郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3

2007年03月08日 | モンブラン伯爵
一日あきましたが、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2 の続きです。

島津久光は、勤王家で、開国論者です。
開国論者なら、なぜ生麦事件を起こしたか、ということなんですが、これは久光にしてみれば、攘夷を実行したわけではないのです。
日本では大名行列に敬意を表することになっているのだから、郷にいらば郷に従えよ、無礼者! ということなのです。
実際、アメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、友人への手紙にこう記しています。(『古き日本の暼見』有隣新書)

その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです。

また、幕府のイギリス留学生で、後に駐英大使になった林董の『後は昔の記 他 林董回顧録』によれば、こうです。

友人等は、「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」という。四人は聞き入れずして、「否、此等アジア人の取扱方は、予能く心得おれり。心配なし」とて、8月21日、東海道に出で、終に生麦の騒動を引き起こせり。
予が知れるヴァンリードという米人は、日本語を解し、頗る日本通を以て自任したるが、リチャードソン等よりも前に島津の行列に逢い、直に下馬して馬の口をとり、道の傍らにたたずみ、駕籠の通るとき脱帽して敬礼し、何事なく江戸に到着したる後、リチャードソンの生麦事件を聞き、「日本の風を知らずして驕傲無礼のためにわざわいを被りたるは、これ自業自得なり」

結局、薩摩藩は生麦事件の犯人を罰していませんし、これは、久光の命令だったから、と見た方がいいでしょう。
他の攘夷事件とは、ちょっといっしょにできない面があります。

ま、ともかく、薩摩藩は薩英戦争を余儀なくされ、受けて立つんですが、実は、その準備に、アームストロング砲を購入しようとしているんです。自藩の大砲がすでに旧式であることは、認識していたんですね。
それを知った駐日イギリス公使館は、慌てて輸入を差し止め、結局、薩摩はアームストロング砲を買うことができなかったのですが、もうなんといいますか、オランダに据え付けてもらった砲でオランダ船を攻撃した長州といい、なにを考えていたのか、という気がします。

モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書きましたように、薩摩は島津斉彬の時代から、造船には非常に力を入れ、帆船ですが軍艦を幕府に献上したり、蒸気船の建造にも成功していたのですが、当時の欧米の造船は日進月歩。
莫大な費用をかけ、手探りで造船に取り組んでも、一つの藩でできることは限られていますし、欧米の軍艦に太刀打ちできるようなものは、できなかったのです。
佐賀藩もまた、熱心に造船に取り組んでいましたが、自藩での造船をあきらめ、造船のためにオランダから買い込んだ機材を、幕府に献上したため、それをどう使うか、ということで、石川島や横須賀の新しい製鉄所の話が持ち上がっていたようなわけでも、ありました。

つまり、結局、です。
自国の独立を守るため、海軍力、軍事力を強化するには、開国通商により、当面、欧米から軍艦、武器を輸入し、大々的に技術導入をはかるしかない、ということが、はっきりしてきていたんですね。それも、一藩でできることは、限られています。
佐賀藩は、とりあえず自藩の技術力、軍事力を高めることに全力を尽くし、対外的な軍事力増強という面に関しては、幕府に協力する姿勢を示していました。
国内的なもめごとは、外国を利するだけと見て、さけて通ることにしていたかのようです。

それで薩摩は………、なのですが、久光が主導していた間、積極的に幕府の改革に乗り出し、また、とりあえずは、朝廷の下に幕府と雄藩が協議する機構を設け、かなり朝廷に重心を移した公武合体をめざしていた、でしょう。
慶喜公と天璋院vol2に書いたのですが、薩英戦争後ただちにイギリスと和睦し、8.18クーデターで、朝廷における長州の主導権をひっくりかえし、参与会議の開催にこぎつけます。
で、参与会議が紛糾したのは、攘夷か開国か、ということでして、行きがかり上、幕府が横浜鎖港を唱えていて、本来開国派の一橋慶喜が、横浜鎖港に固執し、島津久光を筆頭とする開国派諸侯と、衝突したんです。
しかし、一つだけ、決まっていたことがありました。長州藩に制裁を加える、ということです。
慶喜の暴言に怒った久光は、ついに西郷隆盛の復権を認めて、幕府と一線を画すことに決め、薩摩へ帰りますが、なんのために帰ったかといいますと……、長州処分の派兵準備をするためです。長州処分には、幕府以上に熱心だったんです。
原因は、加徳丸事件です。

『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』

中央公論新社

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以前にもご紹介したことのある、一坂太郎氏の著作ですが、『第3章 堕落する「志士」』に、詳しい事件の経緯が載っています。
グラバーは坂本龍馬の黒幕か? では、グラバーの求めに応じて、「薩摩藩は、御用商人の浜崎太平次に、大阪で綿花を買い集めさせ、長崎に送ろうとしたのですが、長州の上関で、この薩摩商船加徳丸を長州義勇隊員が襲撃し、薩摩商人を殺害した上で、積み荷も船も焼き捨てた、という事件」と書いたのですが、一坂氏によれば、義勇隊員がしたことかどうか、はっきりしているわけではなく、しかも、実は8.18クーデターを怨んでのことで、攘夷気分に乗って、薩摩藩を悪者に仕立てたのは、久坂玄瑞を中心とする長州の「志士」たちの策略であった、ということなのです。

