郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 上

2012年04月01日 | 幕末留学

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 下・後編高杉晋作とモンブラン伯爵の続編、ということになるでしょうか。

 実は仕事が入りまして、おもしろい仕事というわけではないのですが、貧乏性な私は、入ってきました仕事を断ることができません。
 まあ、少しでも原稿収入がありますと、参考書籍費などはかなりな額にのぼりますから、私の青色申告にはかえって好都合だったりするかも、な実利もあったりします。

 えーと、しかし。仕事はおもしろくないですから、引き受けておいて逃避に走るわけです。
 とはいいますものの、仕事があるということがひっかかりまして、ブログ書きに集中することも難しくなっているわけなのですけれども。
 高杉晋作の従弟にして義弟、南貞助のことを書きたくなってから、二度横道にそれました。
 これを書かなくては、気分が落ち着きませんで、書くことにしました。

 最近、私、死ぬまでに、ちゃんとした桐野利秋の伝記を書き残したいなあ、と思うようになりまして、仕事からの逃避も手伝いまして、頭の中であれこれ、中村半次郎の幼少期を思い描いております。
 私が初めて鹿児島を訪れましたのは、いまの姪と同じくらいの乙女のころでして、考えてみましたら、あのころは半次郎の存在さえも知らず、西郷、大久保の名前くらいは知っておりましたが、「昔、暑苦しいおっさんたちがいたのよねえ」くらいの感慨しかありませんでした。
 
 じゃあ、なにしに鹿児島に行ったかって、種子島でロックコンサートがあったんです。
 ああ、映画「半次郎」でお母さん役だったりりィが、出演していました。
 といいますか、「半次郎」にりりィが出ていたことにびっくりです。
 福岡でミキサーをやっていました友達一行と一緒でして、コンサート機材満載の四トントラックとともに福岡から鹿児島まで夜中に走ったのですが、ちょうどその夜中、福岡エリアではザ・バンドの解散コンサートがテレビ放映されるという話で、なんとしてでも見ようと、さびれたドライブインなんかに入ってみたんですが、福岡県でも山の中では放送が入らず、一同がっかり。

 道中、私はよくは眠れないままに、うつらうつらしていたのですが、「着いたよ」と言われ、車から出て仰いだ目の前の桜島の姿。いまも、忘れることができません。
 ここで、この景色を見ながら子供のころから育った人って、どんな思いを抱くのだろう?
 そのとき、私の頭の中に鳴り響きましたのが、I Shall Be Releasedだったのは、一晩、ザ・バンドの解散コンサートが見たいっ!と思いつめたあげくだったから、かもしれません。

ザ・バンド with ボブ・ディラン アイ・シャル・ビー・リリースト


 
 I see my light come shining from the west unto the east.
 Any day now, any day now, I shall be released.

 西から東へ、届く光がきらきらとおれを照らす。
 いつの日か、いや今すぐにでも、おれは自由になれるだろう。

 太陽も月も、東から出て西へ動きます。
 だのになぜ、光が西から東へなのかと言いますと、時事にからめてさまざまに解釈されてきました歌です。
 ボブ・ディラン作詞作曲のこの歌が、最初に世に出ましたのは1967年でしたから、「西からの光とは、アメリカ西海岸を中心に起こったカウンターカルチャーのこと」といわれ、1990年代にリバイバルしましたときには、「東側共産圏を照らす西側自由世界の光のこと」なんぞともいわれたようです。

 幕末日本にこの歌をもってきますと、当然、西からの光とは、西洋近代文明なのですが、それはきらきら輝くだけではなく、極東の人間にとりましては、植民地化の危機をともなった身を焼く業火でもあったわけでして、自由になったのか不自由にならざるをえなかったのか、結局のところ、解放の光だったと言ってしまうことはできません。
 できませんけれども、しかし。
 きらきらとした異世界の輝きは、わくわくドキドキ、危険をともないつつも、好奇心をかきたててくれます。

 今気づいたんですけれど、ザ・バンドのロビー・ロバートソンは、大河の「翔ぶが如く」で大久保をやりました鹿賀丈史と顔が似てますね。
 考えてみますと、なんといいますか実に、幕末日本にふさわしい歌だと思います。

 幕末、貞ちゃんもまた、西からの光を受けて、勢いのおもむくままに密航した一人です。
 貞ちゃんには、「宏徳院御略歴」といいます自叙略伝が残っていまして、東大史料にこれがあることは確かなんですが、ほかにないものなのかどうか、ともかく、読みますのがけっこう面倒そうでして、実はまだ読んでおりません。
 しかし、下記、小山騰氏の「国際結婚第一号」には、けっこう詳しく伝記が載っておりまして、参考にさせていただいて、述べて参ります。

国際結婚第一号―明治人たちの雑婚事始 (講談社選書メチエ)
小山 騰
講談社


 南貞助の母親は、高杉晋作の父親の妹でした。
 貞ちゃんは南家の三男で、高杉家の一人息子でした従兄の晋作より、八つ年下。
 文久元年(1861年)、14歳の時に高杉家の養子になります。
 晋作さん、妹は三人いましたが、男の兄弟はおらず、従弟にして義弟になりました貞ちゃんをとてもかわいがり、また貞ちゃんはどうも、実の兄よりも晋作さんの方を慕っていたようです。まあ、素っ頓狂なところはよく似てましたし。

