ、民主主義的民族国家を要求しはじめ、勃興しつつあった市民階級は自由主義的憲法を欲していた」ということになります。

 そして、ナポレオンの没落で訪れました欧州の平和は、イギリス一国が先行しておりました産業革命の本格的な波を大陸にもたらし、鉄道が敷かれ、中産階級(ブルジョア)の層が厚くなりますと同時に、都市労働者の数が急増していきました。

 ライン川西岸のラインラントは、神聖ローマ帝国の小領邦国家が並んでいた地域だったんですが、ナポレオン戦争時にはフランスに占領され、ウィーン会議によりまして、プロイセンの領土とされました。
 この地帯は、フランスに隣接していました上に、プロイセンからは飛び地で、自由主義的傾向が強かったものですから、当初は、「オーストリアのメッテルニヒが、プロイセンにお荷物を背負わせようともくろんだことではないのか」とまでいわれましたが、鉱工業が栄え、産業革命の牽引車となった地域です。
 ウィーン会議から間もない1818年、カール・マルクスが、このラインラントに生まれています。

 ドイツ関税同盟は、飛び地ラインラントの存在から、流通の不便を痛感しましたプロイセンが、1828年にまずはヘッセン=ダルムシュタット大公国と関税協定を結び、北ドイツ関税同盟を成立させたことにはじまります。
 しかし、当初はドイツ連邦諸国の警戒を招き、バイエルンはヴュルテンベルクとともに南ドイツ関税同盟を立ち上げ、またザクセン、ハノーファーを中心としまして、グリム兄弟の祖国ヘッセン=カッセル選帝侯国などを含む中部ドイツも、通商同盟を作ったのですが、結局のところ、この分裂はドイツ連邦経済にとってマイナスでしかありませんで、プロイセンが個々に働きかけて、切り崩し、ついに1834年、ドイツ関税同盟が発足します。
 この経済的な一体化は、域内の流通を促進しましたし、さらに政治的な一体化を求める声も、大きくなっていきました。

 欧州で活発になってまいりました民族運動は、多民族国家でしたオーストリアにとりましては危険きわまりないものでした。
 しかしプロイセンは、ほぼドイツ民族のみの大国でしたので、他民族の反乱の心配はなく、むしろドイツ連邦諸国の民族主義者から、統一国家の核となることを望まれていました。
 しかし、オーストリアの政治家・フェリックス・シュヴァルツェンベルクは、多民族帝国オーストリアにドイツを呑み込んで、いわばかつての神聖ローマ帝国を、近代版として蘇らせるような構想をもっていまして、シュヴァルツェンベルクが長生きをすれば、あるいはそういう可能性も皆無あったかもしれない、といわれております。

 ともかく、紆余曲折がありましたけれども、プロイセンとオーストリアは、ドイツ統一の主導権を争いまして、1866年、普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)となりました。
 このときのプロイセンとオーストリアを、現代の感覚で見ますと、ちょっと事実とちがってしまうでしょう。
 いまのオーストリアは小国ですが、当時のオーストリアは、広大な領土を持った老大国です。
 当時の民族主義者は、自由主義者でもありまして、いわば進歩的な勢力と見られていたのですが、プロイセンを核とした統一を望んでいましたドイツ人は、大方そういう人々でした。

 そして当時、オーストリアがプロイセンに勝つ可能性の方が高いと、見られてもいました。
 プロイセンの側につきましたのは、北ドイツの小邦のみで、バイエルン、ヴュルテンベルクの南ドイツはもちろん、中部ドイツも、オーストリアの味方につきました。
 プロイセンが同盟を結びましたのは、ほぼ統一を果たしたイタリアです。イタリアの目的は、オーストリアの支配下にあったヴェネト地方でした。

狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫BIBLIO)
ジャン デ・カール
中央公論新社


 ジャン・デ・カール氏の伝記によりますと、若きバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、普墺戦争を目前にして国事を放り、崇拝する作曲家のワーグナーに会いに行ったりしていたのですが、ワーグナーの説得でようやく議会の開会宣言を行い、その宣言の中で「偉大なる祖国ドイツ」を語って野党自由党の拍手をあび、しかし「一触即発の状態にある内戦を嫌っている」と述べて、保守派の顰蹙を買ったんだそうです。

 よく知られている話だと思うのですが、この当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と、美貌のオーストリア皇后エリーザベトは、従兄妹です。
 フランツ・ヨーゼフの母親ゾフィー・フォン・バイエルンとエリーザベトの母親ルドヴィカ・フォン・バイエルンは姉妹で、ルートヴィヒ2世の曾祖父、初代バイエルン国王マクシミリアン・ヨーゼフの娘でした。

 しかも、当時のプロイセン王ヴィルヘルム1世の兄で、先代の王だったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の王妃、エリーザベト・ルドヴィカ・フォン・バイエルンもまた、マクシミリアン・ヨーゼフの娘でした。
 つまり、オーストリア皇帝夫妻の母親と、プロイセンの王太后は姉妹で、ともにバイエルン王国の王女だったわけです。

 さらに、ルートヴィヒ2世の母親、マリー・フォン・プロイセンは、ヴィルヘルム1世の叔父の娘、つまりはプロイセン王の従妹で、王家の話をしますならば、ドイツ諸国はどこもが親戚状態でして、まさに内戦でしかありませんでした。

 そしてルートヴィヒ2世だけではなく、実はバイエルン国民も、この戦争を嫌がっていたのではないか……、という証言が、他にもあります。
 実は、これが私をバイエルンに深入りさせたのですが、19世紀のフランスの作家アルフォンス・ドーデが、普仏戦争を描いた連作の中で、なんと!!!バイエルン王国と幕末の日本を重ねて描いているんです。
 バイエルンと幕末の日本になんの関係があるか、ですって?
 それが……、シーボルトなんです。
 シーボルトは、バイエルンの出身でした。

 長くなりましたので、続きます。
 バイエルンのお話は次回で終わり、その次から、正名くんのお話に入る……、はずです。

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