お気楽忍者のブログ 弐の巻

ミニカー収集/お魚採取/動植物フォト/行楽記・・・趣味のごった煮ブログ

2023 お気楽行楽記総集編(2)

2023年12月12日 18時00分00秒 | 行楽・旅行記6

1月

浄土宗 平庸山 無量寿院 徳永寺(三重県伊賀市)

鈴鹿山脈の南端、伊賀盆地の東にあたる伊賀市柘植町の集落にある徳永寺。

天正10年(1582年)6月2日の早朝、織田信長が逗留していた京都本能寺を明智光秀の軍勢が取り囲みました。

堺で本能寺の変の知らせを受けた徳川家康は脱出し、京都南部、近江南部、伊賀を越えて現在の鈴鹿市白子から船で三河の居城に戻ったとされています。その途中、鈴鹿山系の加太峠を越える前にこの徳永寺で一泊したことが伝わっています。その時の御礼でこのお寺では葵紋の使用が許されました。

NHK大河ドラマは『どうする家康』にあやかって、この年は地元に残る家康ゆかりの場所を訪れました。

曹洞宗萬壽寺(三重県伊賀市)

同じく柘植町にある萬壽寺はこの地に生まれた松尾芭蕉の木造を安置した桃青殿があって、毎年11月に芭蕉を偲ぶ「しぐれ忌」の法要が営まれ、全国から寄せられた献句の特選句が奉納されるそうです。

松尾芭蕉墓碑(三重県伊賀市)

現伊賀市の山出区に松尾家一族の墓や芭蕉の墓碑があったそうですが、明治末期にこの地に移されました。芭蕉の墓碑には「芭蕉翁桃青庵主」と刻まれていました。

※芭蕉は元禄7年(1694年)に大坂で亡くなり、遺言により現 滋賀県大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)で木曽義仲の墓の隣に埋葬されています。

史跡 福地城跡(三重県伊賀市)

福地城主の福地氏は平清盛の末裔を称した土豪で柘植の有力な氏族でした。

天正9年(1581年)に織田信長が伊賀を攻めた天正伊賀の乱では福地伊予守宗隆が織田勢に加勢して勢力を拡大しましたが、翌年の本能寺の変で信長が討たれると、伊賀衆の残党に裏切者として攻められ、国外へ逃亡しました

福地城主郭の入り口である虎口には当時の石垣が残っていました。

城跡は芭蕉公園として整備され、松尾芭蕉の句碑や東屋がありました。

1月25日は強い寒気の影響で広く雪模様になりました。

ここ数年はそんなに雪が積もることも無かったのに、管理人の家の庭でも25cmくらい積もりました。

滋賀を通る複数のJR路線は全て運転見合わせ。

前日の晩はJR京都線、琵琶湖線で列車18本の立ち往生が発生し、全国ニュースでも取り上げられましたね。

また、写真のように新名神高速道路の甲賀土山ICと四日市菰野ICの間では20時間以上の車の立ち往生が発生してしまいました

2月

浄土宗家松山大徳寺(滋賀県甲賀市)

滋賀県甲賀市水口町にある大徳寺は水口岡山城初代城主の中村一氏が菩提寺と定め、小田原大蓮寺の僧 叡誉に寺の建造を頼み、禅宗であった林慶寺から浄土宗に改め、寺号も浄慶寺となりました。

また、寺を建造した僧 叡誉は松平(徳川)家康が幼少の時の学問の先生でした。家康は関ケ原の戦の後にこの寺を訪れて寺領29石と金品を寄付し、家康の「家」と松平の「松」の各1字をとって「家松山」の山号を与えました。

徳川家康公腰掛石(滋賀県甲賀市)

境内にある腰掛石は、家康がここに腰掛けて叡誉上人と色々話し合ったと伝えられてます。

その後、家康は上洛のために水口を通る時はこの寺で宿泊したそうです。慶長7年(1602年)に家康は2世岌誉に香木と法服を与えて、大徳寺と改めさせました。

寺号の大徳寺は「大将軍徳川」に由来すると云われてます。

つづく

過去記事<2023 お気楽行楽記総集編(1)

よろしければ、応援クリックお願いします!


にほんブログ村



最新の画像もっと見る

コメントを投稿