中央政府の強引な律令制度の導入は、東北の民、特に自由を謳歌していた非農耕民の激しい反発を買ったものと思われます。
奈良時代から平安時代にかけて、東北の民=蝦夷は朝廷と激しく対立。ついには武力衝突を招きます。
「奥羽38年戦争」ともいわれるこの戦乱の後半に登場し、朝廷軍を翻弄したのが、胆沢郡(岩手県奥州市水沢区)の蝦夷の族長、阿弖流為(アテルイ)でした。
延暦8年(789)より延暦21年(802)までの、およそ13年間、抵抗を続けたアテルイでしたが、ついに抗しきれず、朝廷軍に帰順降伏します。朝廷軍の指揮官、征夷大将軍・坂上田村麻呂はアテルイと副将格のモレを京に護送し、助命を嘆願しますが、田村麻呂の願いもむなしく二人は河内杜山にて処刑されます。
さて、歴史書などにアテルイは、「大墓公阿弖流為」と記載されております。これをいかに読むか?は現在でも意見が分かれるところのようです。
「たいものきみ」「たものきみ」「おおつかのきみ」「おおはかのきみ」等々、様々で一定しておりません。
そんな中、在野の研究家の方で、この記事の参考にさせていただいた書籍の著者、千城央氏は、その著書の中で非常に面白い説を提示しておられます。
それによりますと、抑々「阿弖流為」は本名ではない。本名は「照井某」である。そして「大墓公阿弖流為」は「おおばかのきみあてるい」、と読むのだそうな。
これはどういう意味かというと、つまり「政府に反逆した大馬鹿の頭領で阿呆の照井」という意味なのだそうです。
例えば宇佐八幡宮神託事件で、天皇の意に逆らって処断された和気清麻呂(わけのきよまろ)は、記録書に記載される際、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名されて記載されました。
その他にも、本名が記載されず名前が変えられた者たちは多いようです。そのほとんどは時の権力者に反抗した者達。
アテルイは中央政府に逆らった大逆者。名を変えられた可能性は十分にあるのではないだろうか。
古代中国においては、「阿」の字をつけて呼ぶときは、親しみを込めて呼ぶ場合と、嘲りをこめて呼ぶ場合の両方の意味があるそうです。
ですから、「阿、照井」とすることで、嘲りを込めたのではないだろうか。
改名にはまた、祟りを避けるという意味もあるそうです。中央政府はアテルイの「怨霊」を相当に恐れていたでしょうから、怨霊封じのためにも改名したことは十分に有りうること、なのだそうです。
一つの視点として、大変面白いと思います。
アテルイの本名が「照井某」であったとするなら、いままでの話の流れからいって、アテルイもまた物部系であった可能性が強いことになります。
アテルイが本拠地とした胆沢郡は、後に安倍一族が支配した奥六郡の一つ。となると、アテルイと安倍一族との間になんらかの血縁的関係があった可能性が出てくるわけです。
面白いですねえ、みんな繋がってる。
もう少し〈つづく〉
で、ありやす(・Θ・)
参考文献
千城央 著
『エミシとヤマト ~鉄と馬と黄金の争奪~』
河北新報出版センター