石匠風間ブログ!

読書、音楽、雑学

ポアロ漬け

2009-11-30 | 読書
先月の記事で予言したとおりになった。
此処一月ほど間を空けずにずっとアガサ・クリスティを読んでいるのだ。

『アクロイド殺し』
『ヘラクレスの冒険』
『スタイルズ荘の会事件』
『ABC殺人事件』
『物言えぬ証人』
『ひらいたトランプ』

と、立て続け、きりがないな。『アクロイド~』の掟破り的ビックリとは違うけど他も「うーんなるほど」とうなるような設えはしてあって、さすがとしか言いようがない。しかし、どれもエルキュール・ポアロという探偵が事件を解決することに変わりはなく舞台設定だけがそれぞれ違うという、きわめてパターン化した本を何ゆえ飽きずに追いかけるのか?

推理小説といってもいろいろあるだろうが、クリスティの場合は読者に謎解きを挑むというスタイルではない、謎を解くための要素を全公開せず、謎解き場面で初めてポアロが説明する事実も多い。

それはともかく、前も書いたとおりトリック云々でなく一連の作品のなかでのポアロのキャラクターこそが魅力だと思う。デブちびハゲであることを罵られても涼しい顔をしていられるのに、ひげのことをなじられると激怒してしまったり、身の回りなどに妙に神経質でそれがために余計な時間を食ったり逆にトリックを見破る鍵になったり。

どんな空前絶後なトリックを用意しようとショッキングな情景を描こうと単にそれだけでは惹きつけられない、結局とどのつまり人は人にのみ魅入られるのではないかな。

次はどれにするかな?


夜の深谷駅

2009-11-28 | 地域・暮らし
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最近時間ができると夫婦でウォーキングしている。

そんで、深谷駅を通ったらあまりにもきれいだったのでパチリ。
人も疎らにうらぶれて寂しい深谷駅前、だからこそギャップが美しさを増すんだなあ。

今宵も観る人もいないのに輝き続けるイルミネーション・・・哀愁があるねぇ。
ユーミンが歌にしそうw


公開討論会に暗雲

2009-11-26 | 政治経済
久々の深谷市長選挙が実現しそうであるが(前回、前々回は立候補現職のみで無投票)、これを受けて深谷青年会議所(以下JC)では早速市長選公開討論会を企画しているそうだ。
候補者それぞれの生の声・生の意見をじかに聞き肌で感じ有権者としての態度を決める一助とする、昔はなかったけど今ではいたって当たり前の日本中どこでも行われる行事になった。

ところが、どうも簡単にことが運ばないらしい。
JC役員と市長の懇談会の席で、市長からはっきりと拒否されたとかw「遠まわしに」じゃなく「はっきりと」というところがいろんな意味で新井市長らしい。

公開討論会は上記のようにきわめて単純明快な理念を持って開かれるのだけれど、現職にとっては「いかがわしい」と判断されるのかね?ただ、確かに討論の上で現職候補が不利な面もある、なにせ現在の行政の責任者であればつっこまれどころ満載なわけで、新人候補にアドバンテージが働くとは言えよう。

今回の場合、それに加えて小島候補(予定者)がJCの出身者であることも警戒された一因かもしれない。敵の出身団体のやるイベントにのこのこ行けるか!っていう理屈があるのかも。
でもだからといってドラマみたいに明け透けに贔屓した運営をやるはずもないじゃないか。金持ちのボンクラ集団ではあるが少なくともそんな卑怯な団体じゃない。
「粗にして野だが卑ではない」ことは保証できる。

まあ、ここで何を言っても伝わるはずもないが、そんなことより、だ。
たとえどれだけ不利な行事であってもだよ、仮にも深谷のトップである男ならそこは堂々と受けて立って欲しいな。
「公開討論会?ドント来い!!」なんて言ってくれたらかっくいいのにね。
さて、あと2ヶ月ちょっと。どう進展するのか。


