郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

アラゴルンは明治大帝か

2005年11月23日 | モンブラン伯爵
毎日書くようになったのは、少しでも多くの方が見てくだされば、情報が入る可能性も皆無ではなくなる、という下心のようです。

ということで、今日は昨日の続きから。
あらましわかったようなことを書きましたが、実のところ、下の英語のサイト、モンブラン伯家に関する情報はわずかなんです。

http://users.pandora.be/enchantingcastles/ingelmunster.html

In the middle of the 19th century, Charles Alb駻ic Descantons - count of Montblanc and Baron of Ingelmunster inherited the castle. The German part of the Plotho dynasty protested but Charles-Joseph and his brother Ferdinand, the 9th generation of Plotho's who owned the castle stayed without an heir and they decided to leave the castle to a Frenchman.

上を、なんとか訳してみたのが下なんですけど、訳が正しいかどうかは自信がありません。

19世紀の半ば、Charles Alb駻ic Descantons - モンブラン伯爵にしてインゲルムンステル男爵が、インゲルムンステル城を相続した。Plotho家のドイツの分家が抗議したが、しかし、城の所有者であったPlotho家9世代目、Charles-Josephと彼の兄弟Ferdinandには、男系の相続人がなかったので、彼らはフランス人に城を任せることにした。

最初に出てくる人名、「Charles Alb駻ic Descantons」、シャルルの後のAlb駻icが文字化けしています。読めないんですけど、人名なのは確かでしょう。わからないのはDescantonsなんですが、Descantonsでぐぐってみると、「Descantons de Montblanc」という名が上位をしめるので、これはモンブラン家に固有の名ででもあるんでしょうか。
「Charles-Josephと彼の兄弟Ferdinand」はPlotho家の方の人名らしいので、カール-ヨーゼフ(フランス語読みジョゼフ)と彼の兄弟フェルディナント、とドイツ語読みした方がいいものなんでしょうか。
後は憶測しかないのですが、19世紀半ばという年代からいって、「Charles Alb駻ic Descantons」は、来日したシャルル・フェルデナン・ド・モンブラン伯の父親でしょう。「Charles Alb駻ic Descantons」の母親、つまりモンブラン伯の祖母が、「Charles-Josephと彼の兄弟Ferdinand」の姉妹なんじゃないんでしょうか。
年代については、少々疑問がないでもありません。下のサイトはオランダ語らしいとわかったのですが、モンブラン伯家が、Plotho家からインゲルムンステル城を相続した年代については、1825と明記してあるんです。

ttp://xxr.xs4all.nl/kasteelbier/kasteelvaningelmunster.htm

- de familie Plotho; 1583 - 1825
- de familie de Montblanc; 1825 - 1986

モンブラン伯の生誕は1833年ですので、まあ父親が相続したとして、年代の矛盾はないんですけど。
下のページもオランダ語らしいとわかり、機械翻訳にかけてみましたところ、どうも、インゲルムンステル城に関する図書館じゃないのかと。しかし、なんでオランダ語なんでしょう。インゲルムンステル城のある西フランドル地方は、フランス語圏と聞いたような気がするんですが。城を買ったビール会社が、オランダ語圏の会社ででもあるのでしょうか。

http://home.scarlet.be/~priemjur/

こうなったら、オランダ語翻訳会社にでも頼んで、ここへ連絡をとってみるしかないですかしら。


で、本日のお題は、このややっこしい欧州言語事情と無縁ではないのですが、映画「ロード・オブ・ザ・リング」のパロディを書いていて、「アラゴルンは明治大帝ではないのか」とふと思ったんですね。
昔、乙女の頃、「指輪物語」を読んだときから、アラゴルンが当然のようにゴンドールの王に返り咲くのは、納得がいかなかったんです。ゴンドール王家が途絶えて1000年後に、2000年前に別れた王家の血筋から跡継ぎがやってきたからといって、1000年間ゴンドールを治めてきた執政家の権威がゆるぐものでしょうか?
インゲルムンステル城だとて、遠い男系が抗議はしても、相続権はないんですよね。
まあ、そこは物語、といってしまえばお終いなんですが、「西洋的な発想じゃないよなあ」という印象は、ずっともっていたんです。
欧州との事情のちがいは置いておいて、考えてみれば、1000年、2000年の時を越えて現代に蘇った帝王といえば、世界で明治大帝しかおられません。
執政、つまり武家に政権がうつってから考えるなら、維新はそのほぼ700年後ですし、王政復古は「神武のころに帰る」と宣言したわけですから、伝説によればたしか、2000年以上前に帰る、という宣言になるんですよね。もちろん、実質は近代国家の創設だったんですか、天皇家が長く血脈を伝えて神話を担っていたことも、また事実です。
トールキン教授は1892年の生まれ。子供のころに日露戦争があって、イギリスは日本の同盟国だったわけですし、維新に関する英語の著作もいろいろとあったわけですから、十分、創作のヒントになりえたと思うのです。

