長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

赤羽根城 ― 正確には北赤羽根屋敷 ―

2013年02月06日 | 落城戦記
作手赤羽地区にある赤羽根城。
黒谷屋敷とも呼ばれる北赤羽屋敷の周辺に先日行きました。

仕事で行ったのですが赤羽根へ行くと聞いた瞬間、
『あの赤羽根城のか!』(ゴォォォォォ!!)
と、頭の中で炸裂。

※ゴォォォォ!!っていうのは、『花の慶次』の緊迫したシーンへ移る前のコマの絵的な奴です。

同行者に「赤羽根城って近くにありますかね?」と、聞いたところ、
「え・・・、そんなところに城あるって初めて聞きました。」
と、聞き返されました。

地元の人でもそりゃ知らんわな、というレベルのこの城。

※赤羽根公民館の近くにある天神社の前付近がそれだとか。現在、遺構は滅失しています。


※公民館となりにあるお寺。

なんでこのようなマイナー城に私が萌えたのかといえば、
『奥平氏、武田から徳川へ。深夜の決死の大脱走。』
の際に登場するからです。

簡単に申し上げますと、
新城市作手南部を拠点とする奥平氏は岡崎、豊川、新城にも勢力を伸ばしますが、今川、徳川、武田といった巨大勢力に挟まれて、自立までには至りません。武田の圧倒的な武力の前に心ならずも屈してしまう奥平家ですが、武田家に馴染めずにいたとき、巨星信玄が死亡します。
自家の勢力を守るため徳川氏は、奥平氏を必死に誘降します。

この当時、大名の勢力圏の周辺部は直接支配ではなく、その地域を治める小領主を味方につけることが主流でした。そのため、小領主達の動向如何では、一気に勢力図が変わることもあったそうです。

徳川家康は自分の正室の長女を妻に差し出す条件までつけて奥平氏を誘い、奥平氏も寝返ることを約束します。
しかし、これは、奥平家が巨大な武田勢の最前線で戦い続けることを意味し、武田に差し出した人質が犠牲になることも覚悟の上、という大変重い決断です。

しかも、この奥平が徳川に内通した、ということが、武田の中にもそれとなく伝わります。
徳川家康が武田信玄時代に奪われた長篠城を武田勝頼から奪還した直後、長篠城救援に向かった武田軍の裏を掻くように家康は逃走します。
この情報を漏らしたのは誰だ?と、詮索が始まり真っ先に疑われたのが奥平貞能(さだよし)。
実際、情報漏らした訳なんですが、貞能は武田援軍の総大将武田信豊の居る塩平城(現在の玖老勢コミュニティセンター)へ召還されます。

まぁ、ここで息詰まる問答が繰り広げられ、危うく虎口を脱する貞能ですが、本拠地の作手へ帰っても疑う武田からカマをかけ続けられます。が、見事にそれも乗り切り作手から額田宮崎まで一族大脱走を果たすわけです。
その際、奥平貞能・貞昌親子と奥平貞勝(貞能の父、貞昌の祖父)が合戦に及ぶなど、かなり一族間で複雑な様相を見せます。

この辺りは別に詳しく書くつもりなのですが、そのときの登場人物の心理状態を自分なりに想像するためには、まだ現地視察と資料の突合が不足していますので、それらの整理が終わったときに。

で、その後、徳川の援軍とともに作手にいる武田軍を攻撃。
この際、武田が築いた古宮城は支えきれず自焼落城。
武田軍は、赤羽根城、大和田城、島田城と次々と後退させられます。

ここで赤羽根城が出てくるのです。


現在はこんな道ですが、こんな感じのところを武田軍が必死に逃げていったということでしょうか?

しかし、この後も武田軍は作手地域を確保したことが文献からもわかるので、一体、この話はなんだったのか。
別の話が取り紛れたのか、一旦攻撃だけはして奥平家は放棄したのか。
この辺りはもう少し調べてみたいです。

でも、「風になびく葦」として大国の狭間で揺れ動くことしかできなかった「山家三方衆」というのが通説となっていますが、私はもう少し自分たちの意思というものがあったのではないかと考えています。
むしろ、大国にしても気を使わなければならない領主達であり、世上で言うほど、そんなに弱っちぃ人達ではなかったのではないか。

そういう視点で色々調べているんですが、調べれば調べるほどわからないことが増えていきます。
困ったもんです。