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入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

   ’18年「初夏」 (35)

2018年06月20日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 きょうは予報通りに雨になった。霧はそれほど深くなく、ときどき鳥の声がするくらいで、静かだ。牛は御所平の外れの小さな丘に、14頭がひと群れになって雨に濡れていた。一番年齢のいった牛でもまだ2歳にもなっていない。高地での初めての体験で、やはり心細くなって一緒に行動することにしたのだろう。
 
 どうして牛の入牧頭数が減ってしまったのかということをよく聞かれる。一番の原因は、人工交配が主流でありながら、この牧場ではそういったことをやっていないせいだろう。和牛の種牛がいたこともあるが、これは人工交配に失敗した牛を、受精させる確率が高い自然交配に賭けるという、言わば最終の手段であり、人工の受精技術が進歩した今では、需要は減る傾向にある。それに、優秀な種牛を手に入れることは至難であり、高価でもある。
 また、ここでは、生後8か月からの若い牛を中心に、搾乳の対象とならない牛だけを受け入れるため、頭数が限られてしまう。しかしこれは、入笠牧場だけの条件ではない。公共牧場はどこもそうだと思うから、残念ながら種牛もいなければ、人工授精もやらないということで、地域の蓄主から支持を失ってしまったのかも知れない。
 その蓄主も減少する一方で、このごろでは最初から和牛と掛け合わせることによって、生まれた牛を肉牛に転化させたいと考える酪農家が増えた。その方が利益が大きいからだ。しかしその結果は、乳牛の出生頭数の減少を招き、1頭当たりの乳牛の値段を高騰させてしまった。絶えず新しい牛を確保することによって生産量を維持し、さらに伸ばしていきたい酪農家にとって、これは自ら招いたこととはいえ、大いに経営を圧迫させることになった。そしてついには、廃業を余儀なくする酪農家も出てしまう・・・。
 酪農ばかりでなく、畜産農家に入る事業収入は決して少なくない。しかし、牛のような大型家畜を扱う仕事はなにしろ容易ではない。環境も考えなければならないし、昨今では、酪農に参入するには億の投資が必要だと言われてる。資金だけでなく当然、知識、経験も要る。
 それでいて、乳価も自由に決められず、1円上がっただけで新聞が騒ぐ。酪農に嫌気が差して、止めていくのも分かる気がする。この牧場もそうした影響を受けているだろう。ただ幸い、近いうちにまた10頭ばかり上がってくる。
 
 末広さん、乳牛を中心に呟きましたが、少しは納得してもらえましたか。

  ボツボツ予約が入り始めました。お早めに。FAXでも予約や問い合わせに対応できるようになりました。ご利用ください。 入笠牧場の営業案内は「入笠牧場の山小屋&キャンプ場(1)」
「同(2)」をご覧ください。

 
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   ’18年「初夏」 (34)

2018年06月19日 | 入笠にまつわる歴史



 きょうの写真に写っている辺りも「御所平」の一部と伝えられている。この名前の由来だが、後醍醐天皇の皇子宗良親王がしばらくいたとする説が有力だが、1333年に鎌倉幕府が崩壊し、その後、諏訪氏の庇護を得た北条時行の一派がこの地に潜伏し、その際に宗良親王を騙った可能性も考えられる。
 時行が潜んだ場所はここ以外にもあったようだが、1年と有半ほど後の1335年、北条政権再興のため鎌倉奪還を目指し、足利尊氏の弟直義(ただよし)が守る同地を攻めた。世にいう「中先代の乱」である。
 以上のことはこれまでにも呟いた大雑把な話だが、「御所平」の名称についてはこうした背景が考慮され、今後に何らかの変化が起こるのか否か、注目したい。
 それにしても、あの人、あの人、そしてたくさんのあの人たちは、この問題をどう考えているのか・・・。
 
 今では集団離村してしまった芝平も、かつての住民には北原姓が多く、乱の前か後か、北条の残党の一部がこの山奥に住み着いたと信じる人もいて、歴史への郷愁を誘ってくれる。
 北原のお師匠もかつては芝平の住人だったが、師は法華道を歩いたり、御所平峠の自らが据えた地蔵様の前に額ずけば、その昔、日蓮宗の本山・身延山久遠寺を目指した信者の旅姿が見えると言った。なかなかその域には届きそうもないが、御所平の辺りを行けば不思議なくらい、動乱の世を過酷な運命に翻弄されながら生きた、若武者のことが思い浮かぶ。
 元熊本藩士にして、幕末から明治にかけて活躍した儒学者横井小楠は自らを、時行の末裔だと言っていたという。小楠は号で、名は平 時存(ときひら)、北条四郎時存と名乗ることもあったとか。

 牛は、ふたつの群れになっていたが、給塩の方法に苦慮している。塩鉢に置いても牛たちには分からず、鹿が待ってましたと来るだけだろう。呼び寄せ、来れば塩を貰えると教えるまでには、この頭数では簡単にはいかない。

 FAXでも予約や問い合わせに対応できるようになりました。ご利用ください。 入笠牧場の営業案内は「入笠牧場の山小屋&キャンプ場(1)」
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   ’18年「初夏」 (33)

