石匠風間ブログ!

読書、音楽、雑学

高度資本主義社会を考える

2008-09-28 | 社会・出来事
友人が永年経営していたコンビニを閉めた。別段業況が苦しかったわけではない、むしろ好調だったという。詳細は知らないが本部と意見が合わなかったらしい。たとえ生きる糧を失うとも信念を曲げず閉店を決意した彼の潔さには敬意を評したい。

ちょっと興味が沸いてネットで「コンビに経営」というワードで調べた、いろいろ出てきた、「コンビニの経営だけはやめろ!」的な否定的意見が多い。本部と加盟店の関係は資本家と奴隷の関係だとあった。ある友達が「コンビニってのは一種のねずみ講だよ」と言ってたな。まあ当たらずとも遠からずなのか。

が、しかし消費者にとってコンビニエンスはいまや生活に欠かせないものにまで成長したことは否定できない。喫茶や宅配や銀行機能まで身につけて今後もどんどん進化していくのだろう。下手すりゃお墓もコンビニで買えるようになるのかも。

「もちは餅屋」だとか「地域に根ざしたお店」だとか言いながら一方でつい便利で利用しちゃうんだよね。

つまり資本主義経済を突き詰めた先には「便利」というキーワードが重要な社会がある。「高い」「安い」じゃない、どれだけ手軽か合理的かということに高価値を認められる(例外もあるけど)。これはなにかとても危うい印象を持ってしまう。この文明が脆弱性を露呈するとしたら、皮肉にも合理性を極めたが故の「便利さ」が発火点になるのじゃないかと。

わかりやすく例を示すなら、停電が長く続けば現代社会は簡単に壊滅するだろう。便利さを手に入れることによって失う代価は実は数値化できない大きさなのかもしれない。


『プリズンホテル』浅田次郎

2008-09-26 | 読書
30893539.jpg
こないだ実家へ帰ったときに親父に進められた、「おもろいから読んでみ」。浅田次郎だとわかったとき「ああ、親父も老いたな」と感じた。しかしそれは早計だった。

本作は4巻まであり、背表紙の解説を読むと
「任侠団体のためのホテルにわけありの人が集まってきて笑いと涙の感動作」みたいな、ああ、いかにも浅田次郎だなと全体を見切ってしまえそうな内容。正直言うとあまり気が進まなかった。浅田次郎何冊か読んだけど、一昔前のホームドラマを派手にしたような向田邦子に男っぽさを加えたような感じで、まあホームドラマ嫌いじゃないんだけどもう使い古した手法をわざわざ今更ねえ。

ところが、読み始めて180度評価が変わった。知らなかったがもう18年位前の作品で漫画化されたりしているようだが、それもうなずける、これは傑作だ。
もうなにしろうまい、実にうまい。道具立てからキャラから進行のカオスっぷりまで。

ストーリーは甘ったるくてどうってことないけど、予測できるストーリーでしっかり泣かせてくれるというのは尋常じゃない技術だ。まあ何度も読み返すものじゃないけど、いまや化石となりつつある「人の義理・情け」や「男子のあるべき姿」なんかを味わえる貴重な場かもしれない。

親父が「面白い」というものを素直に面白いと認めてしまうのもなんだか悔しいが、振り返ってみれば物心付いてからずっと親父の本棚がぼくを作ってきたかもしれない。司馬遼太郎や池波正太郎をむさぼるように読んでたことを思い出した。


運動会とパパさん会

2008-09-21 | 教育
金曜土曜と中学校小学校の運動会が連続して行われた。中学のほうは一応会長なので最初から最後までいたけれど、小学校は直前に仕事が相次いで入り出たり入ったりになってしまった。昨今の不安定な気候のせいでどの家庭もお母さんは大変だ。台風直撃と言われていればやらないだろうと判断しても仕方ない、現実には快晴、貫けるような青空に我が家でも大騒動だった。

