石匠風間ブログ!

読書、音楽、雑学

池波正太郎『清水一学』

2006-03-31 | 読書
またしても池波正太郎の短編でお茶を濁そう。
清水一学(いちがく)は忠臣蔵に登場する、吉良上野介の家来。つまり、浅野側でなく吉良側から見た忠臣蔵の物語。

何の気なしに読んだが、ちょっと考えさせられた。いやちょっとじゃないか。
以前岬先生も忠臣蔵を「今で言ったらテロだぜありゃ」とおっしゃっていた。確かにそうだ。幾多ある物語のおかげで赤穂浪士はヒーローだが、ちょっと待てよといいたくなった。

現在の忠臣蔵観は元はといえば近松門左衛門の『仮名手本忠臣蔵』というベストセラーによって生み出されたと言えよう。当主の敵を臥薪嘗胆の上見事討ち果たす。で、最後は切腹。日本人の心をググッと掴むに足る物語。

しかし、よくよく考えるとことの発端となった浅野内匠頭の刃傷沙汰、原因には諸説あるようだが、現代の切れやすい子供と似ている気がする。いい大人が、しかも要職にある人間のする行為じゃないだろ。小刀で切り付けたことなどから計画性は薄い犯行で、逆上の末のものであるらしいが、襲い掛かったのが背後から、そして居合わせた別の人に簡単に取り押さえられるなど、かなりぶざまな殿様だ。

刃傷沙汰に及んだ原因を数ある物語では賄賂を贈らなかったため吉良が浅野を何かにつけ辱めたとかバカにしたとか、そんなことで暴力振るうかな?でもって、この事件についての判断が浅野家の取り潰し、内匠頭の切腹。一方の吉良はお咎めなしというわけで、庶民のあいだで吉良家は相当に嫌われたそうだ。

敵役として不動の地位を得た吉良上野介は、その治める領地の民にとっては名君と謳われていたそうで、まあ、とんだ目にあってしまったものだ。冷静に考えれば浅野=正義、吉良=悪という安易な図式はありえないのだが、当時の世論として赤穂側はヒーローになった。閉塞観に苦しむ庶民にとって、反権威こそが真理であったのか。

興味を持ってネットを調べたら、今更出て来た疑問じゃなくて近松の時代からもう忠臣蔵を非難する意見はあったらしく、その手の書物もたくさん出ているそうだ。そんなこととは露知らず、驚きは80へーくらい(byトリビアの泉)あげたい気分だ。


イチローの変貌と右傾化

2006-03-26 | 雑記
周知のとおりワールドベースボールクラシック=WBCにおいて、日本が世界一の栄冠を手に入れた。多くの人にとって予想外の結果だったと思う。5日経ってもテレビ報道ではそのことばかり特集している。無理もない、視聴率43.4%というのはしばらく使いまわしの利くという『商品』だから。

なかでもイチロー。
今大会はスーパースターイチローの一挙手一投足にみなが注目した。「クール」という印象の強いイチローが熱い気持ちを飾り気なしに吐露していたからだ。しかも、熱いだけでなく敵チームを挑発するかのような不遜発言も多かった。

イチローといえば個人主義の象徴みたいに思っていた。野球という競技の特性上、チームワークより個人プレイの見せ場が多いわけで、まあ仕方ないかなと思っていた。逆にそういうイチローだからこそ彼の愛国心溢れる発言に日本中が沸いた。
メジャーリーグで前人未到の記録を作り確固たる地位を築いて心境の変化があったのか?それとも、もともとそういうキャラなのか?

いずれにしても、である。
そんなイチローや王ジャパンに世の中がググゥッと押し上げられているのを見ていて感じたのは、現在のトレンドとしての右傾化。
最近他国との軋轢を経て、国家として鬱憤を溜め込んでいるんじゃないかな、と。今回のWBCはその鬱憤のはけ口となった。

でも、戦後60年、思いっきり左に振れていた日本が急激に右へ偏るのは摂理なのかもしれない。振り子と同じだ。日本の今後の動向は諸外国で気にしてるのかもね。

今日も(26日)テレビ各局はWBCの話題で盛り上がっている。そんななか、NHK教育の将棋を見ているぼく。


身分制度

2006-03-20 | 社会・出来事
人類は民主主義のもと、おしなべて平等を旨としあらゆる人に権利と義務を与え、四民平等、人権を重んじ不公平のない社会を創設した。
先進諸国において身分制度はほとんどなくなった。学校でそれを習ったとき現代に生まれてよかったなあと単純に安直に考えていた。

いま、果たしてそうか?と、疑問を持つようになった。いや、人権という思想に異論はない。ただ、イコール幸福な社会と安易に受け止めてよいのか?

