石匠風間ブログ!

読書、音楽、雑学

自衛隊へ行ってきた5

2006-11-29 | 歴史
先日、熊谷基地モニターとして市ヶ谷の防衛庁の見学をしてきた。参加者は老人が多く、内容もぱっとしなかったが、そのなかで「市ヶ谷記念館」ここを見れたことはラッキーだった。

市ヶ谷記念館は極東軍事裁判いわゆる東京裁判が行われた場所であり三島由紀夫が割腹自殺を遂げた「三島事件」の現場でもある。
総監を人質に立てこもった部屋には今も刀の傷が残っている。

ところで「三島事件」・・・よく考えてみるとほとんど知らない。作家の三島由紀夫が割腹したという壮絶な結果ばかりがクローズアップされて、その詳細というのは意外と知られてないのかも。三島が軍服みたいなの着て演説している映像は良く見るのでなんらかの思想的犯行なのは察しがつくが、、、いったいなんなんだ?

ウィキペディアで調べてみた。

午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰」であった。益田総監と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田兼利総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、追い出した。その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた者もいた。

三島自身が自衛官と報道陣に向けて30分間演説することを要求してそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をしたが、自衛官達からは昼食の時間なのに食事ができないと言う不満や総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さへの反撥が強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」「なに考えてんだバカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げる。そして森田必勝らと共に『天皇陛下万歳』を三唱したのち三島は総監室で割腹自殺した。自衛隊員たちに撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。

と、これが大まかな全容だが、しかしよくわからない。切腹は最初から想定していたのだろうか?自衛隊決起を促すならもっと違う方法があったろうに、作家なのだからメディアを使うほうが効率も良いだろうし。

このほかに自殺の原因として「老いに対する恐怖」と「英雄的な死へのマゾヒスティックな憧憬」が挙げられている。また「切腹という行為そのものに対する官能的なフェティシズム」も一因であると書かれている。こういう風にまとめると、単なるおかしな人のおかしな事件として片付けられてしまいそうだが、本当のところどうなんだろう?なんかもっと奥深いものがあるのかな。詳しい人、教えてちょ!


PC対人間

2006-11-19 | 将棋
先日日本将棋連盟より新棋戦について発表された。
(棋戦=将棋のタイトルマッチ:現在7つの棋戦があり羽生が3つ持っているので3冠と呼ばれてる)
トッププロが自宅でPCを使って行うという今までにない棋戦で、ネット時代の新たな普及戦略であろう。

そのなかでエキジビジョンとして前回書いた魔太郎こと渡辺竜王と将棋ソフト最強の「ボナンザ」の公開対局も発表された。
渡辺曰く「やりにくいものの負けるとは思わない」。その意気や良し。

すでに今年の将棋ソフト最強を決める選手権で優勝したボナンザと元アマ名人加藤氏との公開対局が行われており、加藤氏が勝利している。アマの名人といえばプロの2段あたりといわれており、まだまだコンピュータに追いつかれる心配はなさそうだ。

が、しかし、渡辺自身が自らのブログの中で「ボナンザは凄い、10局中1局くらい負けるかも」と告白しているように、決して手の抜ける相手ではない。そりゃそうだ、なにしろミスをしないのだから。

将棋は基本的にミスをいかに少なくするかのゲームだ(とぼくは思う)。天文学的な可能性の中で様々な選択肢を考慮しているとたとえ羽生でも森内名人でもポカが出る。特に終盤、持ち時間が少なくなると焦りが出てプロでもたくさんミスが出る。けど、そのポカが巡り巡って勝ちの決め手になったりすることもあり、そこら辺が将棋の魅力でもある。

コンピュータは数学によって成り立っているのでこれがない、ならば人間より強そうなものだが、大局観を持っていないことがまだ致命的なのだろう。駒の損得が第一だったりする。つまりここで飛車を渡しても終盤でこういう局面に持ち込めるからよし、みたいな先のその先を考慮しない(のだと思う)。ただ莫大な量の定跡(こう指したらこう指すみたいな将棋の定理)をインプットされてありえないくらいのスピードで状況を計算するのだから、元来弱いはずもない。ボナンザはフリーソフトなのでぼくも持っているが・・・「待った」しまくっても相手にならない  _| ̄|○

ここまで書けばわかると思うが、どんな強い人が戦っても相手がPCである以上は最後の最後で大逆転!みたいな展開が十分考えられるわけだ。
だから現竜王がこの対局を了承するのは相当の勇気が要ると思う。なにせ勝って当たり前、負けたら己の恥のみでなく将棋界そのものの根幹を揺るがしかねないのだ。将棋界のヒールといわれるだけあってその太々しさが幸いした(あるいは災いか)。

