石匠風間ブログ!

読書、音楽、雑学

籠原止まり

2015-05-29 | 雑記
先日、大学時代の仲間と旧交を温めに新宿まで行きました。
金曜の夜ということもあって尋常じゃない人の多さ、駅構内は仕方ないとして、外に出てもうんざりするくらい人が歩いてる。

そんな中をみんな器用にスマホ見ながらスイスイと歩いてるしw
すっかり田舎もんのぼくは度々ぶつかりそうになりながら、もう店に付く前に疲れちゃいました。

深谷からだと遠いし混んでるし、まあそれでも年に1回位はと参加してます。

実際この集いがむちゃくちゃおもろくてw30年来の付き合いが育んだアホ話の数々を会うたびに繰り返してるわけですが、ホントに面白いことって意外とそんな積み重ねの中でじっくりと熟成されてたりするのかも。

しかし、行くのも2時間前に出発、帰りも皆より先に中座するってちょっと不公平感が拭えないのですが、田舎暮らしを選択したことに付き物の ってことでしょう。

でもね。
酔って気持ちよく帰宅の途についてるのに「籠原止まり」にあたってしまった時の怒りw
(*籠原は深谷の手前の駅です。電車の操車場が籠原にあるのでここ止まりの電車が走っててここで一度降りて20分位を待たねばなりません、たったひと駅ぶんを!)

いや、それも田舎暮らしの・・・って納得できるかいw


『プランクダイブ』グレッグ・イーガン

2015-05-26 | 読書

内容(「BOOK」データベースより)
地球から遙か遠宇宙のブラックホール“チャンドラセカール”では、ある驚異的なプロジェクトが遂行されようとしていた。果たして人類は時空の構造を知り得るのか?―ローカス賞受賞の表題作、別の数学体系をもつ並行世界との最終戦争を描く「暗黒整数」、ファースト・コンタクトSFの最高峰「ワンの絨毬」ほか、本邦初訳作品を含む全7篇を収録。現代SF界最高の作家の最先端作品を精選した日本オリジナル短篇集第4弾


うーん、難しい。。。難しいのに面白いってどういうことだろうw

グレッグ・イーガンといえばハードSFの巨匠、これでもかってくらいに量子物理の様々な用語・法則が出てきて、十全に理解できる人のほうが少ないんでは?

じゃ何が惹きつけるのかと言ったら、やはりその物理など最先端の科学のような部分にちょっと触れられることでしょう。ここ数年読みかじってきた物理用語が出てくるたびにワクワクが広がるのです。

7つの短編で頻繁に描かれている未来図では、人間の意識はもはや体に縛られた存在でなく、コンピュータの中に複製されて、あるいはデータとして遥か92光年先の天体へ伝送されたり。

クローンも度々出てくる、表題作「プランクダイブ」ではクローンを作ってそれをブラックホールにダイブさせるって話で、クローンは帰還できない可能性が高くその体験を伝えることは出来ないという人身御供みたいな話。

クローンと言っても元々の人の意識を持ってるのでちゃんとした人間なのだけど、そこら辺の人権問題は問われない未来なのだなあ。

また、コンピュータに送られた<意識>は老いることがないので、ほぼ永遠の命ってことになるけど、そこら辺は特に掘り下げずに軽く流してた。

で、こういうのを読んでると「意識」ってなんなのだろう的な、考えても無駄なことが頭の中を占めるわけですよ。読後にこの本の内容がグルグルと周り始まって未だに回ってます。

しょっちゅう読む気にはならんけど、時にはこういった「理解できない」本を読むのもいいです。


相撲ロックバンド

2015-05-23 | テレビ・映画・芸能
開催されてる夏場所もぼくのなかでは密かに盛り上がってる大相撲w
初日に白鵬を破った逸ノ城や最近急上昇の照ノ富士やら佐田の海やら、注目点も多く興味は深まるばかり。

ムーヴバンド(相撲ロックバンド)

この動画、好きなんですよw
豊ノ島や臥牙丸が可愛くてwホントに楽器弾いてるのかわからんけど持ってる立ち姿が絵になる!

ハードロックってこうあるべきですよ、痩せっぽちがやるより全然迫力があるでしょ?デブこそハードロックにふさわしい。個人的に「これぞロック」と妙に納得してしまう。

単なるヘルス器具のCMなんですけど、月に一回くらい見たくなるw


『偉大なるしゅららぼん』万城目学

2015-05-19 | 読書

内容(「BOOK」データベースより)
高校入学を機に、琵琶湖畔の街・石走にある日出本家にやって来た日出涼介。本家の跡継ぎとしてお城の本丸御殿に住まう淡十郎の“ナチュラルボーン殿様”な言動にふりまわされる日々が始まった。実は、日出家は琵琶湖から特殊な力を授かった一族。日出家のライバルで、同様に特殊な「力」をもつ棗家の長男・棗広海と、涼介、淡十郎が同じクラスになった時、力で力を洗う戦いの幕が上がる…!



