山本覚馬は文政11年(1828)1月、会津藩砲術指南役・山本権八と佐久夫妻の長男として生を受けました。幼名は義衛で諱は良晴。覚馬は通称ですが、以後覚馬で通します。
17歳年下の妹・八重は、“幕末のジャンヌ・ダルク”と謳われ、同志社大学の創始者新島襄と結婚することになる、今年の大河の主人公・新島八重です。
母・佐久は大変聡明な人物だったようで、覚馬は頭が上がらなかったようです。
佐久が覚馬に対し、常に言い聞かせていたことがありました。
「決して自分からは仕掛けるな、けれども先方から争を挑まれた場合には飽くまで対抗して、単に自ら守るばかりでなく、進んで勝利を得なければならぬ」
〈青山霞村『山本覚馬』同志社、1928〉
まさに会津武士道ですね。幕末の会津藩が歩んだ、歩もうとした道そのままではありませんか。このように普段の家庭教育から、会津精神は育てられていた。これが会津の強さの元だったわけです。
覚馬は豪放磊落で文に武にも秀でていました。幼少の頃より数々の武勇伝が伝えられています。一方、藩校・日新館での成績も優秀で、江戸の昌平坂学問所への遊学が許され、22歳の時に江戸に行きます。さらに25歳で2度目の江戸遊学を果たし、佐久間象山の塾で西洋の学問を学びます。この塾には吉田松陰や橋本佐内、勝海舟や河井継之助など、幕末史の主役たちが学んでいました。
しかし覚馬が入塾してまもなくのこと、塾生だった吉田松陰がアメリカ艦船に密航しようとした件で、象山は蟄居謹慎を命じられ塾は閉鎖。覚馬は勝海舟の塾に移ることになります。
覚馬はおよそ三年間江戸で学び、帰藩したあと藩の軍政改革を行おうとします。上層部に建白書を提出しますが、保守的な会津の気風から受け入れられず、また覚馬の強引な性格が祟って謹慎処分を受けてしまう。
三年間の遊学で、覚馬は藩という単位を越え、「日本国」という単位での大きな視野を得たようです。日本が今置かれている現状、危機感。海外の学問を学び、新しい武器を整え、軍政を改革する。その必要性を痛感したが故の建白でしたが、なかなか受け入れてはもらえなかった。その焦りと悔しさから思わず暴言を吐き、結果謹慎の憂き目に会ってしまったのです。若気の至りとはいえ、藩を思う純真さ故のこと、日頃から覚馬に目をかけていた林権助などの奔走もあり、謹慎は1年ほどで解かれます。聡明な覚馬のこと、謹慎中にも己の在り様を顧み、忍耐ということを学んだのではないでしょうか。知らず知らずの内に天狗になっていたかも知れない。大いに反省したことでしょう。
復帰した覚馬は軍事取調兼大砲頭取に任命され、日新館内に射撃訓練場を設け、藩士達に射撃訓練を課します。しかし鉄砲は足軽が使うもの、武士は剣と槍、弓矢で戦うものだという意識が強く、藩士達には不評でした。
結局、改革はままならないまま時代は急変していきます。文久2年(1862)藩主・松平容保が京都守護職を命じられ、会津藩は悲劇への第一歩を歩み始め、覚馬もまた、波乱の人生が幕を開けるのです。
(続く)
…えっ?ここまでは大河で観たって?まあまあそう言わずに。ここまではまだプロローグ。これからですよ、これから。
乞う御期待!