 元治元年(1864年)は長州にとって、大変な年でした。
 前年に、長州は下関で外国船を一方的に攻撃するという攘夷戦をやらかし、八・一八政変で京都を追われ、そのつけがすべてこの年にやってきまして、晋作さんは、京都進発に燃える来島又兵衛に世子の親書を届けてとめるも、元気きわまった来島のじいさんを説得することができませず、わけがわかりませんことに、これでは役目が果たせないからと、単身上方へ出奔。
 京都では、中岡慎太郎とともに島津久光暗殺を計画しますが、果たさず、高杉晋作 長府紀行に書いておりますように、妻にいろは文庫を贈って帰藩し、脱藩の罪で士籍を削られ、投獄。

 父親の懸命の尽力で、親戚預け、謹慎になったところで、禁門の変が起こり、英仏蘭米の四国連合艦隊が下関に攻めよせます。
 しかし、なにしろ晋作さんは謹慎の身ですから、かかわりたくともかかわれない状態。
 ここらあたり、晋作さんの素っ頓狂は身を助けている、ともいえます。
 禁門の変で木戸は行方不明。他に人材がなく、晋作さんは英仏蘭米との講和にかつぎだされ、役目を果たすんですが、その後の長州はガタガタです。
 
 講和して攘夷の旗を降ろした、といいますことは、それまで藩内をリードしてきました反幕派(松蔭門下生中心)の権威が失われることでした。それをなしとげたのが、反幕派の高杉たちだったにしても、です。
 と、同時に、禁門の変で御所に発砲しましたことから、長州征討の勅命が下り、第一次長州征討がはじまります。
 勅命ですから、長州は朝敵になったわけでして、反幕派の尊皇の看板もおかしなものになるんですね。
 藩論は急速に保守化しまして、いわゆる俗論派が政権を握り、松島剛蔵などは投獄されますし、晋作さんも身が危うくなり、脱藩して筑前に逃れます。
 この間、貞ちゃんがなにをしていたかはさっぱりわからないのですが、17歳と若いですし、まあ、勉学に励んでいたのでしょうか。

 
クロニクル高杉晋作の29年 (クロニクルシリーズ)
一坂 太郎
新人物往来社


 上の本の「高杉家と谷家の謎」におきまして、一坂太郎氏は次のように述べておられます。
 元治元年12月、晋作さんが筑前から藩地へ帰り、功山寺挙兵に踏み切りましたとき、晋作さんの父親は、家を守るために晋作さんを廃嫡し、すでに嫁いでいました晋作さんの末の妹ミツを呼び返して、婿養子を迎えます。
 晋作さんは、筑前へ亡命するときに、谷梅之助と変名していたのですが、この実家との離縁で変名の方が重要なものとなり、さらに翌慶応元年9月、幕府の追究をかわすために高杉晋作という名前は抹消されまして、谷潜蔵という変名が、晋作さんの正式な名前となったような次第なんだそうです。

 貞ちゃんは、元治元年に晋作さんとともに高杉家と縁をきり、谷松助と名乗った、といいますから、筑前への亡命はともかく、功山寺挙兵のときは、晋作さんによりそっていたのではないか、と思われます。
 挙兵は成功し、長州は再び反幕姿勢を固めますが、その原動力となりましたのは奇兵隊を中心とします諸隊であり、一坂太郎氏の春風文庫・研究室 ~ 長州奇兵隊は理想の近代的組織だったのか(中央公論」平成22年10月号掲載)によりますと、晋作さんは「人は艱難を共にすべきも、安楽は共にすべからず」と述べて藩政府の一翼を担おうとはせず、しかしある種の敗北感を抱きつつ、慶応元年3月、海外渡航を志します。

 しかし、同じく春風文庫の研究室 ~ 晋作と『英国志』(晋作ノート20号・平成22年11月)によりますと、晋作さんの渡洋希望はずっと以前からのものですし、そこらへんが晋作さんの勘の良さなのですが、とりあえず藩内で自分にできることはなく、将来を見すえて、一度西洋を視察しておきたい、ということだったのでしょう。

 晋作さんは藩の許可を得て、長崎まで行き、グラバーに相談するのですが、「井上伯伝」によりますと、イギリス領事ラウダから「いま長州の外交の中心にいるあなたがたが渡航すべきときではない。新任の公使ハリー・パークスが赴任してくるところなので、新たな外交がはじまる。下関を開港するのはどうだろうか? 長州に多大な利益となるはずだ」というような話を聞き、あきらめます。
 そして、いわば自分の身代わりに、貞ちゃんをイギリスへ留学させるんです。

