郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

松浦玲著『新選組』のここが足りない

2006年02月09日 | 土方歳三
あー、すごいお題ですねえ。どうもこの松浦玲先生のご著書には、坂本龍馬の虚像と実像 でご紹介しました『検証・龍馬伝説』もそうだったんですが、最初に大きく頷き、途中で首をかしげるのが宿命のようです。
松浦玲著『新選組』(岩波新書)を読みました。

戦前、新選組といえば近藤勇でした。
明治はともかく、大正、昭和になってきますと、大衆文学における近藤勇のイメージは、けっこうよかったようなのです。一方で、土方歳三は知名度がなく、その写真は、土佐脱藩の志士、土方久元にまちがえられた時期もあったほどです。
それが、まったく逆転してしまったのは、司馬遼太郎氏の『新選組血風録』『燃えよ剣』の大きな影響であったことは、いうまでもありません。
これに関しては、あまり他人のことは言えませんで、ファンとしての私の気分は、土方歳三一人に集中しております。

しかし、「新選組の研究」ということともなれば、近藤勇の方が中心となって当然だとは思います。ところが、現在刊行されています近藤勇書簡は、残されているもののごく一部、なんだそうです。
あらま、存じませんでした。『新選組史料集』(新人物往来社)は持っているんですけど、研究しようと思ったことは、ないですしねえ。
収録されている土方の書簡もそうなのですが、近藤勇の書簡の大多数も、郷里多摩へ出されたものです。
で、松浦先生は、公表されていない近藤勇の書簡が数多いことを嘆かれつつ、それを求めて小島資料館にまで足を運ばれ、近藤勇の書簡を中心に据えて、この『新選組』を書かれています。
近藤、土方の郷里三多摩と、新選組の関係は、以前に、新撰組と自由民権運動 で書きました。
で、松浦氏の『新選組』、最後の締めくくりのお言葉が、以下です。

洋学系の新知識で陪臣が幕臣に取り立てられる道は開けていたが、刀一本で全く無名の浪士から幕臣へというコースは、新選組以外には見当たらない。徳川幕府支持の大枠のなかにいて武士になりたいと願う庶民にとっては輝ける登竜門だった。そういう道が開けたまさにそのときに幕府が倒壊するのは悲運である。
新選組はその悲運の中で輝きを維持しようと務めた。
(中略)
こんな組織は他に無い。滅びる徳川幕府の最後の輝きだった。それを支えたのが武州多摩、多摩はやがて自由民権の一大拠点となる。

って……、近藤さんの書簡に注目されたのなら、やはり出ますよね、多摩の自由民権運動。私の見方と、松浦先生のおっしゃることに、あるいは、あまり大きな差はないかもしれません。
花の都で平仮名ノ説 で書きました、後の実業家・渋沢栄一と、近藤勇の土壌には共通点があるというお話には、大きく頷けますし、渋沢栄一がもともとは水戸の天狗党であったように、近藤勇が攘夷志士でありながら、ごく狭い意味での「攘夷」を脱したというご解説も、もっともに思います。
といいますか、横浜の生糸商人・中居屋重兵衛が、桜田門外の変を援助したように、そもそも「攘夷」感情は、そう簡単に分別できるものではないですし、どの時点で、ナショナリズムに転化するのか、といえば、はっきりと指し示すことのできるものでも、ないでしょう。

新選組ファンには、けっこう有名な話だと思うのですが、上京間もない初期の新選組を、郷里多摩の井上松五郎が訪ね、近藤勇が「天狗」になった、と、日記に書き残しています。これは従来、「近藤が威張りだした」という意味にとられていたのですが、松浦氏は、水戸天狗党の「天狗」と捉えられていて、これは卓見か、と思われます。たしかに、芹沢鴨は水戸天狗党ですし、近藤勇がその仲間になろうとしていて、土方や沖田たちが、それは困る、といっているとすれば、話が通ります。

問題はおそらく、松浦氏が、日本国の国と、幕府の国を、わけておられる点、ではないでしょうか。松浦氏のおっしゃることを、私の言葉で言い直すならば、幕府にしばられた尊皇攘夷はナショナリズムに転化できないが、幕府にしばられない尊皇攘夷が開国になると、ナショナリズムとなって倒幕を考える、そういうことかと思います。
この論理でいくならば、したがって、幕府にしばられた新選組は、ついにナショナリズムに目覚めることはなかった、となりかねないように思えるのです。
次いで松浦氏は、長州の攘夷が失敗に終わった時点で、新選組の幕府にしばられた攘夷思想は行き場を無くし、新選組は思想集団ではなくなった、という文脈で、土方の手紙から、「尽忠報国」という言葉を持ちだし、丁寧に解説しておられます。
しかし、江戸の幕閣と京都の一会桑政権の温度差の中で書かれたこの手紙をもって、「幕府にしばられているから思想集団ではなくなった」というご解説は、いかがなものでしょうか。なくなった、とおっしゃられるなら、そもそも新選組は、どういう思想集団だったのでしょうか。それについての定義、あるいは説明がきっちりなされているわけではなく、なにをもって松浦氏が、「思想集団」という言葉を使われるのか、いま一つ、理解に苦しみます。

長州の攘夷が失敗に終わった時点で、単純攘夷が意味を失った、という点は、松浦氏のおっしゃる通りです。
しかしこれは、大きな意味での「攘夷」の終わりではありません。幕藩体制を改革する必要は、幕府も長州も、ともに痛感したのです。
幕府にしてみれば、一国の外交を担うものとして、長州が勝手にやった無謀な砲撃の責任も、対外的にはとらなければいけません。理不尽なことです。
一方、長州にしてみれば、日本を統治している幕府が、自国領土の長州に、外国艦船の勝手な報復を許すということは、理不尽なことなのです。
結局のところ、一枚岩で諸外国に対するためには、幕藩体制を解消するしかない、ということが、幕閣の一部にも、雄藩の識者にも、実感としてわかった敗戦でした。
そして、それは、統制のとれた強い軍事力を持ったものにしか、なしえないことです。
つまり、志士集団がそれぞれに動いても、あまり意味のない状況になったのです。
幕府か雄藩か、ともかく、どちらの陣営も、その内部変革によって実力を握り、軍事力を蓄えて、状況を切り開く以外に道はなきところにまで、状況が煮詰まった、ともいえます。
そこらへんの長州攘夷戦以降の、対外をも含めた政治状況の分析が、松浦氏の『新選組』は、明確に描かれず、「思想」という言葉が一人歩きをしているようで、いまひとつ、しっくりときませんでした。


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2 コメント

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トラックバック (一風斎)
2006-02-11 15:34:54
いただき、ありがとうございました。



御挨拶が遅れましたが、

小生、一風斎と申します。

今後ともよろしくお願いいたします。



さて、小生、ナショナリズムに関して

目下、興味・関心を持っておりまして、

その一環として

松浦氏のこの本を

読んでみたわけです。

したがいまして、

新選組に関しては、

常識以上に、ほとんど知るところがありません。

これからも、ブログにて興味深い記事を

読ませていただければ幸いです。



なお、ご参考までに、

ナショナリズムに関する記事を

トラックバックいたしますので、

ご覧いただければ幸甚です。



では、また。



返信する
一風斎さま (郎女)
2006-02-11 18:24:54
ようこそ、おこしくださいました。

私にとりましても、興味深いテーマを扱っておられまして、楽しませていただきました。また、お邪魔させていただきます。明治憲法における統帥権のお話など、いずれ書きたいな、と思っていました素材ですし、いつになるかわかりませんが、また、そのときはTBさせていただきます。
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