小学校はお昼を家族で校庭で一緒に食べるのでそれなりの準備が必要で、それも騒動の一因だったろう。元を正せばぼくが小学校の会長時代に端を発する、いろいろもめた詳細は当時のブログに詳しいが、あれから6年経ち、お昼の校庭を見回せば皆当たり前のように家族でお弁当を囲んでいる。

その当時心配された「家族が来ない児童」についても教師たちがしっかりフォロウしているらしく問題ないようだし、まあ問題ゼロとはいかないまでもやってみればどうにかなるということじゃないかな。
そしてあの頃始まった「西小パパさん会」は未だに活動しているというのも感慨深い。正直言って2~3年持てばいいほうかと考えていた。

そのパパさん会で昨夜は打ち上げと称して飲み会。運動会自体の話(防犯や準備などを担当しているので)・井戸端的な話とともになんで新しい若い人が増えないかとしばし議論になったが、酒の席でもあって結局みんな「いいじゃん増えなくても。この面子でやってきゃいいんだ」って、開き直っていた。

それもそうかな、とぼくも思った。無理やり長引かせる=団体を延命させることはどこかに無理が出るだろうし、そもそも社会的認知度の極めて低いボランティア団体の行く末だ、あまり肩肘張らずともいいのじゃないか。やれる範囲でのんびりやりゃいいんだ。


ブログは炎上してない

2008-09-18 | 将棋
週刊文春9/18号に珍しく将棋がらみのこんな記事が載った。

ブログ炎上 羽生をからかった渡辺竜王の「言い分」


これは王座戦(羽生vs木村)でのこと。ネット中継で解説していた渡辺が羽生の指し筋に対して
「デスノート調に言うと、神の計画通りです」とか
「神の攻めが見つかりません。誘いのスキだったか(笑)」と解説したことで竜王ブログで批判コメントがいくつかあった。(ここでいう“神”は無論羽生)デスノートという漫画で“神”となると“死神”的な意味合いが強いから失礼だという意見もあった。

そのタイミングでブログのコメント欄を閉鎖したため週刊誌に面白おかしくネタにされちゃったらしい。さらには

将棋関係者によると、羽生と渡辺は仲が悪いという噂。 会っても会釈程度だし、渡辺は羽生に「先生」をつけない。性格も羽生は勝利至上主義で渡辺は気さくな感じでまったく正反対

将棋界の内幕みたいな感じで週刊誌ネタにはもってこいだったか。

この件を検証すると
まずブログへの批判は「礼儀を重んじる将棋においてそんな軽口をたたくな!」ってな具合だったが、そのコメントへの批判のほうが断然多く、どう見てもブログ炎上ではない。下手すると1手指すのに1時間くらいかかる将棋中継で視聴者へのリップサービスをすることがどうして非礼なのかわからない。それに他の若手棋士も「羽生さん」と言ってるのをテレビで見たことあるし、中学の部活じゃないんだから会って会釈程度でもなんら問題ないでしょ。世代の違う二人しかも戦う相手なのだからね、仲良し倶楽部じゃないんだから。

そもそもこの程度が非礼では何も発言できないが、たとえ非礼であっても何が悪いのか?とぼくなんかは思ってしまう。むしろ渡辺竜王にはもっと過激な発言をして対決ムードを盛り上げて欲しい。

と、ここまで書いてふと思ったのは、これもしかしたら竜王による将棋盛り上げの「仕掛け」なんじゃないかと。前に書いた橋本7段などは明白にねらって発言してるし、渡辺竜王も普段から将棋人気をとても気にしているし。となると文春も世間もまんまと竜王に釣られたのかも、それならば愉快。

さて、根気の竜王戦7番勝負=渡辺vs羽生は将棋ファンの待ち望んだ「永世竜王」を懸けてのタイトル戦!そう、お互い後1期で永世位を獲得するタイミングでの世紀の対決となった。羽生は永世竜王のほかに前人未到の「永世7冠」もかかっている。10月から12月まで3ヶ月かかる。楽しみだ。


