
昭和29年公開『ゴジラ』より、芹沢大助博士。
日本統治下の朝鮮、京城(現在のソウル)で生まれる。陸軍士官学校卒業後、旧制第一高等学校に入学、さらに戦後、東京大学法学部に入学というんですから、まあ秀才ですね。
旧制一高は現在の東大よりも入学試験が難しかったといいます。そこからさらに東大に入るんですから、大変な学究の徒であられたのですねえ。
学生時代に東宝でバイトをしていたこともあって、映画に強く惹かれるものがあったようですが、大学卒業後は貿易会社に就職したようです。しかし映画への熱情忘れがたく、兄の小野田嘉幹(後の映画監督)が新東宝に入社したこともあって、会社を辞め、東宝の専属俳優となります。
これほどの二枚目でありながら、主役にはあまり縁がなかったようですね。私のような特撮ファンとしては、平田さんといえばやはり、「博士」役のイメージが強いですね。初代ウルトラマンの岩本博士をはじめ、『空の大怪獣ラドン』『キングコング対ゴジラ』大怪獣バラン』等々で見せた、常に冷静沈着、クールで観るからに知的な学者。平田さんといえばまさにそんなイメージ。
その他、『太陽にほえろ!』の署長役も印象的でしたし、戦争映画では士官の役が多かった。海軍士官の制服をビシッと決めて、艦橋に立つ姿を容易にイメージできます。
あとは部長刑事とか新聞社のデスクとか、やはりエリート系の役が圧倒的に多いようです。そういう役に、無理なくなんの嫌味もなくポンとハマってしまう。
本当のエリートであったが故の空気感、そこが平田さんの最大の魅力だったように思います。
そんな平田さんの代表作を挙げろと言われたら、ほとんどの方は躊躇なく答えるでしょう。
昭和29年公開、第1作『ゴジラ』にて、自身の命と引き換えにゴジラを倒した科学者、芹沢大助博士であると。
映画の登場人物の中で最も重要な役といってよく、この役の成功如何で映画の良し悪しが決まってしまうといっても過言ではなかったと思います。
平田さんが見事に演じたことで、その後のゴジラシーリーズ及び東宝特撮映画の隆盛に繋がった、と見るのは、
大げさ、ですかね(笑)。
ご本人も大変な特撮好きで、やはり特撮作品に出演の多い佐原健二さんが『ウルトラQ』の主役を射止めたとき、「あの役は自分がやりたかった」と佐原さんに後に告白したそうです(笑)
東宝出身の俳優さんには特撮モノに対する抵抗とか偏見とかは少ないようです。まあ、作品数も他社に比べて多いですし、東宝専属の俳優さんは大概、特撮映画に出演しますから、ありがたいと思いこそすれ、毛嫌いするなどあり得なかったでしょう。
これが東映辺りだと、特撮作品などは「ジャリ番」といって低く見る傾向があったようですね。
そんな特撮映画の「アイコン」的な存在だった平田さんですから、昭和59年(1984)公開の復活『ゴジラ』にも、ゴジラを長年研究していた「博士」の役で出演する予定でした。
しかしにわかに病状が思わしくなくなり、出番の多い役は無理ということで、博士役は夏木陽介氏にバトンタッチし、一日の撮影で済む新聞社のデスク役での出演に振り替えられます。
なんとか復活ゴジラに、平田さんを出演させたい。そんなスタッフやファンの思いも空しく、同84年7月、56歳の若さで早逝され、出演はかなわぬままに終わってしまいます。
新聞社のデスク役は、佐藤慶氏が代役を務めました。
ご本人もさぞや出演したかったでありましょう。
その無念の思いは、果たして昇華されたでありましょうや。
あれから32年。今改めて、特撮映画における、いや、特撮映画に限らず、日本の映像作品における、その多大なる貢献を讃えつつ、
御霊が安らかであらんことを思います。
平田さん、極端な話、あなたがいなければ、『シン・ゴジラ』までの、日本における特撮・怪獣映画の伝統はなかったかも知れない。
芹沢博士とは、それほどに重要な役柄だった。私はそう信じます。
深く深く、感謝いたします。

『愛の戦士 レインボーマン』より、「死ね死ね団」首領ミスターK。クールで知的な悪役もハマっていました。
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