石匠風間ブログ!

読書、音楽、雑学

恒例!今年を振り返る

2005-12-29 | 雑記
ところで、年賀状をプリントアウトしたらよく見ないでイラストを決めた為「このたび転居しました」の文章が!!やばい!と、プリンター止めたがすでに30枚刷ってしまった。まいったなあ・・・が、しかし、間違った年賀状は郵便局で1枚5円で新品に交換可能なんだって。助かった。

今年もいろんなことがありました、渋谷までコンサート行ったりビートルズを語ったり女子高生が襲来したりグアムに行ったり衆院選があったり。
今年最初のコラムに「今年は脱力コラムで行くぞ」と書いてある、有言実行となってしまった。数年前のコラムにあるエネルギーは今では微塵も感じない。けど、そんなにつまらなくもないんじゃないかな、自分で読んでもまんざらでもないと思うのだが。

無論ネット上のコラムとは違って実生活は結構面倒なことがいろいろ起きていて(みんなそうだけど)、落ち込んだり喜んだり悔しかったり満足したり、そこらへんは例年通りだな。まあ僕自身のことを語ってもおもしろくもないか。

郵政民営化選挙問いうのはひとつの時代の終焉、あるいは瓦解もしくは再構築をシンボライズしているのだろうなあ。耐震強度偽装問題にしても一連の自動殺傷事件にしても今の社会が抱える様々な問題や矛盾が一気に露呈したわけだ。それぞれ根深い問題だ。どう解決されていくのだろう?されないのだろうか?

それにしても、ぼく自身は歴史とか将棋とか、そういう内的世界へ入り込んでいく傾向にあると批判を受けている。歴史を知ることは内向きか?将棋を指すことは引きこもりなのか?断じて違うと証明しなくてはならないな、なんてぼくは考えている。歴史を知ることで新たな外へのパイプが生まれる、将棋を指すことで今までとまったく違う人種とのコミュニケーションが生まれるのだと、かなり無理やりな理念を掲げてやっていくのだ。

今年は種まきの年だったのだ、さあ来年は芽が出るようにしっかり肥料を与えよう。そしていつかきれいな花を咲かせよう。
う~ん、、、、どうもぼくという人間は自分に都合のいいように事象を解釈してしまうなあ。


ゲーム社会

2005-12-28 | 社会・出来事
クリスマスは人並みに子供達にプレゼントをあげる。うちは3人いるから安くない出費だ。そのプレゼント、みんな小学校に上がったらついに3つともゲーム関連になってしまった。小6はゲームキューブのソフト、小3はニンテンドーDSのソフト、小1でさえSPのソフト。まあ、本体でなかったからひどい出費にはならなかったが、金額よりもゲーム漬けの子供達の将来に不安を感じる。

買った翌日はみんな1日中ゲームをやっていた。困ったもんだと思うけど、やってみると実際大人でも面白いんだよね、これが!

日本だけでなく先進各国で同じ傾向があるだろうけど、このままだとどうなっちゃうの社会?と、漠然と恐怖を覚える。


池波正太郎『将軍』

2005-12-27 | 読書
読書感想文ばかりになって、興味のない人には申し訳ない。

『将軍』というから徳川の誰かかと思いきや、主人公は乃木稀典、日露戦争旅順攻略戦の司令官である。
以前このコラムで『坂の上の雲』をシリーズ化して書いた。その中にも主役級の登場をしているが、司馬遼太郎と池波正太郎で捕らえ方が違う。

単純に言えば司馬はちょっとおつむの弱い司令官として描いているが、池波は確かに司令官として有能とはいえないがそれを補完して余りある人間的魅力に溢れた人物として慈しみをもって描いている。

どちらの人物評が上か下かというのはナンセンス、一流作家としてそれぞれ味のある捉えかたをしている。

例えば、乃木は日露戦において二人の息子を相次いで亡くしているが、司馬は割りとさらっと余談的に流すが、池波は二人目の亡くなった場面をじっくりと描きこんでいる。司令官としての立場と父親としての心情、相反する二つの立ち位置を明確にすることで、乃木という人間を表現する。

『坂の上の雲』は小説というより日清日露戦記という感じで『将軍』は池波らしく戦争という特殊な背景における人間にスポットを当てている。だから心の痛みみたいなものが伝わってくる。

これを読んで、乃木稀典にとても興味がわいた。というより好きになった。


村上春樹『東京奇談集』

2005-12-26 | 読書
外仕事でセメントを扱うと、ぼくの場合はひどい皸(あかぎれ)になる。指先が特にひどい。痛い。痛くてギター弾けない、細かい手先仕事もできない。病院にいくほど深刻ではないところがいやなとこで、まあ、そんなことはどうでもいいが。

