長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

富永家の人々③ ~まぎらわしい秀吉~

2012年03月03日 | 日本史
本格的な戦国時代到来前に滅んでしまった野田の富永家には有力な家臣団が多く、そのうち、富永半五郎勝光と城所藤五郎信景(後の城所道寿)などは各地へ散ってしまった、ということは、以前述べました。
など、の中に含まれる人でこれまた気になる人がいます。

ことの発端は長篠城址本丸にある案内看板でした。
参加武将の名前が書いてある説明書きを読んでいたら「豊臣秀吉」と書いてある。
あらまぁ、豊臣秀吉って、このときは、まだ羽柴秀吉じゃんね。間違えちゃってぇ、誤植発見、と、思ったものの「あれ、秀吉はこのとき設楽原の方にいるのに、なんで長篠城の付近に出てくる?」と気づき凝視。
すると『豊田秀吉』と書いてある。

誰?
この豊臣秀吉のバッタもんみたいな人。

と、子孫の人がいたら激怒しそうな感想を持ってしまったのが正直なところです。
この人、念が入ったことに『豊田藤助秀吉』なんですな。羽柴藤吉郎秀吉→豊臣秀吉なので、名前がやたらと似ているのです。

ちなみに、この豊田藤助秀吉さんは、新城市の現在の地名として残っている「吉川」という場所に住んでおり、菅沼定利の配下だそうです。
菅沼定利は田峯菅沼当主菅沼定忠の跡を継ぎ田峯菅沼当主となりますが、どうも布里合戦で定忠の父定継を倒したものの定忠の養父となった定直の息子らしいです。(このあたりの関係が複雑すぎていつも混乱します。どろどろの人間模様です。)
整理すると、田峯菅沼定継→定忠(後見人は叔父で定継を布里合戦で倒した定直)→定利(定直の子)、という敵味方の血筋がクロスするという状況になります。まるで昼ドラのよう。豊田藤助秀吉は定利が家督を継ぐ前の家臣だったということになりますね。

まぎらわしい人がおるもんじゃのぅ、と、長年(と、いっても1年半程度)思っていたところ、城所道寿関係で富永家を調べたところ豊田家は富永家家臣団の一員だったことが判明。
乱心自刃してしまった富永家八代目当主千若丸から野田菅沼定則に当主交代する際に、富永家の家臣団が分裂し、退転した家臣の中に『豊田藤助』がいるのです。しかも、吉川へ退き、と、ある。主がいなくなり、自分の領地である吉川に引っ込んでしまったようです。引っ込んだのは永正二年(1505年)前後だと思います。

富永家家臣の豊田藤助は、退転した場所が吉川、藤助という名乗りが一致していることから、長篠合戦は天正三年(1575年)なので同一人物とは考えにくいですが、長篠合戦に参戦した豊田藤助秀吉の先祖であることはまず間違いがない。

なんともまぎらわしい人の素性がわかった、というご報告が本日の内容です。

もっとも、豊田藤助秀吉さんの方が先に名乗っていることになるので、彼にしてみれば「豊臣秀吉がワシの真似しとるのん。ど迷惑な話だのん。」と、いうかもしれません。