被災地、閖上の地に立って、新海監督は何を思っただろう。
詳細は私には分かりません。ただ、「助けたかった」と思ったことは確かでしょう。
その思いが、この映画を作らせた。この時空を超えた
「愛」の物語を。
この作品は何というか、命をはじめとするこの世の神羅万象に対して、とても真摯な態度で臨んでいるように思われます。登場人物はみな、与えられた状況の中で自分ができることを必死に努力している。誰も安易に、神様におねがいなんてしないんですよね。これほど神社やら御神体やらが物語の中心に据えられているというのに、誰も「神頼み」ということを発想すらしない。
人が人として努力し続けた結果として、口嚙み酒に辿り着く。そこではじめて恩寵が与えられるわけです。
しかもこの恩寵の絶妙なところは、恩寵を受けた人たちがそれに気づけない、ということなんですね。本来なら彗星の破片の墜落によって亡くなったはずの人たちが全員助かった。
時間軸が新たに組直された。このことによって、彗星によって多くの犠牲者が出たという事象が消えてしまった。だから
当然その「記憶」も消えてしまう。
この時間軸の変更にほぼ直接的に関わった瀧や三葉の記憶もまた消えていく。新たな時間軸の中では、彼らの行動は「なかった」ことになったわけですから、なかった事象、起きなかった事象が記憶にあるはずがないんです。
この辺りの展開がなんとも絶妙で、切ないわけです。瀧と三葉は、入れ替わりをしたことも、片我時のつかの間の邂逅も、
お互いがお互いに「恋」をしたことも
すべて忘れて、新たな時間軸の中に溶け込んでいく。
だけど、何かを失ってしまったという寂寥感は、お互いの中に残り続け、何を失くしたのか分からないまま、二人は
「片我」をずっと探し続ける……。
この世の神羅万象への真摯な姿勢を保ちつつ、雄大にして壮大、尚且つとても繊細な物語でした。正直、『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』比べれば、若干落ちる(失礼)けれど
好感触は持てた作品でしたね。
なんかね。監督の名前が良いなあと思いましたね。
「新海誠」=神界のまこと。
散々書いといて、結論はそこかーい!(笑)
半身、うーん。
「♪六甲降ろしに〜♪」「それは阪神タイガース」
「はん〜しん!とぉ〜!」「仮面ライダーか!それは変身やろ!?」
「魚屋さんに売ってる奴、サケの……」「それは切身や!き・り・み!!ええ加減にせえ!!」
失礼しました〜(笑)
そういえば、かつて哲学の授業にて、「失われた半身」という表現の出処(元ネタ?)についての講義があったなー、と思い出しました。これがまた、誤解されやすい両性具有や同性愛関連のお話だったりもするのですが。。。 それは、プラトニック・ラブというワードで有名になっちゃった(?)、プラトン哲学の授業でありました。
『君の名は。』、我らが桃たんの国ではまだ上映されてないとのことですが、こっちでは来る4月7日から上映されるんです! やったー! 吹き替えなので、魅力半減だけど。
幸い私はこの夏帰省中に日本で見れたけど、日本語クラスの生徒たちの質問に答えてあげられるように(吹き替えがちゃんと正しく訳されているかチェックしに?)、また見ようかなー。
『この世界の片隅に』、是非是非何としてでも原語版で見たいです!
片我と言えば、私は「半身のお紺」という時代劇が結構好きだったんです。
お紺はかつて純情を捧げた男が、自分の育て親を殺して逃げたため、その真偽を確かめるために女無宿人となって、その男を探して旅をするんです。
そんななか、平手造酒(ひらてみき)という浪人と出会い、造酒はお紺の旅に同行することになる。
そして最終的には、父を殺したかつての「半身の男」を斬って、真の「半身の男」平手造酒と結ばれる…。
しかしその直後、造酒は抗争に巻き込まれ命を落としてしまいます。
再び半身となったお紺は、また独り、行き先のない旅路に着く…。
お紺はかつての男と、互いに龍の彫り物を入れていました。二人の彫り物を合わせて完成する絵柄の…。
「半身のお紺」は、とっても切ない時代劇でした。
「ヘドヴィグ・アンド・アングリー・インチ」というロック・ミュージカルでも、「自分の半身を探して、"円"を完成させたい」というモチーフがありました。
私は長いこと、その「人間はそもそもが半身。だからそれを埋めてくれる誰かを探し求める」という概念が好きじゃなかった。
キリスト教の原罪みたいで…。
一人一人が、すでに"円"として完成した形ととらえていいじゃないかって…。
そう豪語していたというか…。
人間って…、人生って複雑ですね…。
あの方、美辞麗句とかってよく使うでしょ?私にはこの感覚が理解できない。この言葉のチョイスの仕方は微妙に違うんじゃないかと、違和感がぬぐえない。だからまるぞうさん辺りが嬉々として美辞麗句なんて言い回しを使っているのをみると、この方は結局、「原理主義者」なんだなあと思ってしまう。良い悪いは別にしてね。
私はリーマンさん個人にはまるで興味がない。あの方の語っていることの内容はすごく学びになるし、人生のナビゲーターだなとは思っているけれど、それ以上の興味はないんです。どんな仕事をしていようが、たとえ何人いようが(笑)、正直、知ったこっちゃありません。
基本は感謝想起と感謝の線香三本供養。これだけは絶対的に信じてる。それでとりあえずは十分じゃない?
私はリーマンさん個人を崇拝することなど決してないし、必要もないです。
十分な答えになったかな?
大道さんはリーマンさんや真客さんの別ハンネじゃないよね?
大道さんは岩手に住む、全くの別人だと思っていて、いいんだよね?
これはあるいは、あるいはだけど、震災で肉親や愛する人を失った人たちの、どうしようもない心の空洞、寂寥感の暗喩なのかも知れない。
それと恋愛ドラマとして見たときに、果たしてすっぱり忘れさった方がいいのか、それとも記憶にないのに心の片隅に想いが残り続けているとした方がいいのか。
どっちがより切なく、ロマンチックか。これはもう、好みですよ、好み。
言っときますが、私はどちらが好みなのかという質問は受け付けません(笑)
一生片我が見つからない不全感を抱えても、「彗星の衝突で死ななくてすんだんだから、ヨカッタ」のかな?
そこに「多くの村人が」が入るなら救われるけど、「自分が」だったらビミョーかもしれない。