村上春樹を読むことは、極めて個人的な言い方をすれば、ある種の癒しを求めての行為である。誤解を恐れずに言うならストーリーの展開にわくわくしたりはしない、結末にがっかりしたりもない。ただ文章=センテンスを楽しむのみ。そのセンテンスはもはや芸術の域ではないかと、ぼくは大げさに考えている。なにしろ読んでいて心地よいのだから。音楽で言えばモーツァルトの楽曲に近いかな。

なので、ぼくは何度も何度も村上作品を読み返す。読み返すに足る作品ばかりだ。

今回の『東京奇談集』、もちろんこれも期待を裏切ることはなかった。短編集であるが、本来村上は短編作家ではないのかなと思わせる。
良い作品に共通していることだが、これにしてもその感動を言葉で表現するのが困難である、ただただぼくの心の奥深いところにじっとりと入り込んで、あまりの深さに普段忘れてしまっているほどで、それが何かのきっかけでひょいと顔を出したりして。良い意味でたちが悪い。

内容については触れないでおこう。読んで欲しいから。でもこれだけ言っておく。「奇談」といってもホラーではないし、別段不思議でもなんでもないので、村上春樹に慣れてない人はがっかりしないで読んで欲しい。

クリスマスも年末も一切無視して自分の書きたいことだけ書くのもいいね。


ピアノ発表会

2005-12-25 | 音楽
現場が一段落したら体だけでなく頭も楽になって急に文筆意欲がわいてきた!よおし、このまま年内毎日書くぞ!

先日は娘達のピアノ発表会。深谷文化会館で聴いてきた。そこでいくつか感じたことがある。

まず、グランドピアノの生の音!!
これはすごい!当たり前だけどCDで聞くのとは違う、その違いを文章で著すのは難しいが、単に音が綺麗とかそんなんじゃない。

以前モーツァルトで植物の発育がよくなるとか病気を治すという話を聞いたが、まんざらでもないな、ありえなくもない。確かモーツァルトのメロディが脳へ働きかける効果として脳内分泌が促進され栄養バランスがよくなるとかそんな話だったが、眉唾物だと思っていたが、言える事は心地のよい音楽は理屈じゃない部分説明のできない心のどこかに働きかけるのを身をもって感じた。

モーツァルト曰く「ぼくはろくでもない人間だけどぼくの音楽はそうじゃない」。ふーむ、かっこいいね。
また、モーツァルトでなくても幼児の弾く単純なメロディでもグランドピアノだとぐっと心に差し込んでくる力があるように思われた。

ところで、ピアノ発表会の選曲。
オーディエンスがピアノ経験者ならともかく、ほとんどが素人なのだから、もっとCMなどでなじみのあるメジャーどころを選べばいいのに、と思ってしまう。まあ結構そういう傾向にあるのかな、アニメのテーマソングとかもあったし。
ショパンの『幻想即効曲』やチャイコフスキー『くるみ割り人形』、ドビュッシー『アラベスク』など有名どころもあったからまあいいかな、欲を言えばモーツァルトとバッハを入れて欲しかったね。

一応クラシックコンサートなのだからこの2人を抜かしちゃいかんだろ。


池波正太郎『真田騒動』

2005-12-24 | 読書
なんと1年の早いことよ・・・もう終わりかい!今年はコラムもいまいちだったなあ、読書量が減ったことも一因ではあるな。

先月見てきた松代の池波正太郎記念館でインスパイアされて読みました。ぼくの中では池波といえば鬼平であり剣客商売であるが一番好きなのは仕掛人・梅安シリーズで、その昔トライした『真田太平記』は1巻の途中で飽きてしまった。

今回の『真田騒動』は真田信幸の時代から3代後の江戸中期の平安の世。堕落した真田松代藩での勝手掛・恩田木工の活躍を描く。
しかし、司馬遼の描く物語世界とはだいぶ違う。司馬遼太郎だとある意味カリスマ性を喚起させる人物像に作り上げておいてゴリ押ししていくが、池波だとどちらかというと生活観溢れる等身大の人物としてゆったりと描く。

まあ今回のは短編だから足早に進行してしまうが、短い中にも情感が溢れ人間味に満ちている。危機的状況の藩の勝手掛を受けるときの恩田木工の腹をくくる姿がかっこいい!

また、江戸中期にしてもう武士よりも町人農民に世の中の流れがシフトしつつある世相、無用の長物と化したサムライの哀愁を感じることができる。もちろん道徳的模範として武士の価値はなくならないのだけど、太平の世において拝金主義が横行していて道徳心も軽るんじられるばかり。ちょうど現代の世相と一致しているかもしれない。


火ってなに?

2005-12-18 | 科学
小6のせがれに質問された。
「火って何?」

火は火だろってのは答えになってない。この問いの主旨は「火とはいかなる物質か」ということだから。
たぶん物質じゃないだろう、光と同じようなもんだろう、と推測できるが・・・では光のようなものって何?