従来、アラゴルンのモデルとしてあげられてきたのは、フランス語読みのシャルルマーニュ大帝、ドイツ語でいうカール大帝です。
いうまでもなくフランク王国、カロリング朝の王で、滅びた西ローマ帝国を復活させた形をとり、皇帝として戴冠しましたので、神聖ローマ帝国の始祖とも見なされるようになります。
しかし、このカロリング朝というのは、メロビング朝の宰相が、王国を乗っ取って成立しているんですね。メロビング朝の王は、祭祀王の趣が強く、もしも宰相が宰相のまま、王を祭り上げて実権を握っていたら、日本の天皇制に近かったのでは、と思ったりします。

ところで、神聖ローマ帝国です。
日本の天皇制が西洋で理解されないのと同じくらい、日本人には理解し難いものですが、ごく簡単に言ってしまえば、「中世ドイツ王国を基礎にして10世紀から19世紀初頭までつづいた帝国。盛期にはドイツ・イタリア・ブルグントにまたがり、皇帝は中世ヨーロッパ世界における最高権威をローマ教皇とのあいだで争った」となるんでしょうか。
帝国は大中小さまざまな諸侯国から成り立ち、わずかな数の有力諸侯が選挙権を持って、諸侯の中から皇帝を選んだわけですが、15世紀から、ほぼハプスブルグ家の世襲となり、皇帝の権威がおよぶ範囲は、ドイツ語圏に限定されましたので、「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。
しかし、そうなりながら、フランス王が皇帝候補として名乗りを上げたりもしていますので、なんとも複雑です。

近代国民国家の成立は、神聖ローマ帝国を解体する方向で進みます。
近世、ヨーロッパの王家の中で、ハプスブルク家だけが皇帝を名乗るのですが、これは神聖ローマ皇帝であり、しかしハプスブルク家が統治する領域は、神聖ローマ帝国と重なる部分はあるにせよ、一致しないんですね。つまり、神聖ローマ帝国は、領域国家ではなかったんです。
最終的に、神聖ローマ帝国を葬ったのは、ナポレオンです。
一応貴族ではありましたが、王家の血筋とはまったく関係のないナポレオンが、実力によって、自ら皇帝を名乗ったのです。このときから、ハプスブルク家は、名ばかりとなっていた神聖ローマ皇帝の名乗りを捨て、オウストリア・ハンガリー帝国という領域国家の皇帝となりました。
ナポレオンが、神聖ローマ皇帝という古い権威を否定するために持ち出したのは、古代ローマ皇帝です。もちろん、「古代ローマ皇帝に習う」とは、実質、新秩序の立ち上げです。

こう考えてくると、国民国家である大日本帝国創設の形は、ドイツよりもむしろ、フランスに近いように感じます。
先に領域国家があり、極東の古い権威である中華皇帝に対峙して、神武に習うを名目とし、帝国を立ち上げたのですから。
しかしまた、プロイセン王国が、明治維新と同時期に、かつての神聖ローマ帝国の諸侯国を、ハプスブルク家の呪縛から完全に解き放ち、ドイツ帝国としてまとめあげた状況も、たしかに、明治維新の状況と共通項を持ちます。
要は、幕藩体制をどう見るか、なんですが、いとも簡単に廃藩置県ができてしまったのは、結局のところ、藩主が土地を所有していなかったからで、とすれば、フランスに近いとしていいのではないのでしょうか。



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