産業祭

2009-11-23 | 地域・暮らし
そして続く土曜日はビッグタートルで産業祭。
毎日のように行事が続く季節になった。しかし朝から夕方までたっぷりの肉体労働(しかもただ働き)は疲れる、この日は8時ごろ寝てしまった。

商工会議所青年部として抽選会のブースを担当。来場者が出展ブースを回るように何箇所かのブースにランダムに数字を配置しそれを加算して出た答えを持ってきた人にガラポン機を1回まわせるというしくみ。特賞ニンテンドーDSIを5機、1等Dランドペアチケット10組など大盤振る舞い。

「ひとり1回だよ」って言ってるのに何度も来るガキがいたり、理解の遅いじいさんがいたり、態度の悪いばあさんがいたり、ぐったりさせてくれる。

まあ、大変なことほど楽しかったりもするからいいのだけど、それにしても毎年行う商工会青年部の1事業としてはどうなのかなと思う部分も多分にあるな。いや、深谷を盛り上げるための産業祭、そしてそれをフォローするための青年部という図式はいいのだけれど。
フォローのありかたの問題かな。


PTA深谷支部研修

2009-11-22 | 地域・暮らし
金曜日にPTA深谷支部の研修を開催した。正確には本庄第一高校PTA深谷支部の研修、って長すぎ。
イタリア蟹レストランのイルグランキオにてテーブルマナー講座を行った。
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昔受けたことがあるような記憶がないでもないが、ほぼ内容を覚えてないのはやはり実生活で使うことのないマナーだからか。31人の参加者の中で男性3人というのはいささか窮屈だ。うかつにおならもできないじゃないか。上の写真は
「使ってないときの手をひざに置くのはマナー違反」と言われ、仕方なく両手をテーブルにあげて困っているの図だが、幼稚園のころから「手はお膝」と習ってきた日本人にとって不自然この上ない。

もちろんおいしい料理を味わうことと深谷支部の懇親・情報交換が主目的で、マナーを習うこと自体はきっかけのようなものだからそんな気にすることもないのだろうけど、でもたまにはこうして未知の風習の中不自然を体感するのも面白い。

しかしとてもおいしかったので、思いっきり皿を持ち上げて派手に音立てながらガガガッて口に掻き込んだら更においしかったろうなと想像した。
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政治家という生き方

2009-11-19 | 政治経済
そんなわけで、すでにご存知の方も多いとは思うものの一応報告がてら。
小島すすむ通信
来年の2月に行われる深谷市長選挙に埼玉県議の小島すすむ氏が立候補を決めました。
もちろん臆病者のぼくは反対したけれど本人の意思は堅く「覚悟を決めた」と言われてしまっては応援するほかないわけで。

正直なこと言えば県会議員なんておいしい立場なのだから、そのまま波風立てずにやっていても誰にもうしろゆび刺されないし、平和でいいと思うのだけれど・・・
思えばこのブログも当初から小島すすむ市議(当時)の応援活動を記事にして十数年、34歳で初出馬した小島氏もいよいよ50歳。政治家という生き方はよくわからないけど、快く送り出さなきゃいけないのかな。

だいたい、たとえ受かったとしてもだ、市長というのは昔なら名誉だろうけど今の世の中では貧乏くじに近いのじゃなかろうか?少しでも市政に不備があったら叩かれるのは市長、うまく行っても当たり前、誉められもしないのだ。

加えてこれからの世界は益々混沌を極め、それに習うように地方行政も舵取りが難しくなるのは必然だと思う。わざわざ自ら戦場みたいなところへ行かなくてもねえ。

とはいうものの、現職市長も3期を終え4期目に入るのもどうかという声が高まっているのも確か。
「対抗馬がいないのか」と問われると客観的に考えて小島すすむ氏ほど強い候補は見当たらないのも確か。そう、なるべくしてなったと言えなくもない結果。

ならばぼやいても仕方ないか。

先週、小島さんとサシで話したときに「正直おれはおっかないです」と言ったら
「実は俺もおっかねぇ」と本音で答えていた。
「おっかねえけど、、、ここで一歩踏み出さずに現状満足してるとおれ腐っていっちゃう気がする」
というようなニュアンスの話をされた。

泳いでいないと窒息するサメのようなものか、あるいは常に戦いを求める戦国武将か。事なかれ主義のぼくからするとやっかいな生き様だけど、だからといってほっとけない。ぼくなりにやれることはやる所存。
フォースと共にあらんことを!