あ、ちなみにこの対局が行われる来年3月に渡辺が竜王位を保持しているかどうかはまだわからんが(前回を参照)、失冠してても9段ではあるから遜色ない。

羽生も「将棋ソフトはここ10年で名人と対等になるだろう」って言ってたけど、なんだかなあ~。どの分野でもPCが人間を追い越すのだとすると、これはつまらない世界だなあ。文化もへったくれもないじゃないか。


魔太郎に感動

2006-11-16 | 将棋
昨日はサッカーアジアカップのサウジアラビア戦に注目が集まったようだ。そんな中ぼくは将棋の竜王戦に夢中だった。
竜王戦というのは読売新聞が主催するプロ将棋7大タイトルのひとつで、賞金でいえば名人戦より上、現在は22歳の渡辺明が2期タイトルを保持している。一試合が二日がかりで行われる一大イベント。

この渡辺明というのが藤子不二雄の漫画『魔太郎が来る!』に似てるというので魔太郎とあだ名されている。
20歳で竜王位につくというのはすごいことで、ポスト羽生の呼び声も高い。また、口のほうも歯に衣着せぬ物言いとビッグマウスで生意気この上ない。そんな彼のブログがおもしろくて、それと常人離れした老け顔にすっかりファンになってしまった。

さて、第19期になる今年の竜王戦が現在進行中、7番勝負の3戦目が一昨日・昨日行われたのだが、挑戦者は佐藤康光棋聖。佐藤は37歳だから羽生善治のひとつ上。これが今年やけに強い!羽生には負けているもののそのほかには抜群の勝率を誇っている。
その佐藤が2戦2勝でむかえた3戦目。またしても力強い差し回しで序盤からリードを広げていく。

ま、正直言うとぼくなんかだと何が良い手で何が悪手だかイマイチなのだが、そんなぼくが見ても「こりゃあもう勝てんだろ」と判断するに難くない圧倒的な進行だった。ちなみに、竜王戦はじめプロ将棋の重要な対局はネット上でリアルタイムで見ることができるご時勢だ(名人戦は有料だけど)。

終盤は先手の佐藤棋聖が王手王手と一方的に攻撃、後手玉は逃げ回る展開、こりゃだめだ、3敗じゃ竜王失冠も決まりかなと絶望的になった。それがちょっと夕食&風呂入るんで目を放していた隙に、世紀の大逆転!思わず「うおおぉぉぉっ!」って雄たけびを上げてしまった。だって、ありえね~決着だもん。
ちょうどのタイミングでテレビでニュース速報が入ったので魔太郎逆転を伝えてくれるのかと思った(津波警報だった)。これぞエンターテイメント!こんな面白いものを何でみんな見ないのか不思議だ。ドラマチックってこういうことだろという見本だと思った。

今回の教訓は、絶望的な状況にも安易に投げ出さないことで好転する場合があるってことかな。あと、どんなに面白いフィクションでもかなわないくらい凄いノンフィクションがあるんだなあって。これで1勝2敗、次は今月29・30日。期待してしまう。
しかし、、、すっかりやるよりも見るほうが好きになってしまった、トッププロの棋戦を見てるのにぜんぜん強くなれないセンス0のぼく(TT)。


深谷アマチュアバンドコンテスト

2006-11-13 | 音楽
関係各位の多大なるお力添えをもって無事コンテストは終了しました。
カザマロックスは最後の演奏なので待ち時間が長くて、待ちくたびれた。そんで、その間に見たほかのバンドの技術の高さに戦意喪失してしまった。

アマチュアではないバンドもいくつかあって、これはしっかりやりこんでるなと思わせる鉄板なプレイも見られたが、素人のおじさんの中に驚くほどうまいギタリストがいた。

まあ、争うものではないのでどうでもよいのだが、己の未熟さがいやになったなあ。まあ、それと関係なく本番は緊張して間違えまくったけど。だけど、ギターのトーン(音色)は弾いてて気持ちいいくらいによく鳴っていたと思う。ひずませすぎず、音の芯を保ったままドライブさせられたと。PAさんの音のバランスがうまかったからかもしれない。

それと、照明。すごくきれいだった。

ちなみにコンテストの結果は最高齢のバンド「アンクル」さんがグランプリを獲得、CDの全国発売を控えた「NO NAME BAND」さんがオーディエンス賞準グランプリで幕を閉じた。ゲスト審査員のプロミュージシャン「ビリケン」はフォークの名曲をラップ音楽に加工してリメイク発売している二人組、まあ、、、いっか。

なんにせよ自分の幸福な環境を噛締める事のできた1日でした。CIMG2118.jpg



コバトン

2006-11-10 | 雑記
koba001

今日、稲荷町の東源寺で現場仕事をしていたら、なにやらでかい物がうごめいていた。
何かと思ったら、コバトン!
確かさいたま国体のマスコットだったような。国体終了後もいろいろなところで目にする。