もっと突っ込んで言えば、封建社会の農民はそんなに不幸であったのか?行く道で武士に出会えば平身低頭であったろう。なにかのときは切り捨て御免が法的に認められていた。高い年貢を納めるために日夜労働に勤しみ、完全な世襲制は成り上がることをめったに許さなかった。

それでも、百姓がいなけりゃ国は成り立たないという厳然たる事実を当然武士は認めていたろうし、威張りながらも気を使っていたのではないかな。
実際江戸時代には百姓一揆を恐れる大名の逸話が多い。たとえ専制君主であっても国民の8割を占める農民に嫌われたらやっていけないのだろう。
切り捨て御免なんて無謀なことは、しょっちゅう起こっていたら社会が成り立たない。現代の交通事故死よりずっと少ない確立だろうし。

世襲制度の上に成り立つ武士階級には「上に立つものの責務」を感じていたに違いない。だからこそ士道が重んじられ高い知識と道徳をたしなむことを基本とし、それらを身に着けた武士に対し平民は敬意を表する。尊い人が上に立てば世の中はまとまりやすくなる。これぞ社会秩序だ。

現代社会で秩序が崩壊している。今でも残る家長制度は最後の身分制度かもしれないが、子供が簡単に親を殺す時代だ。
何が言いたいかというと、思いっきりシンプルに言うと、人間は平等を手に入れたせいで秩序を失ったのではないかということ。

こんなことを書いたのは最近池波正太郎の短編で、室町時代に将軍足利義昭が政治よりも文化に入れ込み、造園士(こういう職業は大概えたの階級から生まれた)や画家などに庇護を与えて東山文化を創っていったというのを読んだから。武士がそういう階級の者と口をきくこと自体がタブーの時代に将軍が庭師と仲良くしていたという、まあ、フィクションかもしれないがありえなくもない。古今東西の文化はそうやって出来上がってきた。

それはともかく、誰かが誰かを支配するという構造、それ自体は社会学的にきわめて自然なことなのじゃないかな。支配されることはある意味自由を制限されることであるが、ある部分では支配する側に頼ることができる。逆に支配する側は制限の少ない自由を手に入れているがいざというとき例えば戦争になったら率先して命を投げ出さなくてはならない。ここに相互依存の関係性が生まれ、すなわち秩序となる。

そんなことを馬鹿な頭で考えていると、危険な方向へとよりいっそう流れていきそうで、多少怖い。


向井亜紀

2006-03-16 | 雑記
先般、タレントの向井亜紀の講演に出席した。なにも向井亜紀の講演が聞きたくて出向いたわけでなく、義理で行ったらたまたまそれだったのだけど。

テーマは家庭の教育がどうとか・・という教育問題がらみなので、しょっぱなから疑問符が浮かんだ。なんで教育で向井亜紀?
とはいえ、主催は(社)さいたま中央青年会議所という大きくて力のある団体なので、きっと意表をつくようなすばらしい内容を用意してくれてるのだろう、なんて薄く期待して聴いた。

結果、がっかり。
向井亜紀といえばプロレスの高田延彦を夫に持ち、代理母出産で巷をにぎやかせたことは記憶に新しいが、その子供、わずか2歳半。で?なんでこういうテーマの講師を受けたの?と、向井亜紀にまず言いたいし、何でこの人を講師に選んだの?と、さいたま中央に問いただしたい。

まあ本音を言えばぼくはテーマからずれても面白ければOKなのだが、ぶっちゃけ、何の深みもないじゃないか!
若くしてがんにかかり苦労したというそれを柱にして話を進めるも、話がふくらまない。細切れのエピソードをチョコチョコ出して、たまにオーディエンスをいじって、しまいにゃ「教育を語るにはまず己の健康です」って、それはさあ、まちがってないけどさあ・・あまりにかけ離れた講演内容だし、ちょっと無計画過ぎないかい?

