作家、池波正太郎氏の傑作シリーズ、『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵は実在の人物。所謂妾腹の子ということで義母に散々苛め抜かれ、若い頃はグレてしまって放蕩三昧、悪い仲間とつるんでケンカに明け暮れ、「本所の銕(幼名が銕三郎)」などと呼ばれて恐れられたとか。
そんな悪童時代に、後に密偵となる相模の彦十や少女時代のおまさと出会う…というのは完全な池波氏の創作ですが、その放蕩時代の経験が、後々のお役目に役だったことは確かでしょう。
長谷川家の家督を継いでからは、真面目に忠勤に励み、御書院番(将軍世子の警護役)から御先手組弓頭へ出世。御先手組とは、将軍家直属の軍団の中でも先陣を切って敵陣に突っ込む精鋭部隊。日頃より武道の研鑚に励みました。
ところでこの御先手組、太平の世にあってはなかなか活躍する機会がない。そこで江戸市中の治安が悪化した際などに、御先手組などの精鋭を、江戸市中を騒がす賊の群を取り締まる任にあたらせたのです。
それが「火付盗賊改方」です。奉行所などの役人には与えられていない独自の機動性を持ち、特別機動警察軍ともいうべき組織で、常設的な機関ではない臨時職だったんです。
そしてこの「火付盗賊改方」の長官に、長谷川平蔵が任命されることとなるのです。「鬼平」の誕生です。
これを見てもお分かりの通り、「火付盗賊改方」と奉行所とはまったくの別組織です。鬼平さんのことを「お奉行様」なんて呼ぶ人がいますが、それは完全な間違い。気を付けましょう。
じゃあ何て呼んだらいいの?作中では皆さん、鬼平さんのことを「おかしら」と呼んでますから、それでいいんじゃないですか?
「鬼平」を観ておりますと、「正しい」盗賊と「正しくない」盗賊がいることがわかります。
盗賊など所詮は悪党、とはいえ、そんな悪党でも越えてはいけない一線というのがあるらしい。
一、人は殺さず
二、女は犯さず
三、貧しき者からは盗らず
この「盗賊三原則」とも言うべきルールをしっかり守って「お勤め」する盗賊が正しい盗賊の在り方で、これをまもらない輩は、「畜生働き」「外道働き」などといわれて蔑まれた。
面白いですね、悪党には悪党なりの誇り、矜持というものがあって、それをきっちりと守っている盗賊は尊敬された。
もちろんそんなルールなんかクソ喰らえと煙たがる輩もいるわけで、この二派の対立がドラマを盛り上げたりもするわけですが、ともかくもそうした盗賊たちとも、若い頃の銕っつぁんは付き合いがあった。
のちに密偵となるおまさの父親は盗賊で、銕っつぁんはその手伝いをしようとするのですが、「あんたはこっちの世界に来ちゃならねえお人だ」と断られるんです。若しこの時盗賊に加わっていたら、その後の長谷川平蔵はなかった。
そうした「悪い奴ら」というのは、みんな家庭環境や社会の矛盾からドロップアウトした者たちばかり、その心根の中には良い部分もたくさんある。悪人の中にも善があり、善人のなかにも悪があるということを、銕っつぁん=長谷川平蔵は自身の放蕩無頼を通じて学んだんですね。
それが後々、鬼平さんの「人を視る目」を培っていくことになったのでしょう。
さて、本日の記事のタイトルとなった言葉ですが、これは『明神の次郎吉』というエピソードのなかで語られた言葉です。
明神の次郎吉は、盗賊・櫛山の武兵衛一味の腕っこきの盗人。この男、盗人のくせして妙に人が好い。金を摺られた老人に有り金全部渡してやって、自分は野宿するような男でした。
この次郎吉が櫛山のお頭に呼び出されて江戸に向かう途中、行き倒れの僧から、江戸の岸井左馬之助という侍に、短刀を届けてくれるように頼まれるんです。
人の好い次郎吉は僧の遺体を街道沿いの寺まで運んで御弔いを頼み、江戸の岸井左馬之助に短刀を届けます。
左馬之助はいたく喜び、次郎吉を大層持て成します。
この左馬之助、長谷川平蔵とは旧知の中だったんですね。それで次郎吉は平蔵とも仲良く酒を酌み交わしたりするんです。
しかし密偵のおまさが次郎吉を見知っていました。人の好い次郎吉をお縄にしてよいものか、できれば見逃してやりたい。おまさは悩んだ末に彦十に相談します。
彦十は「長谷川様の下で働いている以上、見逃すわけにはいかねえ」とおまさを諭します。
これにより櫛山一味に探索の手が伸び、ついに一味は捕縛されます。
捕縛された時の一味の潔さに感服した平蔵は、町奉行所に手柄を譲るかわりに、量刑を軽くするように裏で手配をするのです。
平蔵は次郎吉のことを左馬之助には黙っていました。教えることで、左馬之助の純真なこころを傷つけることを好としなかったのです。
このときの平蔵のつぶやきが…
「人間というのは妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く。心をゆるし合うた友をだまして、その心を傷つけまいとする……」
次郎吉のように、盗人でありながら、普段は善いことばかりをしている人間もいれば、自分は友をだます=悪事を働くことによって、友人を傷つけまいとする=善事を働いている。
