SNS上での、杏果の一連の対応というものをずっと考えていました。
この場合、自分の視点だけで考えてもわからない。だから、ももクロ時代やソロ活動へ取り組む姿勢など、有安杏果という人物の人となりというものを鑑み、できるだけ杏果の立場、杏果の視点に立って考えてみました。
その結果、自分的には完全に腑に落ちた。納得を得られ、満足しております。
杏果は現在、元芸能人であった「一般人」なのです。つまり杏果は、一般人になったということの「けじめ」をつけているのだということが、理解できたのです。
杏果がSNSを始めたのは、杏果が卒業したことによって路頭に迷ってしまうファンを救い上げるためであることは、いまさら論ずるまでまでもないこと。しかしもはや杏果は芸能人ではない。
SNSを初めて以来、杏果はももクロのことはもちろん、芸能人時代のことは一切語っていない。見事なくらい一切語っていない。これは一般人となった杏果の「けじめ」なのです。
そうなりますと当然、無遠慮なファンが訊ねてくるであろう芸能関係の質問等には、一切答えられないことになります。しかし答えられる質問と答えられない質問とを分けたのでは、ファンとの対応に「個人差」が生じてしまうことになる。
杏果としてはそれは避けたかった。ファンは皆平等に扱いたかった。だから杏果は、個々のファンとの交流をせず、あくまでSNS上に限った、ファン「全体」との交流というかたちに留めたのです。
芸能人ではない、一般人としての「縛り」を自分にかけ、その縛りのなかで出来るだけファンに対して誠意ある対応で臨みたい。これが杏果の「想い」だった。
ファンとの交流はSNS上でのみ、それも個々との交流はせず、あくまでファン全体との交流に留める。こうした縛りがどの様な状況を生むか、わかるでしょ?
つまり杏果が街中で声を掛けられても返事をしないというのは、こうした縛りを自分に科しているからなのだ、ということです。
街中で声を掛けられ、それに応じるということは、個々の交流をしてしまうということです。生真面目な杏果としては、それは出来ないと思ったのでしょう。
良いか悪いか、正しいか間違っているかではない。有安杏果とは、
そういう人なのです。
だったらそれを、ファンに告げればいいじゃないか?そう考える方もおられるでしょう。しかしそれでは、ファンにも「縛り」をかけてしまうことになる。そんなことを杏果が望むわけはないです。この縛りはあくまで自分にかけたもの。ファンにかけるわけにはいかない。
だから杏果は、なにも語らない。
良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとかではありません。有安杏果とは
そういう人なのです。
ですからこれによって、心無い誹謗中傷を受けたり、離れて行ってしまう人が出てくるかもしれないということは、おそらくはある程度、予測していたことでしょう。それでも杏果は貫いた。
この貫き通す姿勢。これが有安杏果なんです。
まるで武士の如くに、雄々しく気高く、美しい。
やはり杏果は、私が思ったとおりの人だった。
これについて、私は誰とも、一切議論をするつもりはありません。なぜなら私の中では、完全に解決したことだからです。
この件は、これにておしまい。