石屋の考えるお墓2

2008-09-16 | 雑記
だいぶ前になるけど石材業界のセミナーで『石屋のなくなる日』というのがあった。石屋になりたてだったぼくはまんまと危機感を煽られたものだ。曰く「欧米ではプレート型のお墓が流行り石屋の存在が消えていった」という。いずれ「日本もそうなる可能性がある」とのこと。

まあ先のことはわからないが、日本という国はかなり独特であることを考慮しなければならない。以前ここで書いた『逆説の日本史』という本に詳しいが、日本人という民族が古来より持つ“怨霊信仰”という概念にはお墓参りにも深く関わっていると思う。

というのも何か予期せぬ事態に会って「お墓をちゃんとしてないからだ」とか「先祖供養がまずいのではないか」という話はしょっちゅう耳に入る。これは無実の罪で島流しにされた菅原道真の怨霊を鎮めるために太宰府天満宮を造ったりするのと発想が同じだと思う。大国主命は出雲大社に鎮められているし、古代日本の神社建立は大抵怨霊鎮魂を目的としている。

これはとても特殊なことで「神の祝福を受ける」よりも「神の怒りを静める」ことに主軸がおかれている。つまり欧米がプラス(正)の信仰心なのに対し日本はマイナス(負)の信仰心を持っていたといえる。これは何も遠い昔の無関係な話ではない、我々の潜在意識に生きづいているのじゃないか。

上に挙げた「お墓をちゃんとしないと云々」という発想は紛れもなく怨霊信仰そのものじゃないだろうか。だから理屈じゃない部分で無意識的に日本人はお墓を大切にしてきたし、たとえどれだけ科学が進歩しようとそうおいそれと無くせることじゃない。

言っとくけど、ぼくは非科学的なことは基本的に信用しない。でも大安を好んだり鬼門を嫌ったりする生活慣習をどれだけ理屈で論破してもそれは意味が無い、論理を超えたところにあるものだから。
と、まあそんなわけで日本のお墓文化が簡単には廃れないと考えている。

まだ30前でほぼ毎日出勤前にお墓参りしている若人を知っている。彼になぜそうするのか尋ねてみた。
「いや別に理由は無いです、ただ気分がすっきりするので」
うまく説明できないけどわかる気がする。

長々と書き連ねたが、要するにお彼岸といういい機会にたまにはお墓参りいかがですか?


石屋の考えるお墓

2008-09-15 | 雑記
お彼岸も近いのでこんな話題。

ぼくが石屋として様々なお墓を見てきて、その経験を元にお墓造りのアドバイスをしてみようかなと。造る前にまず墓地選びだね。
*お墓はできるだけ近いところに作る
と言うと「何を当たり前のことを」と言われそうだが、ぼくが言いたいのは墓地面積や墓地の形状あるいは方角や寺全体の雰囲気など諸条件よりも優先すべきだということ、徒歩で行ければ最高だ。寺自体がうらぶれていようが汚かろうが関係ない。どんなに小さくてもいいのだ。

でもこれがなかなかできない。もともと近所に寺や墓地がないってこともある、それならばたとえ歩いていけなくても車で一番近い墓地を選ぶべきだ。
墓石が立派だとかお寺内の一等地にあるとか、そんな理由で遺族は出向くわけはない、お墓ってのは生きてる人が足を向けなきゃ意味がないのだ。

もちろん家の横に墓があっても草ボウボウの家もあるし遠くても月命日は必ず参る人も知っている、結局は故人や先祖への想いがすべてであることも大前提。逆にだからこそ近くて困ることはない、今全然お墓参りしなくても将来したくなることだって考えうる。

*迷信に惑わされるな
北向きが悪いとか黒い石がよくないとか家名の上に家紋をつけろとか(by細木)、お墓に関しての迷信は数えきれないが、ほとんどが根拠がない。第一現在の形のお墓は意外と歴史が浅いのだ。ほんのごく少数の貴族や武士は別として、一般庶民が現在のようなお墓を建てるようになったのは明治時代から。ちなみに六耀(仏滅や大安)を気にする人もいるが元来仏教には関係ないし、六耀自体これほどポピュラーになったのも明治以降。