この矛盾、平蔵はその矛盾を「そういうものだ」と全肯定している。
その上で、自らのお役目である、江戸庶民の生活の安寧を図るため、盗賊どもの跳梁には断固たる態度で臨むのです。
「鬼」と呼ばれ、一方で「仏」とも呼ばれた所以がここにあります。
もう一つ、『谷中いろは茶屋』というエピソードでは、盗賊改配下である木村忠吾が、見回りの途中で、いろは茶屋の茶屋女のことが恋しくなって、見回りを放り出して会いに行っちゃうんです。
しかしこれが結果的に、盗賊一味捕縛の一番手柄に繋がってしまうんです。同僚たちに一目置かれ、忠吾は大層こそばゆい思いをすることになってしまう。さらに平蔵より報奨金が下賜されるに及んでついに忠吾は堪えきれなくなり、平蔵にすべてを打ち明けます。
そこは平蔵、ハナからちゃんと御見通しなんです。そこで平蔵が忠吾に語った言葉が、
「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
そうして今回だけは大目に見てやることにするのです。これは優しいようでいて、実は大変に怖いことでもあります。もし忠吾が再び同様のことを繰り返したなら、その時は、
鬼の平蔵は断固たる処置を取ることでしょう。
平蔵の人を視る目。それは放蕩無頼を極めていたころに培われたものでしょう。
その時期を通して平蔵さんは、人間というのは本当にどうしようもないところがあるけれど、それでも「愛しい」ものだと思えたのでしょう。世に悪党と呼ばれる者たちの、意外に優しい面や、善い面を見るうち、そのような想いが心に芽生えたのだと思う。
そうして、平蔵さんはいつも顧みているのです。己自身の日頃の言動を常に顧みている。自分がお役目を成すに足る人物かどうかを、常に顧み続けてきたのだと思う。
それが平蔵さんの心の「鏡」を、大きくクリアにしていった……。
人は自分の目を通して、外の世界を観ていると思っています。
しかし本当にそうでしょうか?
人間に見えている世界は、外から入ってきた刺激を、脳の中で自分に理解できるように変換された世界です。
つまりそれは、自分の脳が作り上げた世界であり、従って人は「外」の世界を観ているのではなく、自分の「内側」を観ている、とも言えるのではないでしょうか。
他人に対する評価もまた同じです。人が他人を評価する場合、自分に見えている相手の一面だけをもって評価をしがちになります。
しかし、その他人の見えている部分というのも、実は自分の脳の中で、自分に理解できるように変換された一部分に過ぎず、つまりそれは、ある意味
自分自身の姿でもあるのです。
だから、極狭い範囲での相手の印象だけで、相手を評価したり、ましてや誹謗中傷などしない方が懸命かもしれませんよ。他人の姿に見えたものが、実は自分自身の姿の一部であるかもしれず、相手を傷つけているつもりが、実は自分自身を傷つけていたに過ぎない、なんてことになるかも。
恐いですねえ。
ともかく、他人の姿をできるだけ正確に把握するには、自分の中の鏡を、より大きく、よりクリアにしていくしかない。小さく汚れたままだと、そこに写る像はとても見えにくく、歪んだものになってしまうでしょう。
常に自分を顧みる姿勢、自分自身を見つめる姿勢、心の鏡を大きくクリアにしていくには、これ以外に方法はないのでしょうね。
心の鏡の大きさは、その人の心の広さ、器の大きさにも繋がって行きます。
だから、平蔵に捕縛された盗賊の中には、平蔵のために働きたいと、密偵になる者達も出てくるのです。
密偵になるということは、盗賊仲間を裏切ること。殺されても文句は言えない命掛けの仕事です。しかし、ダニみたいに思われている自分達のことを、長谷川様は人間として対峙してくださった。
そんな懐の深い平蔵にほれ込んだ元盗賊たちが、密偵となって平蔵の下に集まってくる。
命懸けだからこそ、両者の間には、揺るぎ無い信頼関係が生まれるのです。
長谷川平蔵と密偵たち
左から、おまさ(梶芽衣子)。小房の粂八(蟹江敬三)。長谷川平蔵(中村吉右衛門)。大滝の五郎蔵(綿引勝彦)。相模の彦十(江戸家猫八)。
長谷川平蔵。それは池波正太郎氏描くところの、男の、いや、人間の一つの理想像なのでしょうね。
こんな風には、なかなか、なかなか、なかなか、
なれませんねえ。
まあ、なんでしょう?日頃の自分の言動、行動を顧みること。
他人のことをとやかく言ってる暇に、自分自身を見つめること。
それしか、ないのでしょうねえ。
常に自分を顧みる、自分を見つめる。頭ではわかってるんだけど、ついつい色んなことに反応しちゃいますね。日々これ修行だ。
お互い、がんばりまっしょい!
鬼平さんはそういうところを全部理解した上で、社会の安寧のため、法を犯す者は絶対に逃さない。
鬼平さんは常に「人間」を見てるんですよね。表面的な善悪ではない、「人間」を見ている。そこは鬼平さんの個人裁量なので、そこがこの時代の良さでもあり、怖さでもありますね。
男らしさとは、やさしい覚悟もあるな~と感じました。自分だけの世界ですね。憧れるな~!
お疲れ様です。ありがとうございます。