郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1

2007年04月08日 | 幕末留学
しばらく休みましたが、またまた少々脱線を。
セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた は、新納武之助(次郎四郎)と新納とうさんのお話でしたが、今回は武之助の先輩ともいえる、町田清蔵少年のお話を。
町田家も、新納家と同じ島津一門、日置郡松元町石谷1750石の領主で、代々家老職を務める門閥です。
薩摩藩イギリス密航留学生には、門閥の子弟と、蘭学などの成績優秀な藩士(当然、蘭方医を含みます)とが入り交じっていました。
なんといっても薩摩藩は、島津重豪、曾孫の斉彬という蘭癖君主が続きまして、一門にも蘭学好みがひろがっていたようなのです。わけてもこの町田家は、すこぶるつきの洋学好きだったようで、四兄弟そろって(次男をのぞく)留学させようとしたのですが、上から三番目の町田猛彦は病気にかかり、長兄・町田久成、四弟・町田甲四郎、末弟・町田清蔵の三兄弟が、渡航することとなりました。
町田民部久成は、渡航当時27歳。大目付で、新納刑部が正使なら久成は副使なんですが、久成が留学生でもあり、最初から長期滞在の予定で、学生の取締官役も果たしました。

(追記) 
末弟清蔵少年が後年に書いた「町田久成略伝」によりますと、町田久成には「四弟」があったそうです。二弟は最初から留学仲間に入っていませんでしたようで、名前もわかりません。しかし「四弟」すべて、「各他家」を継ぐとなっていますので、健在ではあったようです。

久成については、以下の本に詳しく書かれていますが、東京上野の博物館創立者として、顕彰碑が建っているそうです。

博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館

岩波書店

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さて、末弟の清蔵少年です。
清蔵少年は、長寿を保ったようでして、大正11年(1922)、70を越えて、矍鑠と往事を語り残しています。新修森有礼全集第4巻に修められた「財部実行回顧談」がそれなんですが、清蔵少年は養子に出ましたので、財部は養子先の名字のようです。
これが、もう、なんといいますか……、財部実行氏、往年の清蔵少年は、座談の名手だったようでして、少々脚色して、お話しをおもしろくしているんじゃないか、と思えるほどです。
私、ごく最近、国会図書館にコピーを頼みまして、読んだのですが、お話しの一部、どうも、司馬遼太郎氏が、街道を行くかなにかで紹介されていたように思うんですね。あるいは、私の勘違いかもしれませんが。
ともかく、そのままで、短編小説になってしまうような、楽しい回顧談なんです。

「平生私の親は申しましたのに、貴様は孔子や孟子の学問をしたところが何にもならぬ。孟子のいうことは支那の話家だ。あんなものを習うては国を富し兵を強うすることはできぬというので、蘭学を12歳の時から始めて全く漢学をやめさせられました」

いや、新納とうさんといい、薩摩開明派門閥の蘭学重視、漢学軽視には、すさまじいものがあります。
長兄の町田久成は、江戸で平田国学の門下になっていますし、どうも、国学が基本にあって、漢学より蘭学を重んじるという、そういう流れがあったように感じます。

庄屋さんの幕末大奥見物ツアー で書きましたが、川路聖謨の日記に出てくる江戸のインテリ女性。「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」って、これ、女性版、町田とうさん、ですよね。
ちなみに幕府の開明官僚だった川路聖謨は、島津斉彬と親交があり、妻の高子さんは、斉彬侯の亡き母君を見知っていたので、法事に回顧文を献じたりしています。

それで、蘭学で優秀な成績を収めて14歳になった清蔵少年、ある日御用状が来てお城へ呼び出され、町田とうさんに、「今度は善い面白いことがあるのだ」と言われます。ところがところが………、正装して登城し、辞令をもらいましたのに、「大島渡海仰せ付け」とあり、清蔵少年、青くなります。
「おとと様、大島という所は咎人を遠島、島流しするところですのに、いやです」
と、とうさんに訴えました。とうさんいわく。
「否とよ。この節の大島は咎人あつかいではない。実はあの島に天下に内緒で、オランダ人をお雇いになって学校を御立てになり、その書生に行くのだ。貴様ひとりではない。今日のご用状を受けた人はたくさんいるから心配するな」
とうさんは、にっこりと請け合うのです。

あー、とうさんはもちろん、イギリス密航のことは知っていたのですが、一応、国外渡航禁止は天下の御法度です。秘密だったんですね。

「その時分は唐天竺というと、それほど遠き国にて」、清蔵少年は、とうさんと写真をとりかえっこします。
写真を撮るのが、また騒動です。当時の写真は、とても技術のいるもので、薩摩でその技術を持っていたのは、宇宿彦右衛門と中村宗顯(博愛)のみだったんだそうです。中村宗顯は、薩摩の長崎医学生で、イギリス密航仲間に入っています。おそらく、彼に撮ってもらったんじゃないでしょうか。