参考文献
『山本覚馬 知られざる維新の先駆者』
安藤雄一郎著
PHP文庫
17歳年下の妹・八重は、“幕末のジャンヌ・ダルク”と謳われ、同志社大学の創始者新島襄と結婚することになる、今年の大河の主人公・新島八重です。
母・佐久は大変聡明な人物だったようで、覚馬は頭が上がらなかったようです。
佐久が覚馬に対し、常に言い聞かせていたことがありました。
「決して自分からは仕掛けるな、けれども先方から争を挑まれた場合には飽くまで対抗して、単に自ら守るばかりでなく、進んで勝利を得なければならぬ」
〈青山霞村『山本覚馬』同志社、1928〉
まさに会津武士道ですね。幕末の会津藩が歩んだ、歩もうとした道そのままではありませんか。このように普段の家庭教育から、会津精神は育てられていた。これが会津の強さの元だったわけです。
覚馬は豪放磊落で文に武にも秀でていました。幼少の頃より数々の武勇伝が伝えられています。一方、藩校・日新館での成績も優秀で、江戸の昌平坂学問所への遊学が許され、22歳の時に江戸に行きます。さらに25歳で2度目の江戸遊学を果たし、佐久間象山の塾で西洋の学問を学びます。この塾には吉田松陰や橋本佐内、勝海舟や河井継之助など、幕末史の主役たちが学んでいました。
しかし覚馬が入塾してまもなくのこと、塾生だった吉田松陰がアメリカ艦船に密航しようとした件で、象山は蟄居謹慎を命じられ塾は閉鎖。覚馬は勝海舟の塾に移ることになります。
覚馬はおよそ三年間江戸で学び、帰藩したあと藩の軍政改革を行おうとします。上層部に建白書を提出しますが、保守的な会津の気風から受け入れられず、また覚馬の強引な性格が祟って謹慎処分を受けてしまう。
三年間の遊学で、覚馬は藩という単位を越え、「日本国」という単位での大きな視野を得たようです。日本が今置かれている現状、危機感。海外の学問を学び、新しい武器を整え、軍政を改革する。その必要性を痛感したが故の建白でしたが、なかなか受け入れてはもらえなかった。その焦りと悔しさから思わず暴言を吐き、結果謹慎の憂き目に会ってしまったのです。若気の至りとはいえ、藩を思う純真さ故のこと、日頃から覚馬に目をかけていた林権助などの奔走もあり、謹慎は1年ほどで解かれます。聡明な覚馬のこと、謹慎中にも己の在り様を顧み、忍耐ということを学んだのではないでしょうか。知らず知らずの内に天狗になっていたかも知れない。大いに反省したことでしょう。
復帰した覚馬は軍事取調兼大砲頭取に任命され、日新館内に射撃訓練場を設け、藩士達に射撃訓練を課します。しかし鉄砲は足軽が使うもの、武士は剣と槍、弓矢で戦うものだという意識が強く、藩士達には不評でした。
結局、改革はままならないまま時代は急変していきます。文久2年(1862)藩主・松平容保が京都守護職を命じられ、会津藩は悲劇への第一歩を歩み始め、覚馬もまた、波乱の人生が幕を開けるのです。
(続く)
…えっ?ここまでは大河で観たって?まあまあそう言わずに。ここまではまだプロローグ。これからですよ、これから。
乞う御期待!
参考文献
『山本覚馬 知られざる維新の先駆者』
安藤雄一郎著
PHP文庫
西郷隆盛が好きな理由は藩やら主義やらが違っても相手の義を尊重してくれているところです。
自分だけが(我)正しいと、誰かを排除しかねない視点がない。
確か山本覚馬に対してもそんな逸話があった気がする…。
続き楽しみだなあ。
けんかは、母いわく、おとこだって、まけたことがないそうで、負けてはならぬと、いってました。母は、自分のことを、俺てしかいったことがありません。外で見る母と内の母は、大違いで、他人様は、みんなだまされています。お兄など、電話の声は、女子高生といってました。私は、八重さんの旦那様をすごいな~と思います。意味は、こわくていえません。m(__)m
ありがとう御座います。お疲れ様です。楽しみだな~!ばし~と語ってくださいませ。
学ばせていただきます。勇気と元気を頂いております。
来週は池田屋事件ですねえ。斉藤一は覚馬より、山川大蔵との縁が深いようですが、その辺は調べてみないとなあ。斉藤一の資料集めなきゃ。
あ~忙しい(笑)ホント、黄金の時間だね。
ウチの母親も以前は俺と言ってたらしいです。私は直接聞いたことはないんですけどね。(笑)
はい、ばし~と書かせていただきまする~。