向井亜紀という人はラジオのパーソナリティとして売れっ子になったそうで、透き通るような語り口調は聞いていて心地よくはある。
きっと講演もこの人にとってはDJ感覚なのだろう。起承転結なんぞ考えず、一瞬一瞬のひらめきで語り続ける。内容よりもテンポ・リズム重視。

そんな彼女を代理母出産という社会的出来事が引っ張り出して、加えて高田延彦の妻という特異な環境も手伝って講演の依頼が舞い込むようになってしまったのか。はあ~、さいたま新都心まで出向いてあんなもの聴かされて・・・

彼女のためにも誰かはっきり言ってあげるべきだろう。君の講演はとてもお金を取れる代物じゃない、と。


映画『血と骨』

2006-03-15 | テレビ・映画・芸能
見終わった後、気分の悪くなる映画がある。それがまさしくこれで、もう2度と見ない!と心に誓ったくらいだ。いや作品としての評価が低いのじゃない、むしろ高いのかな。こんなに心を動かす作品というのはそれなりのパワーを持っている。

主演はビートたけし。周知のことだろうけどうまい役者じゃない。けど、あの雰囲気!暴力系の役がすんなりとはまるあのにじみ出るような味わいは十分な価値がある。ストーリーは戦中戦後の混乱期における朝鮮人集落を舞台に、エゴイストで理不尽の塊な男の生き様描く。とことん暗い。

激しい嫌悪感が残ったのだが、いや、それゆえ、数日経ってもイメージが頭を離れない。

あんなふうに反道徳的に他人に嫌われて人生を全うしても、ささやかでも確かな幸せをかみしめて生きても、死んでしまえば同じなのだなあ、なんて、いささか諦観に似た気持ちに支配された。やだやだ、次はめちゃめちゃハッピーでポジティブな映画見ようっと!


結局体力なのかな

2006-03-12 | 将棋
将棋の羽生善治4冠が、先週の「棋王」戦に破れタイトルを失い3冠となった。相手は森内名人。まだ「王位」「王座」「王将」のタイトル保持者ではある。今日のNHK杯準決勝も負けたところを見ると調子を落としているようだ。

これで森内プロが名人位と棋王位の2冠となったわけだが、複数タイトルを持つプロがあまりいないのはきっと普通はひとつのタイトルを守ることを第一とし、余力で他のタイトル戦を戦ってるんじゃないのか。

息つく暇もなく来週は王将戦の最終戦!今の時期はタイトル戦の最終が重なる季節で、タイトルホルダーにとってはとても疲れるのだろう。
ご存知のように羽生善治は全盛期7冠であったわけだが、これはすごいことだ。
「すごいのは棋力(将棋の強さ)ではない、体力だ」と、他のプロが言っていた。将棋1局には相当の集中力を要する。集中力を維持するのにはべらぼうな体力が必要とされるらしい。もはや人間ではない、と、そんなふうな表現も耳にした。

いずれにしても7つのタイトルを保持する体力というのは同じプロでも想像を絶するものなんだそうだ。
ほ~~!あんなおぼっちゃまみたいな風体で、絶倫クンなんだね。

どんな頭脳労働でも、最後に物を言うのは体力なのかもしれないなあ、と感じました。


新市章、いいのかな

2006-03-08 | 雑記
先日合併に伴い深谷市の新しいマーク=市章が発表された。賞金つきの一般公募で決まったもので、とてもかっこよいのだが。

左が新深谷市の市章、右は岐阜県野洲市の市章!!ずいぶん似ているなあ、っていうか、これ完全にパクリじゃないの!!
実は某掲示板で話題になっていた為この絵も取得できたのだが、市のシンボル盗用というのは物議をかもすかもね。
こないだの日曜日合併式典で大々的に発表されたばかり・・・いいのかなあ?syou.jpg



フジ子・ヘミング

2006-03-04 | 音楽
ぼくは、ピアノ曲は大好きだが、このピアニスト!みたいな弾き手の嗜好はあまりなかった。というか、よくわかんないし。

今回テレビドキュメント『奇跡のピアニスト フジ子・ヘミング』を見て、しばらくは『ラ・カンパネラ』が耳から離れなかった。その力強く繊細なパッセージには、うまく説明できないけどぎゅうっと惹きつける何かがある。

見た目はただの派手なおばさんで、指なんて鍵盤2本押さえそうに太い。華麗とは程遠いルックスなのだが、すごく惹かれてしまった。
もしかしたら、番組として様々な生い立ち苦労話を紹介している中で、シンパシーを捻出しそれに絡みとられてしまったかな。だとしてもそれはそれでいいや、別段迷惑ではない。

番組のクライマックスではプラハでのライブを見せる。これがチャイコフスキーのピアノ協奏曲で、今まで聴いたそれとは違って聴こえた。有名な曲だから聴いたことはあったがそんなに好きではなかった。それがすごく魅力的に聴こえるのだから不思議だ。

なにがそうさせるのか?さっき言ったように番組の狙いにうまく落ち込んだだけなのか?よくわからない。

もしかしたら、と思ったのは独特の間とでもいうのかな、彼女は弾くときにすごく微細に感覚をずらすように感じた。それが日本の演歌的なこぶし使いと同様の効果を生み出してるとか。
どっちにしても、そんな超マニアックなこと、いいか。