留学生たちは、串木野郷の西にある、羽島という小さな漁村に集まり、30日ほど船を待っていました。その間、清蔵少年は、中村宗顯から、英語、オランダ語の会話を学びます。蘭学っていっても、書物のみの学問なので、会話はさっぱりだったんですね。その点、中村は、長崎でオランダ人ボードウィンに医学を学んでいましたので、会話も、ある程度はこなせたのでしょう。

この羽島沖は、香港長崎航路になっていて、異国船を見張る遠見番所があったんだそうです。ある日、その番所から、「蒸気船が近づいてきますが、お城下へ知らせますか?」と問い合わせがあり、久成にいさんは、「それは、おれと新納さまで処置するから、知らせなくていい」と答えます。
と、これは薩摩の胡蝶丸でして、五代と寺島、通訳の堀宗次郎が乗っていて、船から降り立った五代は、学生それぞれに一枚、「ふらんけっと」を手渡しました。ブランケット、毛布だったんでしょうねえ。
「このようなものは生まれて始て見るものにて珍しく、子供心にうれしく思って大事にいたしおりました」
で、航海に備えて、鶏200羽、卵5000固、ダイダイ500個を、一日で集めたというのですが。なんか………、船員を入れても、おそらく50人強。香港まで1週間の航海。そんなにいっぱいの鶏や卵をどうしたんでしょう? 香港で売りさばいたんでしょうか。つーか、薩摩の片田舎の漁村近辺に、そんなにいっぱい鶏がいて、卵を産んでいたんでしょうか???

さて、その翌日、いよいよグラバーの持ち船オースタライエン号がやってまいりました。それに、イギリスへの案内人となるライル・ホームが乗っていて、清蔵少年は、生まれて初めて西洋人を見ます。
「私は小児のことであり、おそろしきような心地がしました」
船見物という形にして、オースタライエン号に乗り込みますと、船員はみんな西洋人です。
「船中はみなみな猿に寸分もかわらず、言葉は何を聞いてもキキチチ、まるで猿のようで、頭の毛は赤く、またそばによれば臭く」だったんだそうですが、えー、この部分、原文のままの引用ですので、差別的表現はご容赦ください。

「頭髪を切り刀を箱詰めにいたし積込み」、元治2年(1865)3月22日(新暦4月17日)、清蔵少年数えの15歳、香港へ向けて、7日間の航海が始まりました。
ただ、留学生の一人だった畠山義成(杉浦弘蔵)の洋行日記によれば、髪を切ったのは船に乗り込んで2日目です。
さっさと洋装になろうというこの意気込みは、おそらく、幕府の遣欧使節団に随行した寺島宗則の意見だったんじゃないんでしょうか。

「船中にては飯は食えず、くさくさし、まるで大病人にて、ただただ中村より習い覚えし片言の英語で、ワーターWater、オレンジOrangeをボーイにせまり喰い飲みても、すぐ吐くというあんばいで、夜10時ころともおぼしきに香港へ着船いたしまし、そのときのうれしさ、今にわすれません」
畠山日記では、途中天気が悪く、船がゆれてみな酔ったそうですから、少なくともダイダイは、品切れになったかもしれませんね。

アジアの小ロンドン、香港に着いたのは夜でした。
「夜なれとも前後左右を見るに港内は広く、帆前船、蒸気船は何千何万とも思うほどの船がつながりおり、陸は山上山下、あたかも星が雨ふるような光にて、なんとも言いようなく、早く夜があければよいと、子供心のうれしさを忍び寝ました」
夜が明けて早々、清蔵少年は甲板に出ます。前後左右に、船が何千と連なっているその賑わい。
広い鹿児島港に、蒸気船といえば、月に一度か二度、藩所有のものが1、2隻、入港するばかりだったのですから、驚くばかりでした。
留学生全員の洋服が、手配されます。仕立てている暇はなく、古着ですから寸法があいません。
「皆々着用して上陸と出かける時に、五代、銀貨50ドルづつを渡され、そのうれしさ。上陸しますと、道路の立派、家の大きいことや店の品物は始めて見るものばかりで珍しく、時計屋に入りまして、五代は金時計を購われ、子供心に欲しく、それは宇和島の殿様御用品とのことでありました」
ライル・ホームは、清蔵少年と、一つ年下の磯永(長沢鼎)少年のみ……、この二人をのぞけば、後はみな18歳以上ですので、子供二人だけ、なんですが、誘います。シナ人の担ぐ妙なカゴに乗せられ、着いたところは大きな異人館。
「入り口に男女の小児やジーサンバーサンの御出向て、キイキイというても私はわからず、バーサンが私の頭をなでたりさすったりしまして、笑顔をもってやはりキイキイしゃべくる。そして、客間へ引入れたるにその座敷の結構うつくしきことかぎりなく、お茶と菓子が出ました。男女の小児が私どもの長椅子によりかかり、小猿めが菓子をくえといはんばかりに仕向けたるに、2,3品を取り茶を飲みたるに、これはしたり、奇妙な味と香に吐出もならず、一口にのみました。これは紅茶にて牛乳の入れ足るものにて、ただ今なら、頭を二つ三つ打たれても飲みますが、なにせ60年近くの前にて、唐天竺とは十万億土の先、
くらいに思うた時代でありましたので、無理からぬ事であります。それからその家を出て、順々に異人館に参ることでしたが、まるで私などを無料見世物巡業したような、馬鹿馬鹿しい、よい面の皮でありました」
香港には一週間ばかり滞在し、イギリス東洋艦隊香港守備の巡洋艦にも招かれましたが、この巡洋艦は、薩英戦争に参加したとのことだったそうです。

