郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

生麦事件と攘夷

2008年10月06日 | 生麦事件
 またまた更新が滞っております。すみません。なぜか生麦事件に迷っていってしまい、なぜか一生懸命wikiの記事書きに取り組んでおりました。あー、まあ、一つは、「薩藩海軍史」という基本資料を持っていまして、なぜ持っているかといいますと、モンブラン伯爵について調べるためだったんですが、あんまり役に立ったともいえず、ここらでちょっと役立ててみようかと、生麦事件のあたりを読んでみたため、というのもありました。
 ちょうど、大河の「篤姫」で生麦事件をやっていたりもしまして、よく考えてみましたら、私、生麦事件の現場では、実際になにがどうなったのか、という事実関係については、きっちり知ってはいませんでした。

 えーと、話がそれるんですが、なんなんでしょうか。「篤姫」が描く禁門の変の小松帯刀は!!! 資料で見る方がはるかにさっそうとしている、というのは、ドラマとしていかがなものかと。まあ、手間をかけたくなかったんでしょうが、小松さんの場合、慶喜公をひっぱって、御所の中をかけずりまわったんですから、ちゃんと史実を描いても、合戦シーンは金がかかる、という話でもないと思うのですが。説明がめんどかったんでしょうか。政治劇をろくに描かず、お茶をにごされても、ねえ。

 話をもとにもどしまして、以前に書いたことがあるんですが、まずこの生麦事件は、いわゆる単純な攘夷ではなく、「無礼者!」ということから起こっているわけです。個人が起こした事件ではなく、大名(正確には島津久光は藩主じゃありませんが、それに準じる存在です)行列の供回りが、主従関係の中で、無礼を咎めて外国人を殺傷したわけですから、当然、これは久光の意志のうちです。
 そういう認識があったものですから、誰がどうしたとか、どこがどういうふうに無礼だっただとか、細かなことは気にしていませんで、なんといえばいいのでしょうか、えーと、事実関係については、いろいろな見方があるんだろうなあ、と、なにを読んでも読み飛ばしていた、といいますか。

 しかし、今回調べて、「いったい、なんなのお???」と、とても疑問に思ったことがあります。それは、生麦事件を簡単に説明する場合、よく、「島津久光の行列を、イギリス人が横切って、薩摩藩士に斬り殺された」としていることです。検索をかけてみましたところ、現在の高校の日本史の教科書も、多くが横切ったになっているんだそうですが、横切ったのではありません!!!
 生麦村の住人で、一部始終を見ていた勘左衛門の当日の届けと神奈川奉行所の役人の覚書を総合しますと、「神奈川方面から女1人を含む外国人4人が騎馬で来て、島津久光の行列に行きあい、先方の藩士たちが下馬するようにいったにもかかわらず、外国人たちは聞き入れず、(久光の)駕籠の脇まで乗り入れてしまったので、供回りの数人の藩士が抜刀して斬りかかった」ということであり、真正面から行きあって、イギリス人たちは、どんどんと久光の駕籠のそばまで乗り入れたのです。これは、アーネスト・サトウの日記、つまりはイギリス側の資料から見ても同じなのです。行列を横切ったのではなく、真正面から行列に乗り入れたのです。
 後世の談話も含めて、日本側にもイギリス側にも、横切ったという資料は、ただの一つもありません。いったい、どこから出てきた言葉なのでしょう。

 久光の行列は、往路でも騎馬で横に並んで傍若無人にいく外国人に出会っているんです。それでも、なにもしていません。長い行列です。久光の駕籠から離れた場所を外国人が横切ったくらのことで、薩摩藩士も抜刀はしなかったのです。久光の駕籠のごくそばまで、平気で乗り入れたから、なのです。リチャードソンが馬主をめぐらそうとして、駕籠をかつぐ棒に触れた、という話もあり、ほんとうにごくそばまで乗り入れていたのです。