久しぶりの万城目学、映画にもなってたけどあまり期待はせずに読んでみたら予想外に面白かった。

昔よく読んだ純粋なファンタジー冒険活劇のようなもの、「力」の存在がストーリーの鍵となるなんて、中二病と言われそうだけどw面白いものは面白い。

森見登美彦にも共通するけど、なんというかとぼけたギャグセンスが光るな、所々で展開と関係なく噴き出してしまう。

まあ難を言えばキャラがイマイチ立ってないような。登場人物多すぎて雑然とした印象はあるか。結末もいささかやっつけ的な。

そういう意味では『鹿男あをによし』のほうが登場人物少なくてさっぱりしてて読みやすいのかも。

そんなこと言ってもコズミックフロントを見忘れるくらい読みふけったのだからやっぱお薦めと言えましょう。

このある種SF的物語をどのように映像化したのか気になる所だけど、安っぽいCGとかだったらがっかりするので見ないのでした。


お釈迦様のこと(仏教覚書き)

2015-05-15 | 歴史
ぼくは世に言う「活字中毒者」ということになるでしょう。何か読んでいれば心の平安が得られるわけで、時には至福をもたらしてくれるのだから。なんとも安上がりな“中毒”だこと。

暇になると読み終わってる本でも読みだしてしまう、もちろん面白かった本に限るけど。
今回は『逆説の日本史6巻』を読んでぼくの貧弱な「面白アンテナ」が反応したと、こういうわけでした。

仏教史をかいつまんで説明してくれてるのだけど、まずは原始仏教、無論始めたのはお釈迦さま=ゴータマシッダールタ。

この原始仏教は我々の慣れ親しんだ仏教徒はまるで違う!
宗教とは元来人々の救済を目的としそうなものですが釈迦はそんなことほぼ言ってないらしいです。
この我々から見て「宗教性の希薄さ」が逆に万人を惹きつけるメガ宗教へと成長していくのは、釈迦の意図したことでないのは明らかでしょう。

誤解されがちなのはいわゆる「釈迦如来」と釈迦は別物であること、現世に現れた仏様のある種の姿が人間・釈迦であるとし、本来のお如来様としての釈迦を「久遠実成の釈迦」として区別します。まことに都合のいい解釈w

で、元々は魂とか霊とかは仏教にはなかったので日本古来の怨霊もあり得ないのが原始仏教。人は六道(天界や地獄や修羅や畜生やら)をクルクルと輪廻する存在として在り、これを断ち切る(=解脱と言う)ことを目的としてるのだそうです。

この「解脱」が悟りの境地であるのですが「そこを目指せ」とは言ってるがどのようにということがあまり詳しくないのだと。なんか独り善がりな偏屈者だったのじゃないかな。

でもたくさんの弟子を従えてたわけだから魅力ある人物だったのは確かでしょう。

その後の万人を救う慣れ親しんだ仏教が日本で作られたわけです。原始仏教との違いから「大乗仏教」といいます。沢山の人を乗せて進む大型船みたいなイメージ。これこそ日本人による日本的な宗教だそうで、相変わらずうまいこと立ちまわる民族ですね。


現代文明は環境にやさしい

2015-05-12 | 社会・出来事
実は環境にも人間にも優しかった現代文明 -物は言いよう-2013.11.26

こういう社会通念と真逆な主張が面白い!というか読めばわかるけど、極めて科学的論理的主張です。

内容を抜粋しましょう。

◇現代農業は環境にやさしい

“農薬や肥料を大量に投入し、環境を汚染していると。これは間違っていません。しかし、完全に正しいかと言うと、決してそんなことはありません。”
“現代農業は面積当たりの収穫量が非常に多いため、必要な農地の面積が大幅に減ったということです。日本の環境では余った農地は多少管理すれば森林や湿地になり、自然環境が回復されます。”



◇農薬は農家にやさしい

“・日本の農家の平均年齢は65歳を超えており、高齢化が深刻である。
・除草剤のおかげで除草作業に要する時間が大幅に減少した。
・様々な雑草防除技術が考案されているが、効果・労力・価格の点で除草剤に及ばない。”



◇石油は環境にやさしい

“石油はある意味現代文明の象徴であり、諸悪の根源のような扱いを受けます。しかし、考えようによっては、現代の日本の環境が守られているのは石油のおかげだとも言えます。”
“化石燃料が普及するまでは、人類が利用できる燃料はほぼ木材(薪)だけでした。そのため、古代の文明が栄えた地域は、ほぼ例外なく森林が消滅しています。~つまり、現在の日本の森林は石油に守られているのです。石油への依存をやめればあっと言う間に森林が消滅し、日本は不毛の地になるでしょうね。”