香港で、イギリスの豪華客船に乗り換えます。イギリス、サザンプトン港までの船賃が100ポンド。一等客室です。
「この航海より船酔もなく、また異国人になれて食事も甘く、この飛脚船の客室、食堂、浴室、便所その他設備の完全し、すべてが目を驚かすばかりでありました」
シンガポール、セイロン、ボンベイ、アデン、カイロ、アレキサンドリヤ、マルタ島。
「この島は珊瑚珠の産島にて、珊瑚の卸商家並に大店を見物に出かけ、ある店にて五代が立派の珊瑚のかんざしを購われましたが、価格は250ドルで、聞きますとこれは、宇和島公のお姫様の御用品との事でありました」

マルタ島は、聖ヨハネ騎士団が開拓した島です。
ヨハネ騎士団は、もともとは聖地巡礼者を守護するためにエルサレムで結成された修道会に起源がありますが、12世紀、十字軍の中東遠征により、武力集団となって、騎士修道会として認められました。
中東を逐われた後、ロードス島を本拠地に、海軍騎士団となりますが、オスマン帝国に破れて、ここも逐われます。
次いで本拠にしたのがマルタ島でしたから、騎士団の手で、マルタ島は全島要塞となり、またなにしろ海賊的要素の強い海軍騎士団でしたので、港が整備され、格好の海軍基地となりました。
マルタ島に因った騎士団は、16世紀、オスマン帝国の大軍団を撃退しています。
しかし、時代の変化とともに、騎士団の組織そのものが衰え、18世紀の末、騎士団は戦わずして、ナポレオンにマルタを明け渡します。
その後、イギリス海軍が海軍基地としてのマルタ島の価値に目をつけ、イギリス領となっていたものでした。

そんなわけで、マルタ島には軍事的な見所が多く、畠山日記には、古の騎士団の武具を見た話などが出てくるのですが、清蔵少年………、そんなことにはまったく触れず、珊瑚のかんざしです。なんで、五代が買ったかんざしの値段まで、覚えていたのでしょうか。驚いたもの値段だけ、メモしていたのかもしれないですね。

元治2年5月28日(畠山日記より)、サザンプトン港着。
「香港で買うた古着は着ないで、まるで日本衣にてすぐと汽車に乗組みますと、英国の小児が、チャイニーズといって、停車場までうるさき事であり」、といったような状態なので、ロンドンに着いた一行は、ケンジントン公園に面した豪華ホテルに入り、まずは理髪をし、新しい洋服が出来上がるまで、「囚人のように」閉じこもりました。
「服屋は19人ぶんの寸法をとりにかかり、それはそれは大にぎやかで、二十日ばかりたって下縫いができて、30日くらいで皆の服が出来上がり、時計屋より、鎖は金鎖でよろしいが時計は銀側にせよと、学頭町田(にいさんです)の申渡しでした。銀でもなんでも、買うてもうろうた時のうれしさ、なにもたとえようもありませんでした。新しき服にシルクハット、胸に金鎖をひらめかし立派な紳士となり、はじめて市井に出まして」、郵便局電信科なんぞを見学し、アメリカと短時間で交信ができることに驚いたりします。