 よく、後の神戸事件(備前事件)で、………いえ、この事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわり、事件の責任をとった滝善三郎の切腹をバーティ・ミットフォードが描いていますから、多少調べているのですが………、識者の方々が、「行軍をフランス人水夫が横切ったことは、「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、生麦事件と同じ」とか書かれていますが、ちがいます!!!
生麦事件は、横切ったどころか、真正面からずんずんと乗り入れられたのであり、それでも鉄砲隊が発砲したりはしていません。


生麦事件
吉村 昭
新潮社

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 吉村昭氏の小説は、いつもとてもリアルで、実証的なのですが、今回はちょっと、疑問でした。イギリス人の4人の行動については、「ロンドン・タイムズ」や「ヘラルド」の記事を参照になさったようで、私も生き残った確かクラークだったかの談話を読んだことがありますが、当事者が自己弁護で、自国新聞に語った話が、どれだけ信用ができるのでしょうか? アーネスト・サトウが日記に書きつけた程度のこと、つまり「わきによれといわれたのでわきを進んだ」、つまり当人たちは「わきによれ」といわれたと思いこんで、わきによったつもりだった、ということしか言えないと思います。少なくとも、目撃した生麦村住人の目には、「脇によって遠慮深く進んでいた」とは、とても見えなかったのです。
 まあ、とはいえ、小説ですから、「冷や汗たらたらで、なんとなく引き寄せられるように遠慮深く進んだ」とでも書かなければ、劇的にならないかもしれないのですが、しかし。ほんとうに「二本差しの侍たちが怖くて、おびえつつ」だったのなら、なにもそんな恐ろしい侍たちの中をつっきって、前へ進む必要はなかったのです。彼らは乗馬を楽しんでいただけで、前方に用事があったわけでもなんでもなかったのですから。それとも、肝試しを楽しんでいたのでしょうか。
 ここは、やはり、事件現場へ真っ先にかけつけたイギリス公使館医官、ウィリアム・ウィリスの以下の言葉が、真実でしょう。

「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば故国のならわしに従って血闘に価するほどの態度で、各省の次官に相当する日本の高官をののしったりします。また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にもけっして敬意を払いません。ー中略ー誇り高い日本人にとって、もっとも凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるにちがいありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」

 つまり彼ら極東のイギリス商人たちは、幕府の役人がおとなしく彼らの罵声に従うので、二本差しをまったく怖がってはおらず、軽んじていたのです。
 ウィリスによれば、さらに彼の知人は、別に特別残忍な男というわけでもないのに、毎日、なんの罪もない日本人の下僕を鞭で打ち据えていたそうです。
 斬り殺されたリチャードソンは、上海で「罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑」を受けていたそうでして、こういう話を知りますと、当時、一般庶民が攘夷を歓迎していた、という話も、頷けてきます。
 いくら身分が低くとも、日本人にとって、鞭打たれるというのは、相当な屈辱です。同じ日本人が、理由もなく牛馬のように鞭打たれるのを見ることも、また、屈辱的なことだったでしょう。

 まあ、あれです。例えるならば、米軍基地の人々が、基地の中で日本人使用人を鞭打つことを常とし、基地の外へ出ては、日本の警官の静止などはものともせず、交通違反、ひき逃げを繰り返し、交通規制がかかっているときに、自分たちは特別だからと、ドライブに出かけて、行列に真正面から出くわしても、スピードをゆるめるだけで、どんどん行列にわけいっていく。例え、それが皇太子殿下のご成婚パレードであっても、です。
 もしも、そんな状態だったとすれば、「頼んで来てもらったわけでもないのに、何様のつもり?」と、憤慨するのが普通でしょう。

 明治16年、事件現場近くの住人が、事件を記念し、また事件で一人命を落としたリチャードソンの魂をなぐさめようと、碑をたてることを思いつきます。碑文は、元幕臣で幕末のイギリス留学生だった中村敬宇に頼みました。

 君、この海壖に流血す。わが邦の変進もまた、それに源す。
 強藩起ちて王室ふるう。耳目新たに民権を唱ふ。
 擾々たる生死、疇か知聞す。萬國に史有り、君が名傳はる。
 われ今、歌を作りて貞珉を勒す。君、それ笑を九源に含めよ。