お寺で何しているのかというと、東源寺内にある稲荷町保育園で幼児をかまうお仕事だったようで、左の写真は司会のお兄さんが幼児を仕切ってるあいだ出待ちをしている姿。5分くらいはこのまま待たされていた。

幼児たちの掛け声を合図に登場するも大して歓声は上がっていなかったのが妙に物悲しかった。
しかし、このうしろすがたはある意味笑えたけど、その実哀愁が漂っていた。

ネットで調べてみたら

「コバトンは埼玉県民の鳥として指定されている「シラコバト」をモチーフに、彩の国まごころ国体のマスコットとして誕生。人から人へ、大会から大会へと、みんなの熱意とまごころをつなぐ、バトンのような存在として愛されたコバトン。
大会終了後、新たな活躍の場として、平成17年1月4日に、上田清司埼玉県知事から辞令を交付され、正式に「埼玉県のマスコット」となりました。」



お!いつのまに国体のみならず埼玉県のマスコットの座を射止めていたとは、えらい出世だね。


熊とうまく共生できないのか

2006-11-06 | 社会・出来事
NHKでやっていたがここ数年熊などの野生動物が人里に出現して人と衝突する事件が頻発している。熊の捕獲数は年々増えており、このままだと日本の熊の絶滅は時間の問題だという。

野生動物の住環境が著しく破壊されている現在、えさを求めて人里へ出没する熊をどうしたら避けられるか?何かうまい方法ないのか?実は昔の日本の村落には熊の出没を避けるシステムがあったという。それが里山(サトヤマ)

野生動物のエリアを奥山という。そして人間の住むエリアが人里。この二つのエリアのあいだには必ず「里山」という中間エリアを設けてあった。現代でも里山エリアを持つ村もあるがほとんど荒れ果てて野生動物を押しとどめる効果を持っていないという。山ではあるが人の手が入っているというところをちゃんとしないと意味がないそうで。里山にヤギや羊など家畜を放牧することもとても有効で、考えてみれば昔ながらの村落の風景である。

現代特有の問題として莫大な生ごみの放置ということもある。においに敏感な熊が山から下りてくるのはこれの匂いによるところが大きい。ごみ処理をきっちりやることで接近遭遇を減らす効果も認められているそうだ。

と、ここまで番組を見ていて思った。もしかしてそんなにたいした労力なしでも熊と共生できるんじゃないのか?でもたいして得しないのでやらないだけなのかもしれない。そういうことって、もしかしたらものすごくたくさんあるんじゃないかなって。野生関係だけでなく経済システムとか外交問題とか様々なところで損得計算オンリーならそうなのだろうね。


とりあえず自殺はやめてほしいな

2006-11-03 | 教育
ここ最近、教育現場での悲しい事件が続いている。子供たちは自殺をやめない、教員も自殺したし校長も自殺した。もう、自殺祭りだ。

いじめが原因の事件が多発しているが、それ以外にも履修不足の問題が大きな社会問題となっているし、パワーハラスメントという言葉は知らなかったが、上司による権限を利用した一種のいじめによって教員が自殺したことによってクローズアップされた。

ここへ来て社会のひずみが一気に爆発したような感じか。社会のひずみがわかりやすい形で発現されるのが教育現場であるのかもしれない。
けれど、ひずみというものはあって当然な気もする、そう、いじめなど昔からあった。きっと太古の時代からあったろう。だから無くすことはできないのだろう、なくならないのならうまく裁いていかなくてはならない。

いじめが起こって自殺などで注目を浴びメディアに露出する、するとなぜか校長が「自殺の原因はいじめとは無関係」みたいな発言をする。そんで「んなわけねーだろ!?」ってんでマスコミに叩かれる。これを繰り返しているのはどういうわけなのか?いじめが存在したことを認めて、担任の監督責任が問われることを恐れて?それを誤魔化すほうがよっぽど叩かれることはもはや明白なのに、相変わらず誤魔化す意味がわからない。

だいたいいじめがあったとして、それを教師や学校のせいだけにするなんておかしい。っつーか、ものすごく単純な物言いをすれば悪いのはいじめた奴なわけだし。そしてそれは実際にはそんなに単純なことでなく、どこから何を持っていじめとするかという基本命題からしてとても難しい。いじめようという明確な意思がある場合もあるだろうが、仲良くしたいという裏返しだってあるだろう。誤解が誤解を呼んでみたいなパターンもありうるだろう。

昔からいじめはあるが、昔と違うのは形に表れにくく陰湿になっていること、いじめる側がいじめられる側になったりその逆も頻繁に起こるという複雑性。
こんな事態では教師も困惑するだろう。

もちろんぼくに解決策なぞ考えも及ばないわけだが、こう思う。「国政的に教育という分野にもうちょっと力を注ぐべきだろう」と。