ここらあたり、多少、後年の清蔵少年、記憶ちがいをしているようでして、畠山日記によれば、留学生たちは即、近くのアパートメントに引き移り、語学教師を招いて、勉強をはじめています。つまり、洋服ができるまで、「囚人のように」閉じこもっていたのはアパートで、語学研修に日々はげんでいたのですね。
「ある日、下女来まして申すに、階下に日本人三名見えまして会いたいと申されますが、いかが取りはからいましょうかというに、沢井(森有礼)、永井(吉田清成)、野田(鮫島尚信)、出水(寺島宗則)、上野(にいさんです)、五人集り、なにか密々話の末、階上にご案内せよと申しましたら、下女のかたわらに三名、室に入れていわるるに、私らは長州藩より渡英したる遠藤謹助、山尾庸三、井上彌吉(勝)と申す者なるが、日本を発したときは五名にて、伊藤俊介(博文)、井上聞多(馨)なりしに、この両人は先に帰藩し、しかるに学費の送金あく困難しておりますとの話は、今に忘れません」

この部分にも記憶違いがあるようでして、畠山日記では、世話人ライル・ホームから、長州人が会いたがっている、という話がすでにありまして、この日の面会となったようです。
留学生たちの残された書翰からも、町田に次いで留学生全般の面倒を見たのは畠山義成ですし、この人も門閥です。
留学決定当時の年齢も、畠山(23)、吉田清成(20)、鮫島尚信(20)、森有礼(18)です。
寺島宗則、町田久成と同格で話あったとすれば、畠山義成のはずなんですが、吉田、森は、 江戸は極楽である岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保でご紹介しましたように、強引で、個性が強く、鮫島尚信もまたそうだったようで、これは言い換えれば性格が悪かったわけなのですが、その押しの強さで、滞欧中に留学生の中心となり、新政府でも、もっとも大きな活躍の場を得たんですね。そのことは、またお話することになろうかと思うのですが、町田久成などの門閥出身者は、やがて新政府に違和感を覚えて出家をしたり、ということになります。
どうも、そういった後年の様相が、記憶に影響を与えて、森、吉田、鮫島の登場になったのではないでしょうか。
これは憶測なんですが、後年の清蔵少年は、この三人に、あまりいい感情は持っていなかったように感じます。

「その後、めいめい分宿の後、上野学頭の分宿所に山尾君の来訪にて、いわるるには、拙者もスコットランド、グラスゴー造船に行き、職工かたがた苦学の考なるも、旅費に困入る次第なれば、なにとぞ拝借はかないますまいか、との事に、上野も藩金を貸すわけにまいりませんから、各学生に相談しまして、学生より1ポンドづつを拠出しましたところが、16人にて英金16ポンド、日本金にしては10両を得まして、山尾君に贈呈しました。大喜びにてスコットランドに行かれましたが、井上(勝)さんは、お気の毒にはウィリヤムソンの学僕に住み込まれました。私などは毎月一度づつ、惣世話人のウィリヤムソンの晩餐に呼ばれ、生徒の心得方などの訓示見た様なことをなしましたが、その時は井上君は私どもの配膳をなされました。遠藤君は、分宿後はあって見得へました。遠藤さんは中々好人物にて、ことに私みたような小児は、かわいがってくれました」

この部分の回想は、よくいろいろな書物で紹介されていまして、司馬遼太郎氏も、なにかで書かれていたと思います。
留学生たちの分宿は、渡英後二ヶ月で、行われたようです。このとき、最年少の磯永彦輔(長沢鼎)は、グラバーの兄の世話で、グラマースクールに入学するするため、アバディーンへ旅立ちました。
したがって、ロンドンにいる薩摩留学生のうち、最年少は清蔵少年となったわけです。
長沢鼎の旅立ちの時期について、後年の清蔵少年は記憶ちがいをしていますし、分宿の様子についても、松村淳蔵(市来勘十郎)の回顧談とくいちがうのですが、清蔵がいっしょに暮らした人を忘れることはないと思うので、ここは、清蔵談の方が正しいのでしょう。
清蔵談によれば、朝倉(田中静洲)と永井(吉田清成)といっしょだったそうなのですが、「私三人分宿後、半年ばかりして朝倉は仏国学生となり、永井はまた他に転じて、私一人残りましたところ、その時は私は15歳で、ひとりで泣いたことがたびたびありました」

中村宗顯(博愛)と朝倉(田中静洲)、ともにボードウィン門下の蘭方医留学生は、フランスの学校に転じることになったのですが、それが慶応元年(1865)年内だったとしますと、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きました、五代、新納、堀の三人の最後の渡仏に同行し、モンブラン伯爵の世話になることになったのではないかと思われます。

五代、新納、堀の帰国後、最初に帰国したのは、慶応2年3月28日(1866年5月12日)、寺島宗則と村橋直衛なのですが、維新後の村橋は数奇な運命をたどっていまして、これは、またの機会に語りたいと思います。

なにやらこのブログ、本文1000字以内になったみたいでして、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2へ続きます。


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