*長い目で見て造る
その値段からよく車選びを引き合いに出されるが、車は個人で楽しむもので5~6年のもの。お墓はまだ顔も知らない自分の子孫も関わってくる。だから自分の趣味で碁盤のお墓や釣りのモチーフを石塔に描くなどはいただけない。ぼくが薦めるのはシンプルなデザイン、シンプルisベスト。

ざっと思いつくことを書いたが、先祖を大切にする慣習が薄れつつある昨今、お墓に興味のない人も多いだろう。今後お墓は無くなっていくのか?他国は知らないけど日本に関してはそう簡単には無くならないと思う。その根拠は、長くなったのでまた次回。


『匣の中の失楽』竹本健治

2008-09-14 | 読書
18507886.jpg
読書というのは結局時間つぶしなんだなあと空しくなることがある。この本を読んでそういう種類のむなしさを感じた。とても長くそして難しい本で読みきるのに苦労した。苦労の割りにきっと忘れるのが早いだろうと思う、この手の話は。だからってつまらなかったのじゃない、むしろ虜になったのだけど。

竹本健治にはまっている事は何度も書いた、ブログに書いてないけど『ウロボロスシリーズ』をはじめその後も読んでいる。その魅力は純粋なミステリーとは一線を画した風変わりな作風、さらにこれでもかってくらいに盛り込まれた雑学オンパレード。数学、物理学、心理学、果ては古代史学や気象学まで、相変わらずの雑学百貨店。これが20代始めの処女作だとか。凄すぎるこの人。

また他作と同様多すぎる登場人物。ただ『ウロボロス』のように実名小説じゃないので(ウロボロスの主人公は竹本自身)、いまいちキャラが弱いか、誰が誰だかわからなくなる。
そして何よりこの本の不思議な構造、登場人物が実名小説を書きそれを織り込んであるのでどれが現実か混乱するようにしつらえている。
これが結構むかつく。「なめとんのか!」って気分になる、そこが著者の狙いなんだけど。

椎名誠とか村上春樹とか沢木耕太郎とか読むと生意気にも「もしかして俺でも本書けるんじゃないか?」なんて勘違いを起こすが、竹本を読むと「絶対無理だ!」と確信するな。


激怒する江口洋介

2008-09-13 | テレビ・映画・芸能
先日、旧田中籐左衛門商店いわゆる“七つ梅”でドラマの撮影がありエキストラで参加してきた。ここのところ深谷では映画やドラマの撮影が頻繁にあるが村おこしのひとつの形として需要があるのなら歓迎すべきことだ。

七つ梅といえば3月にこんなイベントをやったばかりだが、今回はテレビ朝日の本格ドラマで下の写真のように昭和23年の町並みが出現した。
TS380156.jpgnanatuume1.jpg

『警察の血』という題名のテレビ朝日開局○○周年記念ドラマだそうで豪華な出演者もその魅力。ぼくが通行人として参加したその日は主役の江口洋介が来ていた、いやあ実際かっこいいよ。

事件は程なく起こった。
雑役をしている江口が上司と喧嘩するシーン、砂利道の上で転がって激しく取っ組み合うのだが激しすぎて腕をすりむいてしまった。それが原因かわからないけど、やたらと怒って上司役の役者さんやアクション担当のスタッフに怒鳴り散らしていた。

まわりにはぼくたち一般エキストラがたくさんいる場所で、それまで彼の演技一つ一つを拍手していた深谷人たちも一気にドン引き。妙にしらけてしまった。監督も飛んできて平謝り、一番若いと見られる江口がこの中でははっきり強い立場なのがわかった。

もちろん役者としての仕事をとやかく言えない、その激怒はもしかしたら必要なことなのかもしれない、それによって緊張感が生まれるとか何かあるかもしれないし。けど、己の親世代のような役者を怒鳴る江口に不快感を覚えるのはぼくだけじゃなかったろう。