 「君(リチャードソン)は、この海辺のあたりで血を流した。日本の国の変革は、この事件に源があるんだよ。強藩がしっかりと立ち上がって皇室を盛り立て、民権を唱える世の中になった。君が命を落とした生麦事件を、みんな知っているだろうか。どの国にも歴史があって、君の名は後世に伝わるよ。私はいま、歌を作って石碑に刻んでいる。君はあの世で、それを笑って受けてくれ」

 明治16年の時点から振り返って見れば、幕臣であった敬宇にも、イギリスに戦いを挑む薩摩の気概が、維新の変革をもたらしたのであり、その原点は生麦事件であったと、思えたのですね。
 以前にもご紹介した、中岡慎太郎の以下の文章。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」


 攘夷感情が、抵抗のナショナリズムとなり、民権論にもつながっていった、その歴史の原点が、生麦事件だというのならば、生麦事件の結果で起こった薩英戦争こそ、真の攘夷であったと、あるいは、いえるのかもしれません。


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26 コメント

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初めまして (mugi)
2008-10-06 21:48:38
初めまして。
いつもロムしておりますが、毎度ながら幕末に関する詳細な記事に驚嘆させられます。

私はインド史に関心があり、英国支配下のインドについての書物を読みました。
英国はインドでも全く同様に傍若無人に振舞っていたのです。一例を挙げますと…

「イギリスの基本的な原則は、あらゆる可能な方法で我々の利害と福祉にインド民族全体を従属させることにあった。インド人は最下層のイギリス人でも得られるような、全ての名誉、尊厳、官職から除外された」-ベンガル総督ジョン・ショア
「おとなしい住民に対して、彼らが取り締まるべきはずのダコイト(強盗)たちと同様の暴虐を振るっている」-1813年の英国議会下院委員会のインド警察の報告
「スィパーヒー(セポイ)は劣等な代物と見なされている。彼は罵られ、手荒く扱われる。彼は『ニガー』と呼ばれ、『スアル』つまり豚と呼びかけられる…若い者は…スィパーヒーを劣った動物扱いする」-同時代英国人観察者

これでは“セポイの反乱”(現代はインド大反乱の名称が一般的)が起きる訳です。
20世紀でも中東で英国人は人前でアラブの族長を平手打ちし、その族長に殺された者もいました。誇り高いアラブ人には大変な侮辱なのです。
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コメント (郎女)
2008-10-07 03:28:39
ありがとうございます。はじめまして。

インド史にお詳しいんですか! なにかお勧めの本があれば、お教えください。えーと、ちょっとうろ覚えなんですが、実は、アーネスト・サトウから、実は自分がイギリスの極東政策をろくに知っていなかったことに気づきまして、ざざっと関係書を読み飛ばしましたところ、エルギン卿が極東へ来て日英通商条約を結んだのは、清国でのアロー戦争のついでで、イギリスは当時、セポイの乱(インド大反乱)をかかえて、なかなか極東に戦力がまわせずー、といった話で、結局イギリスにとって、インドの延長線上に極東があるようでしたので、中公新書の「インド大反乱」をはじめ、インド史に関する本も、数冊は読んでみたのですが、もともとがさっぱりインドに詳しくないものですから、よくはわかっていない状態でして。

ましてアラブは、なんですが、いや私、今回、『遠い崖』や『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』などで、生麦事件に関する部分を集中的にひろって読むまで、そこまで一般的に、イギリス人の現地におけるふるまいが傍若無人であったとは、知らなかった、といいますか、そういう人もいただろうけれども一部だっただろう、くらいに思っていました。

いま、なんとも不思議なのは、当時のイギリス人、それも駐清国公使が、リチャードソンを「粗暴」と評価していますのに、現在の日本人が、商人というだけで「平和的で紳士的」と決めてかかっているように見受けられることです。

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近代インドの歴史 (mugi)
2008-10-07 22:03:09
返信有難うございました。

