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歴史最高

2004-12-23 | 歴史
ここんとこ井沢元彦の『逆説の日本史』などを読んでいて歴史熱が久しぶりにぶり返している。今年は哲学をかじったり物理に入れ込んだり、忙しい年だが、どれも追求するところまで行かずある程度かじると熱が冷めてしまうのがいかにも庶民的で我がことながら微笑ましい。

興味を引いた幾つかのポイントは
1.聖徳太子の存在自体に疑問を呈する説があること
これは別の本で見たんだけど、まあずいぶん古い時代のことだから今後も真実は分からない、決着が付かないのなら実在したってことでいいんじゃないかな?と自分の中では解決済み

2.「生類憐みの令」は必ずしも悪法ではなかった
これは感心した。徳川5代将軍綱吉は「犬公方」なんてあだ名をつけられるようなバカ殿だったと思っていたので。
戦国時代の人間は人を殺すということに対する倫理的呵責を持っていなかった。それもあたりまえで、武家社会では他国の人間を殺すことで出世できたりするのだから、命の重みなんていくらでもなかった。また、治安と呼べるほどの社会システムもないので自衛が常識、特に信長以前の大名は自国の農民を戦のときだけ徴兵していたので、武士と平民という区別もあいまいでみな武器を持っていた。

戦国の世が終わり平時になると治安を守るために秀吉が刀狩を行った。これでかなり殺傷沙汰が減った。さらに江戸の世になり天下泰平がいっそう進むと、武器云々ではなく命を尊ぶという精神的再構築作業が必要になる。

これが「生類憐みの令」で、ずばり命の大切さを植えつける法令であったというのだ。犬をお犬様と呼ばせたりのみ・しらみ・ハエ・カに至るまで殺させないというのはちょっと行き過ぎの間もあるが、世界的に最も治安の安定した都市として当時の江戸は記録されている。

3.信長の特殊性
信長が異端であったことは誰でも知っているが、日本史の中でもヨーロッパのルネサンスに近いくらいの大転換を起こすきっかけになったのだと。
上記にあるとおり、それまでのいくさは農民を使った軍隊で行っていたため農閑期にしか戦えない。信玄と謙信の川中島の戦いが何度も戦って決着が付かなかったのはそれが理由だという。つまり、あと少し攻めれば勝てるシチュエーションでも「田植え時期だから帰んなきゃ!」ってことになった。食料がなければ国の破滅だから。

信長はそれをやめて農民は農業に従事させ軍隊を専業とする部隊を大きくしていった。同時に楽市・楽座などで商業を大きく発展させ、堺を抑えて貿易を盛んにし、それまでいい加減だった貨幣を統一し関所をつぶして流通を促した。

それまでの大名と著しく違うのは、軍隊の強さよりも経済の強さに重きを置いていることで、経済力あってこそのいくさということを見抜いていた。

もし、信長が生きていたらアジア各所に貿易拠点を作り、外向きに発展していったのではないかという仮説もある。

ね?おもろいでしょ?
たいていこういうの書くと「文字が多すぎて読まなかった」とか言われちゃうんだよなあ。


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