2018年06月18日 | 入笠にまつわる歴史


   
   父の日や ブリキの猿が 手を叩く  ― 逍遊

 昨日は父の日とか。友人逍遊君の古い句。少し苦い。
 
 本日の牧場、午前8時45分の天候は雨、気温10度C。雨はその後も降ったり止んだりを繰り返した。霧が深く、牛の確認に手間取ったが、全頭が無事。

 また、「御所平」についてだが、確かに、昭和の初期の諏訪大社に関する文書に、現在の入笠山登山口の辺りを「御所平」と表記してあったのを見たことがある。
 しかし、地形、物見台跡、口碑などからして、やはり「御所平」の場所は伊那側に少し下った、牧場南側の一部を含む一帯だとするのが妥当だと思う。
 地形に関しては、潜伏場所である以上はできるだけ人の目に触れない山中を選ぶはずで、入笠山登山口近辺では火を焚いたりすれば、下からすぐに目に付いてしまう。それに対して牧場の近くの「御所平」は、周囲を山や森に囲まれていて潜伏するに都合よく、物見台だったと思われる遺構らしきも残っている。
 また、芝平の住民だった人たちは、身を隠していた当人の名前は忘れても、そういう人たちがいたということは、現在まで伝わっていて知っている。「芝平史」には「諏訪盛高は、亀寿をつれて、芝平の山中御所平にその隠遁の地を求めた」とある。「亀寿」とは北条高時の次男時行の幼名である。
 一昨年、6月28日の独り言で紹介したが、明治時代、初代御料局測量課長神足(こうたり)が残した記録に出てくる「御所平」とも、場所は一致する。続いて「仏平」の地名も登場し、かれらはここから「雨請岳(入笠山)」に登っている。

 こんなことに何故拘るかと言えば、今や入笠を紹介する印刷物のほとんどに、御所平の場所が入笠山登山口辺りを指すようになってしまっている。このままだと、それが定着してしまいそうだから、それでは困る。多くの人の苦労や努力が無になってしまう。富士見側でもこのことを理解してくれている人はいるが、肝心の伊那側がまったく暖簾にナントヤラ・・・。
 こうなれば「スズラン峠」でも「富士見峠」でもいいが、ひとつ、峠の名前を公募してみたらどうだろうか。

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   ’18年「初夏」 (32)

2018年06月17日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 知る人はもうあまりいないが、この奥に「雷電様」の祠がある。安永の4年と読める。1770年代に芝平の人々が建てたもので、雨乞いが行われた場所だと伝えられている。ここも牛の好む場所のひとつだが、適度な日陰と風の通りが良いということだろうか。
 きょうも単独がお気に入りらしい7番は、御所平の昨日とあまり離れていない場所にいた。そこから100メートルくらい離れた湿地に別に2頭がいたが、どちらの側も無視を決めて、関心を示さない。
 一度上部の放牧地に戻り、それからさらに下って、沢で隔てられた北側の「舞台」に行ってみた。未確認の残り9頭の姿がそこにいるかと思ったからだが、いなかった。もう入牧から5日目、あの牛たちもそろそろ水場となる沢を見付けただろうと思っていたが、どうしたことか。仕方なく森の中に入っていたら、9頭がまとまっていた。そこでも水は飲める。安心した。
 それにしてもあの牛たち、まだ牧区内を偵察中なのかも知れないが、広い草地でなく、変な場所にばかりいたがる。





 ここにもクリンソウがあちこちに咲いている。湿地帯やそこから流れ出す水のお蔭だ。これだけの水源があれば、その昔ここらに潜伏していたと言われる鎌倉幕府滅亡後の残党たちの暮らしも、充分に支えたことだろう。

 通信、ありがとうございました。かつてはこの牧場内の道路を、たくさんの牛が闊歩したもので、事情を知らない人からは「牛が脱柵している」などと連絡を受けたこともありました。わずか5,6年前のことです。暑い夏の日、牛たちの落とし物を道路から除去するために流した汗も、今では懐かしいくらいです。通信を頂戴するのは、楽しみです。

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   ’18年「初夏」 (31)

2018年06月16日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 鹿は自分たちも許されたと勘違いでもしたのか、昨日は牛と一緒に放牧地にいた。普段なら、車の音を聞き付けてすぐに姿を消すのだが、そうしなかった。「アレッ」というような顔をして、しばらく動かなかった。

 入牧から4日目、牛の様子を見にいったら、昨日と同じように松の木の下に2頭がいた。そして7頭、さらに林の中で4頭とそれほど時間をかけずに確認できた。しかし、もう1頭足りない。嫌な予感がした。新しい環境に置かれて、単独というのはおかしい。探すしかないが、どこにいるのか予想も付かない。湿地帯に足でも取られて倒れていないかと、そんな以前にあった事故を思い出した。不明の牛と蓄主が同じ牛がもう1頭いるが、それは7頭の群れの中にいた。なぜ1頭だけ離れてしまったのだろう。



 幸い、牛は無事で、御所平の水源地の近くに何食わぬ顔をして寝そべっていた。最も近い群れのいる所まで誘導しようかと思ったが、どうやらその場所が気に入ってるようで、「どうぞお構いなく」という顔をしていた。
 たった14頭ばかりの牛が今のように4群に分かれていると、牛の頭数確認には30頭、40頭の頭数と同じくらいの手間や時間がかかる。群れを主導する牛が早く出てこないと、調教にも影響する。そろそろ給塩してやりたいが、今の状態では鹿を誘引してしまうだけだろう。
 そう言えば、今年は和牛が1頭も上がってこなかった。まとまりのないのは、そのせいもあるだろう。早く、途中入牧をしてもらわないと。

 土曜日だというのにはっきりしない天気のせいでか、だれも来ない。本当は、雲っていたり、雨が降っていた時の方が、森の中の趣は味わい深いのだが。きょうあたり誰か、法華道でも登ってこないだろうか。あの古道は、赤坂口からでも諏訪神社口からでも、いい山歩きができる。 
 パンフレットに法華道は通行できないとあるのはあくまで富士見側のこと、伊那側は安心、安全。それにしても伊那市は、どこの誰が担当しているのか知らないが、地図や記述、内容が不完全かつ不正確で、その無責任さには腹が立つ。

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