先のコメントで引用した例は『近代インドの歴史』(ビパン・チャンドラ著、山川出版社)からでした。
http://www.asiabunko.com/in_kindai.htm

インド人歴史学者が学生のための教科書として執筆したもので、分厚く内容がとても充実していますが、読みやすい本ですよ。
著者は英国からの史料もふんだんに引用して、植民地政策を詳細に記載しています。
面白いと思ったのは、英国への憎しみをかき立てる記述では決してなかった点です。インドは反英教育は行っていないのです。実はインドも歴史教育問題を抱えており、日本と違い国内問題にせよ、激しい議論があります。あの国にも極右がおり、彼らからはビパン・チャンドラ氏は左寄りだと批判されていました。

アラブに関しては、学生時代、リバイバルですが映画『アラビアのロレンス』を見たのがきっかけで、中東史に関心を持つに至りました。
元から東洋史(中国史)に関心があり、西欧史は何故かあまり興味がもてなかったのですが、この映画により関心が中東に移り、現代に至っています(汗)。

>現在の日本人が、商人というだけで「平和的で紳士的」と決めてかかっているように見受けられることです。

東洋に来た英国人は多くが本国の食いつめ者であり、一攫千金を狙って来た下層階級出ゆえ、粗暴な者が少なくなかったのです。
戦前の日本も大陸に渡る者に、食いつめ者が少なくなかったように。英国など海賊で台頭した国なのに、戦後の日本は平和が続いているので、商人=「平和的で紳士的」と思い込んでいるのでしょうね。海賊も商人でもあったのに。

童謡「月の砂漠」なんて、現実にはありえない。王子様とお姫様が2人きりで砂漠を渡るなど、考えられない御伽噺。武装しない隊商は皆無でした。それでも襲撃は受けましたが。
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ご教授 (郎女)
2008-10-08 06:18:50
ありがとうございます! 
『近代インドの歴史』、さっそく購入しました。通史として、どれが妥当なのだろうかと迷っていたところです。

私の読んだ中東史は断片的でして、しかし、中世史とか近世史だと、まだインド史よりは、読んだかもしれません。欧州との関係で、トルコ史は一応、通史を読みましたし、アラブも十字軍あたりだと、多少は読んでいたりするのですが。

どうも私、以前に検索からでしょうか、ブログを拝見した覚えがあります。これから、少しづつ、インド史とアラブ史の勉強をさせていただきます。またどうぞ、よろしくお願いいたします。
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生麦事件について (冤罪事件追及者)
2009-01-08 11:33:45
幕末維新もの、特に薩摩藩に関わったものを中心に読ませてもらっております。こういう言い方が失礼なのは承知しておりますが、「視点」と「語り」は女性なのに、内容はそれを超えており、いつも唸らされております。
さて、今回初めてコメントさせてもらいますが、私は、生麦事件を歴史的冤罪事件と捉えてその周辺を洗ってきた(私のブログ「海鳴記」でも発信しております)者です。そこで、郎女さん(で宜しいでしょうか)の疑問に一言したいと思います。供先を横切った云々は、明治25年の『史談会速記録』の市来四郎の言説あたりからで、奈良原喜左衛門の名前が上がったのもこの市来の言辞からだと思います。その前年に出された海江田信義の『幕末維新実歴史伝』の生麦事件の項には、事件の具体的記述は一切ないのです。スペース上今回はこの辺で。
返信する
はじめまして。 (郎女)
2009-01-09 02:13:13
ようこそ、おこしくださいました。
奈良原兄弟と生麦事件の関係を研究なさっておられる方ですよね。

実は、私がwikiの記事を書きましたのは、桐野ファンの大先輩が御著書を読まれて、身内掲示板の方で、その紹介をしてくださったから、だったんです。以前に新聞記事かなにかで、奈良原家の御子孫が、兄の喜左衛門ではなく弟であったと訴えた、というような話を読んだ覚えはあったのですが、なにしろ私、「久光の暗黙の了解」を大前提と考えておりましたし、あんまり興味もなかったものですから、「誰でもいいんでないの?」くらいに軽く考えておりまして。

