小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



66年前の今日、1945年2月16日に小田原市沼代の山中に一機の戦闘機が墜落した。墜落したのは四式戦闘機の疾風で、首都防衛飛行第22戦隊長の上原重雄中佐が搭乗していた。上原中佐は残念ながら当地で亡くなられた。享年28歳の若さだった。田島の農道の途中、沼代の集落へ下だる道と農道とのT字路の脇に「陸軍中佐上原重雄戦死の地」の案内看板がある。墜落したのはそこから山側へ300mほど登った鉄塔の下。昨年までその鉄塔の下に上原中佐を偲んで建てられたお墓と記念碑があったが、最近沼代の王子神社の先100mほどの場所に移された。王子神社の前の道をまっすぐ下っていくと、道路脇の見晴らしの良い場所にお墓と記念碑があった。命日なのでだろうか新しい花が手向けられていた。石の墓標と金属の記念碑が建っている。この記念碑は、上原中佐が搭乗していた疾風のプロペラ4枚の中の1枚を利用して作られたもの。上原中佐が戦死した経緯は当地の案内板から抜粋すると、「昭和20年2月16日、相模湾沖に進行した航空母艦から発信したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。午前10時頃攻撃を終えて南下してきた敵機の大編隊に単機捨身で突入した日本軍機があった。しかし不運にも本市小竹上空で被弾し、相模湾上で反転し飛行場への帰還に向かったが、敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。当日、上原中佐の部隊には迎撃中止の命令が出ていたが、我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員をなだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。」プロペラの記念碑の裏側には「爆音のたへて桜とちりぬるも高きかんばせ永遠にきへなん」と献歌が刻まれている。上原中佐の墓標と記念碑は昭和28年に建てられ、現在でも下中遺族会婦人部や戦友が供養しているとのこと。暫し、上原中佐のお墓に手を合わせた後、来た道を戻り上原中佐の搭乗機が墜落した場所へ向かった。みかん畑の中の細い農道をしばらく登ると送電線の鉄塔が見えくる。その下が戦死の地だ。陸軍中佐上原重雄戦死の地から街を見下ろしてみた。2011年の2月16日の昼下がりは、鳥の鳴き声と時折農道を通る車の音が聞こえるだけの静かな時間が流れていた。

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