 長州藩は、18歳の貞ちゃんとともに、藩海軍の俊才で21歳の山崎小三郎、そして竹田傭次郎を留学させることに決定します。
 慶応元年春、貞ちゃんと山崎、竹田は、とりあえず上海に渡りまして便を待つのですが、竹田はどうしても帰国しなければならなくなり、遅れて、単身渡英することになりました。
 したがいまして、上海から英国まで、貞ちゃんは三つ年上の山崎と二人で、旅をしました。

 先の長州ファイブのときもそうだったんですが、長州の密航留学といいますのは、どうも思いつきじみていまして、あんまり計画性がないように感じます。といいますか、あるいは薩摩とくらべて、金のかけかたが少なすぎ、なんでしょうか。
 それでも一人頭一千両は用意していた、というのですけれども。
 また、金がないならないで、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航の三人のように、グラバーに貨物船を世話してもらうとか、ですね、なんとかする工夫が必要だったはずなんです。

 まあ、あるいは若すぎた、というのもあるかもしれません。
 安芸の野村と肥前の二人はみな30歳前後、当時としましてはいい年のおっさんですし、世間知に長けていたのでしょうけれども、貞ちゃんは素っ頓狂なおぼっちゃんですし、山崎はエリートすぎまして、どーしたらいいのか、状態であったのかもしれません。
 ちょっといま、竹田傭次郎の年がわからないのですけれども、あるいは竹田が二人の世話係の予定だったりしたんじゃないのかと、思ってみたりもするんですけれども。

 ともかく、です。
 貞ちゃんと山崎は上海から130日、つまりは四ヶ月と10日かかって、ようやくイギリスへたどりつきましたときには、一千両をほとんど全部使い果たしていた!!!といいます。
 なんなんでしょうか、いったい。
 同じグラバーの世話で、野村たち三人が片道一千両も使ったとは、私にはとても思えません。
 なんでも、上海からの船の船長に一人頭一千両渡してそれで全部なくなったというんですけど、馬鹿馬鹿しいにもほどというものがあります。

 翌年の春、晋作さんは、長崎のグラバーに届いた知らせで、イギリスへたどり着きました貞ちゃんと山崎が一文無しとなり、あまりの貧窮生活に、山崎は冬の寒さで肺をやられ、栄養失調も手伝いまして、逝去したことを知ります。

高杉晋作の手紙 (日本手紙叢書)
一坂 太郎
新人物往来社


 上の本より、慶応2年(1866年)3月26日、長崎にいた晋作さんから、木戸、井上に宛てた書簡の一節の引用です。

 「ここに驚くべき一事あり。義弟同行の山崎生、倫頓(ロンドン)にて病死す。これまた金なども少く、寒貧よりして病を起し候様子なり。この事などを君上へ御聞せ致せなば、さぞさぞ御嘆息と察し奉り候。実にこの両人難儀を見候様子にござ候。(中略)山崎も残念は残念にござ候えども、日本人にて西洋に埋骨せし候者未だこれあらず。長門人の先鋒、これまた他邦に勝れるところ、同人の薄命は悲しむべきなれども、かくの如き名臣あるは国家の盛んなるならずや。少々の遊学料を惜しむ位にては困り入り候。政府へさよう御伝声頼み奉り候」
 
 だから、ねえ。
 なんでもっとちゃんと計画して留学費を使わなかったのよっ!!!
 「日本人で西洋に骨を埋めるのは山崎が初めてで、長州人が先鋒となったのは他の藩に勝っているんだっ!!!」なんてねえ、果たして初めてだったかどうかはちょっと置いておきましても(私が知る限りで、アメリカの話なんですが、咸臨丸の水夫が、航海途中から病んで、アメリカへ着く前に一人、着いてから二人死に、サンフランシスコに葬られました。熱病だとかいわれたようですが、脚気だったのではないでしょうか)、誇るべきことなんでしょうか、これ。

 貞ちゃんたちがロンドンに着きましたのは、慶応元年の秋ころでしょうか。
 薩摩藩の密航使節と留学生が、羽島から出航しましたのが元治2年(慶応元年)4月17日で、貞ちゃんたちの離日とほとんど変わらない時期なんですが、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1に書いておりますように、香港までグラバーの船で行き、そこからは豪華客船でしたので、5月28日にはサザンプトンに着いております。
 豪華客船一等客室の船賃が100ポンド。100ポンドって、いくらなんでも一千両にまではならないと思うんですけど。

 長くなりすぎましたので、半分に分けることにしまして、次回に続きます。

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2 コメント

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ご参加ありがとうございます (住兵衛)
2012-04-02 18:35:28
このたびはご参加をいただき、
ありがとうございました。
今後とも継続的なトラックバックで
末永いご愛顧をお願い申し上げます。

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「日本史同好会」 管理人:住兵衛
返信する
やっぱり (郎女)
2012-04-03 11:21:06
トラコミュのことだったんですね。びっくり。
私もいくつか立ち上げて、一応、管理人ということになっていたりするのですが、放ったらかし、です。
なにかしなくてはいけないのか、という気になってあせります(笑)
私のは幕末系ばかりで、住兵衛さまにはあまり関係がないかと思うのですが、よろしくお願いします。
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