しかも、どういうわけか、海江田信義は『幕末維新実歴史伝』で、自慢げに介錯したといっていた、というような記憶ちがいをしておりました。維新前後に、海江田と奈良原弟が西郷暗殺を企てて、桐野が二人を嫌っていた、というような話がたしかありまして、昔一応、『幕末維新実歴史伝』を読んではいたのです。しかし、当時の私の目的からしますと、生麦事件はあまり関係がなかったものですから、どうも、記憶ちがいをしてしまっていたようなのです。

大先輩から、桐野作人氏が「那須信吾の書簡に弟の方だと書いている」というようなお話しをなさっていた、とお聞きして、那須信吾の書簡集なら持っていたはず、とまでは思い出したのですが、そんな記述があったことも忘れ、どこへやったかも忘れておりました。昔、高見弥一について調べたことがありまして、青山文庫へ行って、当時出ていた書簡集1、2を買ってきて読んでいたのです。
それがやっと出てきまして、つい最近、wikiにその件の書き込みをしてまわったような次第です。
那須信吾は、賞賛して名前を出しているわけですし、薩摩藩邸にかくまわれて、海江田も奈良原もよく知っていて、現在進行形で書いているわけですから、これは、相当に信憑性が高い記述であると存じます。

いま、ホームページを読ませていただきましたが、とてもおもしろいです! 市来四郎とは。市来四郎は桐野を誉めていますから、けっこう好感度が高かったのですが(笑)
史談会速記録は、けっこうみんないいかげんなことをしゃべっている、という印象が強く、人間の記憶ってあてにならないものなんだなあ、とつくづく思っていたのですが、自分が現場に居合わせもせずに、断言している市来四郎は、確かに、なにか思惑がありそうです。

そういえば、『遠い崖』の何巻だったか、いまとっさに思い出せないのですが、明治10年より以前のことです。なにかの会合で、アーネスト・サトウのそばに座った寺島宗則が、「久光公からは遠いところで生麦事件は起こって、公は知らなかったのだ」というようなことをいった、とサトウは記録していまして、もちろん、後々の記録からしても、サトウはそんなことは信じていなかったようですが、私は、「あんたはヨーロッパにいっていて、現場に居合わせなかっただろうがっ!」と、腹をかかえて笑いましたです。

ウィリアム・ウイリスの記述からしましても、「久光の命令があった」が、イギリス公使館の認識だったと思います。
一部の元薩摩藩士、寺島や市来(どういう関係があるのかしりませんが)は、「攘夷藩士の勝手な行動」という線にもっていきたがっていたのでしょうか。

これから、ご著書を読ませていただくつもりで、またブログの続きも、楽しみに拝読させていただきます。

えーと、それにあつかましいのですが、鹿児島の事情にお詳しく、また参考にもされているようなので、おたずねしたいのですが、川崎大十氏の『「さつま」の姓氏』というのは、信頼できる書物なのでしょうか? 桐野の親戚になる肝付兼行男爵の出自で、wikiが引くところの氏の記述に困惑しております。小松帯刀の実家の喜入肝付家の血筋となさっているらしいのですが、兼行の父の兼武の伝記ではそんなたいそうな家の出てはなく、下級藩士となっています。