纒向遺跡

2009-11-16 | 歴史
奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼が活躍した時代とされる3世紀前半~中頃の大型建物跡が初めて出土し、市教委が10日、発表した。南北19・2メートルと当時では国内最大の規模で、市教委は「大王の宮などの原型とみられ、日本の国家形成過程を探るうえで貴重な発見」としている。「ここが邪馬台国の中心で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もいる。
                                     (2009年11月11日 読売新聞)

にわか歴史ファンのぼくでさえ、このニュースにはわくわくした。もっと近いところなら現地説明会に行ったかもしれない。さすがに奈良まで行く気はしないので、ここ数日ネットなどで古代の知識を貪るように読んでいた。

邪馬台国と卑弥呼について、これほどに注目されるのは真相がよくわからないということにつきる、魏志の倭人伝という外国の資料でのみ存在を示しているために、様々な憶測を生んできた。
卑弥呼が日本の伝承上誰であったかはとても盛り上がる話題で、天照大神であった、あるいは神宮皇后であった、もしくはこの纏向遺跡にある箸墓古墳の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)であった等、諸説紛糾状態である。

「卑弥呼」という名は魏の国が蔑称として呼んだだけで日本でそんな「卑しい」名を女王につけるはずもない。だから誰だかわかんないのだ。もっと詳しく正確に書き残してくれよと言いたくなるが、書いてくれただけでもありがたいのだろう、なにせ自分らで記録を残さなかったことが最も罪深いのだ(残すための字がなかったか)。
同時に邪馬台国も魏がつけた蔑称であり、イコール大和王権なのか、九州地方の1豪族なのか、これも諸説ある。
そんな背景を持って、今回の遺跡発掘が大いに注目を浴びることになった。

「歴史を知らないものは、自分がどの木に生えているかを知らない葉っぱのようなものだ」
という言葉があらわすように、自分のルーツというのは誰しも気になるんだろう。

いま事業仕分けで行政の無駄を切り捨てることに躍起になってるけど、こういうところには予算をつけて欲しいなあ。


『ヨコハマ買い出し紀行』芦奈野 ひとし

2009-11-12 | 読書
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横浜が舞台のほのぼのした物語なのかと思ってたら、なんだこれは!
ほのぼのはしてるけど、主人公の女の子はロボットで横浜のニューシンボル:ランドマークタワーが水没してるじゃないか。ストーリーは書くほどのものはない、ロボットだけどバトルはないし空飛んだりもしない。ただ喫茶店をやっている女の子のきわめてあたりまえで退屈だけど心温まる日常を淡々と描く、が、町は少しずつ死に行く。

紹介文「お祭りのようだった世の中がゆっくりと落ち着いてきたあの頃。のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間、ご案内。夜の前にあったかいコンクリートにすわって。」

どうやら温暖化が進み海水面の上昇により世界の殆どが水没しているようだ。行政とかそういうのは一切描かれてないので、社会状況とか生態系の様子はわからないけど、「世界の終わり」に際して人類は慌てず騒がず、とても穏やかな心持で終焉を受け入れているように見える。

描かれる景色はお馴染みの横浜の中心部と鎌倉逗子などの海岸。だが都市部は水没していて、水没してないところもアスファルトはひび割れ草木は生え放題。元々横浜在住の人間として、こういう絵を見ると戦慄を覚える。