なんだか気持ちが冷めてしまったのでぼくはそこで退散した、というか実際仕事があったので中座したのだけど。なにしろエキストラって待ち時間が長くてね。

ドラマは来年の2月放映予定だとか。ちなみに深谷JCのいろんな人がエキストラ出演してます。
nanatuume2.jpgTS380159.jpg


*左の「リンク」にある「中島社長ブログ」にもっと詳しく載る予定です、記事によるとこないだやってたテレビ朝日ドラマ『ゴンゾウ』から使われてたらしい。この中島社長がエキストラを集めたわけです。


『逆説の日本史』井沢元彦

2008-09-08 | 歴史
gyakusetu.jpg
時間が経つと読みたくなるのがこの本。もう何度も当ブログで紹介したからしつこいかな。でも始めて読んだときは衝撃だった。だって卑弥呼は天照大神でしかも皆既日食のせいで殺害されて、聖徳太子も殺害あるいは自殺など不自然な死に様、天智天皇も暗殺の可能性が高く、その首謀者が次の天武天皇で。
極めつけは天皇家の発祥が朝鮮だと暗示しているところか。

その後ネットで本著に対するロジカルな批判が多数あるのを読んで簡単に鵜呑みできないことがわかった。けどね、古代の話なんて所詮確かめようがないわけでどれだけ議論を重ねても最終結論に至らないのがね、なんつーか不毛なわけで。

様々な資料遺跡を読み解いてもそれは客観的事実となっても真実とは言い難い。ならば多少乱暴でもワクワクドキドキさせてくれるほうが素人としては楽しいのだな。なにしろめっちゃ面白いのは確かだから。歴史本というより推理小説に近いかも。いやもちろんあまりにひどいでたらめだと困るのだけど。そして反論を読むと「あまりにひどいでたらめ」だと弾劾しているのだが、ぼく自身はそこの判断は未だつかない。そういえば『神々の指紋』にはやられたよなあ(笑)。

あ、ちなみに逆説の日本史1巻が探しても見つからなくて、そういえば観光屋のYくんに貸してあったのを思い出した。もうずいぶん前に貸して帰ってこない、要するに今更問うてもYくんのことだから無くしちゃっただろう(しかも読みもせずに)、というわけでわざわざ同じ本をもう一度買う羽目になった。


素朴な疑問シリーズ

2008-09-07 | 科学
ぼくの仕事場は墓場なので蚊に刺される。やつら、もう否応なく徹底的に刺す。先日はほんの数分に5~6箇所刺された。しかもほぼ同じ箇所を刺したものだから異様な膨れ方をして痒さもハンパない。

そんな折ふと積年の疑問を思い出したわけだ。それはつまり
「人が踏み入らないような場所で刺す蚊は、普段人が来ないのに生活に困らないのか?」
ってこと。

あまりに瑣末な疑問なので今まで調べようという気も起きなかった。いい機会だから調べてみたら。

「通常の餌は植物の蜜や果汁などの糖分を含む液体」

なのだそうで。へえ~、そうなんだ、だったら常に植物から食して欲しい。ところが

「メスは卵を発達させるために必要なタンパク質を得るために吸血する。吸血の対象はヒトを含む哺乳類や鳥類だが、爬虫類・両生類・魚類から吸血する種類もある。オスはメスと違い、血を吸うことはない」

のだって。

“積年の疑問”3分足らずで解決(笑)ネットはすごいね。
ところで、痒みについての考察も出ていた。

「吸血を容易にする生理活性物質を含む唾液を注入した後に吸血に入る。この唾液が、人体にアレルギー反応を引き起こし、その結果として血管拡張などにより痒みを生ずる」

さらに

「唾液は本来、吸引した血とともに蚊の体内に戻される。血液を吸引し終われば、刺された箇所の痒みはさほど感じることはない」

え?そんなことないでしょ。知らず知らず刺されても痒みによって刺されたことがわかるじゃないか。
そして

「蚊を叩き落す際、上から潰すと唾液が体内へ流れ込むため、指で弾き飛ばすと、痒みを抑えることができる」

う~ん・・・にわかに信じがたい。
というか、絶対でまかせだと思う。どなたか身をもって実験してみてください。