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生麦事件について (冤罪事件追及者)
2009-01-12 20:50:13
どうもアナログ的人間なので前回同じコメントを送ってしまい失礼しました。また、それを取り消せなかった自分にも失笑した次第です。
懇切なご返事恐縮に存じます。
さてまず、市来四郎についてですが、私はこの生麦事件に関しては、ひどく杜撰な答え方―実際はっきりしたことはわからなくなっていたことも確かですーをしていると思います。そして、それが『薩藩海軍史』(昭和3年刊)、『鹿児島縣史』(昭和12年刊)に繋がっていった責任は重大だと思っております。一方、私が今後公にしたいと考えている話(郎女さんたちには衝撃的な話になるかもしれません)の中では、市来の証言が核になっておりますので、かれに関しては複雑な感情をもっております。ただ自分が実際に見聞した証言と、生麦事件のように久光や他人の話をもとに語っているのとでは違うと確信しております。(ただ一方の側からは、否定されてきたようですが)
つぎに久光の使嗾云々に関しては、明治以来疑われてきているようで、綱淵なども全く疑っていないようです。私も最初はそう考えておりましたが、段々事件を調べていくうちにその可能性は少ないと思うようになりました。英国側が久光に責任があると考えるのは当然で、またそれゆえ久光が命じたと考えるのも無理からぬことですが。(寺田屋事件でもそうでしたが、久光の言うことなど聴こうとしない藩士も大勢いました)
あ、そう、そう。リチャードソンのことです。同国人に評判悪いようですが、宮澤眞一氏(『誰がリチャードソンを殺したか』)が集めた史料では、親孝行で善人だったというものをあったようです。見る人によってずい分違っているようですね。
最後に『「さつま」の姓氏』に関しては、参考にする程度だと思っております。
出典に関して応答したことがあるのですが、はかばかしい返事は得られませんでした。肝付氏に関しても、遠い先祖に枝分かれした肝付氏もごろごろしており、実際なにがなんだかよくわかりません、というのが正直なところではないでしょうか。(ごく最近、桐野家とも小松家とも全く関係ない肝付氏を調べてもらったことがありました)
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すみません。 (郎女)
2009-01-14 03:15:23
しばらく留守にしておりまして、私、まだ御著書を読ませていただいておりません。したがいまして、奈良原家の御子孫のお話が、いまひとつ、よくわかっておりません。

それと、私、久光の使嗾を疑っているわけではありません。ほぼ、イギリス公使館と同じ考え方、というのでしょうか、黙認したことは、暗黙の了解があった、ということと了解しているだけです。命令があったかどうかは、問題ではない、と思っております。久光が本気で無礼うちを否定しているのなら、寺田屋事件で上意討ちをし、西郷は島流しにした直後なんですから、イギリスに頭を下げ、イギリス人に斬りかかった藩士を処分するはずです。はずです、と申しますか、べきです。現代的にすぎる感じ方なのでしょうか。しかし、あんまりたいした資料は読んでいませんが、客観的な話で見て、リチャードソンが、久光の駕籠のそばまで馬を乗り入れていたことは確かです。だとすれば、久光が知らなかった、は、なかろうと存じます。

宮澤眞一氏のその御著書は、読ませていただいております。それで、wikiにも「上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、かならずしも悪くはなかったようだ」と入れております。参考文献として、あげさせていただくべきでした。
同じ西洋人相手に善人であったかどうか、という問題とは、まるでちがってこようかと存じます。日本人の下僕を理由もなく毎日鞭打っている人物も、西洋人同士のつきあいではまともな人間であるらしいことを、ウィリスは書いておりますし、ブルース公使が指摘しておりますのも「罪のない苦力に対して」の残虐行為ですから、東洋人に対する扱いがどうであったかの問題なんです。確かに善人であったかもしれませんが、それは身内と同じ西洋人の仲間についてだけであった、と、私には受け取れました。ブルース公使の半公信を否定する材料は、なにもありませんでしたので。

『「さつま」の姓氏』に関するお話、どうもありがとうございます。

おそらく、どうもいま一つお話がわかっておりませんのは、生麦事件がかなり長い間、武勇談であって、けっして犯罪とはだれもみなしていなかった、と、私が思いこんでいるからなのでしょう。これについて、けっしてちゃんと調べたわけではありませんので、あやふやな印象ともいえるのですが、一番わからないのは、海江田信義も久木村治休も、別に生麦事件が支障になったふうはないですのに、なんで、奈良原家だけがもめたのでしょうか。

こんなことをいっていてもなんですから、とりあえず、ご著書を読ませていただいて、ブログの続きも楽しみに待たせていただきます。
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留守中に届いていた御著書を (郎女)
2009-01-14 17:51:12
とりあえず、ざざっと読ませていただきました。