薩摩藩の船に対する長州尊攘檄派の攻撃は、加徳丸が最初ではありません。
政変があった後の文久3年(1863)暮れ、薩摩藩が幕府から借用して交易に使っていた長崎丸が、下関で砲撃されています。美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きましたが、前田正名の兄は、長崎丸の釜焚をしていて、殺されました。
このときは、長州藩が慌てて薩摩に使者を送り、丁寧に詫びたので、島津久光は、むしろ激高する藩士をおさめる側にまわりました。
ところが、それから2ヶ月もたたないうちに、上関で加徳丸事件が起こったのです。
そこで、長州藩の策謀なのですが、一坂氏のご解説では、こうです。
「先手を打って、できるだけ人目につくところで犯人に派手に責任をとらせ、世間の同情を先に長州藩に集めてしまう。さらにその際、焼き討ちの理由を、薩摩藩が行っていた密貿易に対する義憤だったと公表する。そうなると、今度は薩摩藩が苦しい立場に置かれ、一石二鳥である」
実は、犯人はわかっていなかったようなのですが、「だれか名乗り出て藩の窮状を救え」ということで、義勇隊士二人を選び、時山直八、杉山松介、野村靖の三人が、自殺を強要したのだというのです。二人はびっくりして、「それなら薩摩藩邸に身柄を引き渡してくれ」というのですが、切腹しないのならば殺す、とまで迫られ、逃げるのですが、品川弥二郎と野村靖に追いかけられ、つかまったあげくに、二人の自決は藩政庁の命令とされてしまい、やむなく従います。

なんともやりきれない話ですが、この長州の工作は、大成功をおさめるのです。
薩摩商人の首が斬奸状とともにさらされ、その前で、二人が切腹しているところを見て、攘夷気分にひたっていた当時の人々は、二人の正義感を信じ、殺された薩摩商人に同情しようとは思わなかったのです。
これは、島津久光が怒るのも無理はないでしょう。
しかし、参与会議では、一橋慶喜が攘夷よりの姿勢を見せ、しかも、この時点において、幕府は長州処分に消極的だったんですね。
とりあえずの久光の気分は、割拠、だったのではないでしょうか。

禁門の変、四国連合艦隊による下関砲撃、双方の敗北で、長州藩は、藩としての単純攘夷は捨てます。
第一次長州征討があって、そして高杉晋作の功山寺挙兵で、長州も割拠の趣を見せるようになります。
なにより、長州が単純攘夷を捨てたことで、薩摩は長州との提携を視野に入れるようになりました。
ちょうどそのころ、幕府の横須賀製鉄所建設が決定をみます。
この噂は、多方面から薩摩に入ったはずです。
まずはイギリスとオランダ。そして、幕府の中の横須賀製鉄所建設反対派から。
ちなみに、肥田浜五郎は、オランダへ出向く以前、勝海舟が主導した、幕府の神戸軍艦操練所で教授をしていました。
これは、築地にあった幕府の軍艦操練所とは方針がちがい、他藩士も多くとることにしていましたので、一応、薩摩藩士も通っていたのです。

横須賀製鉄所建設を決めたのは、幕府勘定奉行の小栗上野介ですが、その下には、勝とともにオランダ海軍伝習を受け、咸臨丸の太平洋横断時には、実質艦長の役目を務めた小野友五郎がいました。
この人は陪審の出身で、もともとの身分が勝より低かったため、当初は勝の下に立たされましたけれども、もとが天文方で、総合的な近代海軍技術導入については、勝つよりもすぐれた見識を持ち、それだけに勝とは対立していました。
咸臨丸渡米後、小野が海軍に残り、勝ははずされるのですが、勝が海軍に帰った時点で、小野は勘定方にまわったような次第だったのです。

そんなわけで、勝海舟周辺から、横須賀製鉄所建設の話は、薩摩に入った可能性もあり、イギリス、オランダにしろ、勝にしろ、「フランスの野望」を強調した情報となっていたと、推測できるのです。
後年の回想なのですが、「横須賀のことか何かで、ついにイギリスとフランスといくさをしかかったというようなこともありました」と、グラバーは述べています。
また、横浜で刊行されていたイギリス系の風刺雑誌には、「タイクンとその家臣たちとは今後フランスの臣下とみなされる」といったような記事が、載るようになろうとしていたのです。
その情報を受けた薩摩としては、一方に、思うにまかせない自藩海軍力の増強、という現実があるわけでして、あるいは薩摩藩首脳部の一部は、将来に、朝廷のもとでの中央集権までも、想定したのではなかったでしょうか。
対外を考えるならば、なによりも増強すべきは海軍なのです。
しかし、海軍には莫大な費用がかかり、また技術導入も一藩では容易に進まず、幕府海軍との格差は、ひらくばかりでした。

薩摩藩が、五代友厚の献策を入れて、イギリスへ密航留学生を送り出すことにしたのも、幕府の大がかりな、横須賀製鉄所建設を知ったことによるものと思われます。
現実に、薩摩密航留学生の中で、海軍関係の勉学を積んだのは、アメリカに渡って、維新後にアナポリス海軍兵学校に入ることができた松村淳蔵のみですが、それは結果論であって、最初は大多数が、海軍関係の勉学を志していたのです。
そんな薩摩が、オランダにいる肥田浜五郎や、幕府の留学生に、連絡をとろうとしなかったとは、ちょっと思えません。前回書きましたように、五代にしろ、寺島宗則にしろ、知り合いは多いのです。
といいますか、オランダの海軍大臣カッテンディーケは、在日時、当時の藩主、島津斉彬に招かれて、薩摩を訪問しています。

つまり、肥田浜五郎のモンブラン接近と、五代友厚の肥田浜五郎への接近が交錯し、フランスの全面協力による横須賀製鉄所建設反対、という点においては、五代と肥田は一致しますので、肥田浜五郎から、あるいはオランダ海軍関係者から、五代に、モンブラン伯爵が紹介されたのではなかったでしょうか。

というわけで、さらに続きます。おそらく、次回で終わるでしょう。


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