人類滅亡的な映画やマンガは今までにたくさんあった。アメリカなんかだと大統領がリーダーシップ振るったり『北斗の拳』だと暴力が価値基準だったりね。いずれにしても人々は絶望のそこに陥るのがパターン。
それなのに、このマンガでは誰一人として錯乱することなくとても穏やかにむしろたそがれの時間を楽しんでいる。

人類の最期は意外とこんなのかも。かえってリアリティがあるのかもしれない。そのリアリティがそこはかとなく恐怖を感じさせる。セリフが少なく風景コマが多いのもすごく暗示に満ちていて、目が離せなくなる。少なくともぼくは、うまく言えないのだけど、癒される面がある一方でどうにもはっきりとしない捉えようのない恐怖を抱くこととなった。それなのに哀愁が心地良くてあったまる気もする。別に文明が滅んでもいいんじゃない?ってな感じになてしまう。

すごく奥深いマンガだと思う。ぜひマンガ好きの人はご一読を!


利他行動

2009-11-09 | 雑記
内田樹ブログのなかで見つけた至言。
「自己利益の確保を最優先する人間は、自己利益を効果的に確保することができない。」
なるほどその通りだと思う。

ぼく自身が「自己利益確保を最優先する」人間だからこそ骨身に沁みるのだ。逆を言えば相手の利益を考えてやることで結果自分に利益が跳ね返ってくる。そういう事例をたくさん目の当たりにしてきたのに常にそういう行動を取れないぼくは相当頭が悪いw

他人の利益のための行動を「利他行動」という。

これこそ人間の人間たる所以だと思う、自己利益がすべてだったら動物と変わらない。
なんて書いたら最近の研究ではチンパンジーも利他行動が見られるらしい、餌を採ろうとして困ってる仲間に道具を貸してあげるやつがいるんだって。ぼくはチンパンジー以下かw

でもね、利他行動とはいっても「世界中のすべての人の幸せ」なんて言ってるのはいささか嘘臭い。まずは自分の近隣だと思う、いわゆる広い意味での「仲間」の幸せでしょ。
で、ぼくの周りにも利他行動をいとわない人間がいるけれど、彼らは何も深い考えがあってそうしてるようには見えない、当たり前のように自然な行動の結果として他人の利益を厭わない。

利他行動が自分の利益を確保する、というとなにやらパラドックスめいているがある種の真理なのだろう。

さて、理屈は頭に刻み込んだ。実際に行動に表せるか言行一致がどこまで出来るかが40代ヨシロの真価であろう。


『シートン動物記』シートン

2009-11-07 | 読書
うちは公文教室でもあるので「くもん文庫」といってこども向けの推薦図書が並んでいる。あるとき何気なく手に取ったのがこれ。小学生のとき教科書で読んだ記憶もあるがオヤジになってから読むと全然伝わるものが違うんだなこれが。

全3冊に狼、熊、鹿などのエピソードが10くらい。『ファーブル昆虫記』と大きく違うのはシートンのは別段動物を研究しようとか動物大好きとかいう主旨じゃなくて、基本的に狩人対野生動物という対立構造の中でその生態が描かれていること。主役たちは開拓時代のアメリカが舞台なため人間の生活を脅かすあるいは実益を損なう存在として登場する。

こどもへの推薦図書にしてはえぐいシーンもある、なんら悪事を働かないのに立派な角を欲しいが為に鹿を撃つ。狼やコヨーテは害獣ではあるが、それを捕まえるためにおびき寄せのえさとしてウサギなどを殺す場面も。現代の動物愛護社会では考えられないような描写も多い。

まあアメリカ開拓民も生き残りに必死なわけで、これを安易に現代の価値基準に照らしては誤解も起きるだろう。
野生動物も人間も必死になって生きている様が生々しく伝わる、以前読んだときよりも「生きる」ということ本来のすさまじさのようなものをひしひし感じられる。

てなわけでここ最近これを夜な夜な読んでいたのだった。こども推薦図書、侮るべからず。