こうなってくるともうだめだ。物理学の知識が要る。
確か光というのは光量子という粒子の集まりだったと記憶しているが、そうだとすると一応物質じゃあないのか?けれど「光は物質ではなく現象だ」とどこかで読んだ気もするし。う~む、どなたか明確に解説いただきたい!

まあ、これだけ文明が進歩していても、ふと見回せば我々の周りには不思議が満ち溢れており、現代科学でわからないことはわかることの数倍存在すると・・・こんな答えに落ち着いたのだった。論理のすり替え作戦成功(^^)v


岬塾レポート

2005-12-13 | 歴史
う~ん、珍しく今年の年末は忙しい!なかなかPC触れない。
先週の土曜日は深谷岬塾、今回も岬龍一郎先生を深谷にお招きして「先哲より和魂を学ぶ」講義を拝聴してきた。

基本的に先生の著書『日本人の名著』に出ている23人を毎回一人一人掘り下げる。今回のテーマは「宮本武蔵 五輪書」。

宮本武蔵といえば最近では漫画の『バカボンド』が有名かな、なんにせよ他のマンガや小説も根底にあるのは吉川栄治の『宮本武蔵』でしょう。
けれど、勘違いしてはならないのは、『宮本武蔵』は史実を基にしたフィクションであること、実際にはおつうさんもいなかったし沢庵和尚は実在したが武蔵とは遭った事がない。

そして、何年か前のこのコラムで書いたが司馬遼太郎『真説宮本武蔵』によると、武蔵という男がいかに出世欲やプライドの権化であるかがわかる。仙人でも神でもない、所詮人間なのだ。

が、しかし、その著書『五輪書』は武蔵の60回をかぞえる実践的果し合いから得た生々しい兵法書であり、そこには常人ではたどりつけないある種の境地をうかがうことができる、これはフィクションではない。

『五輪書』には太刀の持ち方・構え方から修練上の心の有様まで事細かに記されているそうだが、岬先生は徹底して剣の道に殉じた生き方を学ぶところはあるものの哀しい人生だと講じる。佐々木小次郎を倒し名実共に日本一の剣士となった武蔵、しかしどこからも指南役に迎えたいという声はなく、例外的にあったオファーもギャラ問題の不一致でチャラ。
武蔵は実際強かったが武蔵の剣は誰でも学べるものではない、人並みはずれた豪腕と人間性を排除した動物的行動原理を持たないといけない。実際武蔵の二天一流という剣の流派は誰にも引き継がれることはなかった。

武士道の「仁・義・礼・智・信」は出てこない。精神性や思想性を求めない武蔵は、結局ただ剣の強い男として存在したに過ぎない。それでも『五輪書』を著しそのほかにも幾つかの画を描いていたおかげで後世に名を残し、さらにそれにインスパイアされた吉川栄治によってスーパーヒーローとして変身させられたわけだ。

決闘をやめ養子の宮本伊織の居候として生計を立てていた後年、「剣のためにだけ生きてきた己の生涯」を疑問に思うような文書が残っているそうだ。 ちょっと寂しすぎる。

それでも、その宮本武蔵が取り上げられたのは『五輪書』のなかにはまぎれもなくのちの武士道へとつながる礎のようなものがあるからに他ならない。「神仏は尊べ 神仏に頼るな」という教えがあるが、 己を律するという武士道精神の原型であろう。


箱根八里

2005-12-03 | 音楽
小学校の近くで仕事をしていたときのこと。
下校中の小学生が数人で大きな声で誇らしげに唱歌を歌っている、何とはなしに聞いていたらよく知ってる歌だ。それが『箱根八里』。
その瞬間今まで封印されていた記憶がドバッと一気に広がった!

それは、ぼくも小学生のとき同じような状況で歌いながら下校した記憶。当時のぼくがその歌をこの上なく気に入っていたこと、何人かの友達も同じくお気に入りで、確か家に着くまで何度も繰り返し繰り返し歌った。

閉ざされていた記憶の扉が突然開くのはこの歳になって時々起こるようになったが、なんというか脳内にドーパミンが流れ出す感じというか、まったく解けなかったパズルが何かの拍子に突然解けたような劇的な瞬間である。

上記のような脳内現象としての感動もある。が、そのとき感じたのは『箱根八里』という唱歌の持つ圧倒的魅力への感動。滝廉太郎の作詞であることは有名だが、マーチのような歯切れの良い歌詞による躍動感は明治のヒップホップといっても過言ではない。さらに日本語の持つ奥深い意味合いと千差万別の表現方法が奥行きのある箱根ワールドを1曲の歌の中に凝縮させ得ている。ちょっとおおげさ?

しかし、ぼくが歌ったのはおよそ30年前!30年後の世界でまさかこどもが同じように歌っているとは!しばらく仕事をする手を休めたじろいでいた。たまげたなあ。

うん・・・歳を取るのも悪くない。