伝承をご追求なさって、奈良原家の歴史を追われている情熱に感服いたしますし、資料を丹念に見られて、とても興味深い内容でした。

ただ、おっしゃっておられることに対して、私が最大の疑問としているところがなお、はっきりしてもまいりました。
イギリス公使館が犯人の処分を要求しておりますのは、攘夷感情による異人斬りが、けっして英雄行為ではなく、犯罪であると位置づけ、再発防止に役立てたかったからで、復讐のつもりではなかったことが、備前事件、堺事件のの始末でもよくわかります。
にもかかわらず、公に出来ず、誰にも知られることない藩士の切腹を無理強いしたとは、私にはとても思えませんし、事実、イギリス公使館、外務省の記録を丹念に調べられた萩原 延壽氏が、「薩摩藩が犯人の差し出しに応じた痕跡はまるでない」というようなことを書かれております。また、公信ではなく、アーネスト・サトウやウィリアム・ウィリスの私信にも、差し出さなかったと思われる傍証はあっても、差し出した、という話は、まったくありません。
相手国の記録に、ここまで痕跡が残っていないということは、ありえないのではないでしょうか。

たしかに、奈良原兄が弟の介錯で切腹した、ということはあったのかもしれません。しかし、それは本当に、生麦事件に関係しての切腹だったのでしょうか。
さらに、もしもそうだったとしまして、イギリス公使館が望んでいたのは、事件の性質上、実際に手を下したものよりも、責任者の処分です。だとすれば、奈良原兄がその場の責任者として切腹した、というのは筋であり、だれが実際に手を下したかは、問題ではないと存じます。

どうも私、大名行列に対する乱入で起こった事件を、個人的な攘夷感情にのみ結びつけ、犯罪者あつかいする戦後の風潮は、いかがなものか、と思われてならないのです。だいたい、命令があったかなかったか、とよくいわれますが、駕籠の中にいる大名が、乱入者があったからといって、いちいち命令するまで供回りが抜刀しない、と考える方がおかしくはないでしょうか。供回りはなにも、戦後の自衛隊じゃないわけでして。
それで、おそらく死人が出なかったからでしょうけれども、備前事件については、発砲も問題ない、と考える識者の方がけっこうおられます。もう、わけがわかりませんです。

だいたい、です。もしも久光が生麦事件に関連して奈良原兄を切腹させたのだとしましたら、久光の権威はがた落ちで、以降、維新までもたなかったと思います、だれが、そんな主君に仕えるでしょうか。
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生麦事件について (冤罪事件追及者)
2009-01-15 12:27:54
一信目の返事を出す前に二信目が入っておりましたので、こちらから先に返事を差し上げます。英国側の反応、お説ごもっともで、やはりそう捉えるしかないか、という感想です。薩摩側はともかく、イギリス側に何の記録もないというのは私自身なぜかよくわからなかったので、郎女さんの明解な結論にややすっきりしました。
つぎに喜左衛門がーもし切腹させられたのならー何か別の理由で切腹させられたのでは、という可能性、これも否定できませんし、ありうると思います。私は全面的に貢さんを肯定しているわけでも否定しているわけでもなりません。ただ、鹿児島で調べているうちに、奇妙なわけのわからない痕跡だけ出てくるので、調べるのをストップできなくなり、結果的に貢さんをよく知っている人たちとは違って、(やや同情的して)貢さんに肩入れしてきたのかもしれません。
最後の久光の件ですが、私にはそうはっきりといえる自信はありません。
やや情けない話ですが、私がこの事件の周囲を調べれば調べるほど、何だかなあ、よくわからんなあ、と思うことが多くなりました。この辺のことは、最初の本でも書きましたが、いまだに進歩がないというところです。
一信に関しては多少長くなるのですが、宜しいですか。

言い忘れましたが、ざっとでも拙著を読んでくださって感謝申し上げます。今回の本は無視されているなあ、と感じておりましたので。
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