◇化学肥料は人間にやさしい

“敗戦とともに米軍が日本に進駐して来ましたが、日本人の寄生虫保有率に驚き、化学肥料のみを用いて栽培された野菜しか兵士に食べさせなかったそうです。
日本人が寄生虫から解放された大きな理由が、化学肥料の普及です。”



最後にブログ主は

“デメリットのみに目を向けて、現代文明は環境及び人間に優しくないと言い立てるのは早計です。もちろん、私が今回述べたようなメリットのみに目を向けるのも同様に避けるべきです。何事も損得勘定が大事だと言えましょう。”


と締めくくってます。このような一般的に悪とされるものを一連の理にかなった逆説でまとめるのがとても興味深い。
もちろん上記がすべて真実なのかわかりませんが、それでも凝り固まった一方的な概念に疑念を呈するのは何時何事においても大事なことだと思うわけです。


『四畳半王国見聞録』森見登美彦

2015-05-08 | 読書

内容(「BOOK」データベースより)
数式による恋人の存在証明に挑む阿呆。桃色映像のモザイクを自由自在に操る阿呆。心が凹むと空間まで凹ませる阿呆。否!彼らを阿呆と呼ぶなかれ!狭小な正方形に立て篭もる彼らの妄想は壮大な王国を築き上げ、やがて世界に通じる扉となり…。徹底して純粋な阿呆たち。7つの宇宙規模的妄想が、京の都を跋扈する。



この表紙が素敵でしょ!

至高の名作『四畳半神話大系』の続編かとばかり思ってたら、繋がりがなくもない程度でこれはこれでひとつの宇宙なのですね。歪んだ宇宙だけど。

「諸君!諸君と言っても誰もいないのだが、しかし余は断じて諸君と呼びかけよう。」


という冒頭、この一文がこの本全体をそして森見を端的に表現してはいまいか。格調高いが基本アホという。

物語としてはどうかと思うけどw
相変わらずの独自の感性と文体、ぼく好みの作家と断言して憚らないわけです。「僕好み」はあまり一般的とは言えないので人には勧めないようにしてますが。

先月ケルンさんが京都で森見登美彦サイン会に参加し言葉をかわしてきたと聞いて激しく羨ましく悔しくたまらなくなって、すかさず読みだしたものです。

しかしこれは今まで以上に度を超えてオタクな鬱的な内容で、ちょっと病的に過ぎる面も伺える、読んでるうちにだんだん怖くなってきたし。
森見さん、本音出しすぎたんじゃないかとw


一即多(仏教覚書き)

2015-05-05 | 歴史
南都六宗のひとつ華厳宗に<一即多>という思想があります。

ここに一つの米粒があるとする。
それ自体は宇宙の存在に比べれば実に他愛のないもののように思えるが、よく考えてみれば太陽の恵み・大地の恵みによって生まれたかけがえの無いものである。

しかもそれが目の前にあるということは収穫・脱穀ののち梱包・輸送等を経て運ばれてきた、つまり沢山の人の文明の営みがそのひと粒に集約されているといえよう。

これが「1」が同時に「多」である、「多」が「一」であるという思想=一即多である。

この世の出来事は一即多であるゆえ無限に絡み合って次々に新しい結果を生むことになる。

この世界において完全に他から独立したものはない。ゆえにすべての悩み・迷いも悟りにどこかでつながっている。悟りにつながらない悩みはないのである。したがってあらゆる人間が悟りを開く素質を持っていることになる。

例によって『逆説の日本史』から抜粋しましたが(第六巻中世神風遍)、この話が妙に心に引っかかるので引用しました。

ちなみに鎌倉仏教を説明する前段階で「そもそもの仏教」を説明する箇所での一節です。

あたりまえのことなんだけど、なんだろう、哲学でありながら物理学での「時空の成り立ち」みたいな、とんでもなく宏大深遠なイメージを抱かせてくれます。

この華厳宗の宇宙論を象徴する仏が「盧遮那仏(るしゃなぶつ)」、東大寺の大仏がまさにそれ。

これ以外にも<色即是空>の話も興味深くて、要するに「0」の概念なんですけど、この世のすべての物質的存在は「空」(=実体がない)であり、実体がないものこそ物質的存在なのである、という量子力学的アプローチをいにしえの宗教家が唱えていたことに軽い興奮を覚えます。

まあ、実生活になんも役に立たないのですけどw


優柔不断です

2015-05-02 | 雑記
「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ
ちきりんの日記2013-11-23


日頃楽しみに読んでいる「ちきりんの日記」の中の過去記事です。
抜粋します。

“一番つまらないのは、

「Aともいえるが、Bともいえる」

みたいな意見です。

「大企業が合う人もいるし、合わない人もいる」
「学校が役にたつかどうかは、人によって違う」
「そういう場合もあるが、例外もゼロではない」

そりゃーそうでしょ。そんなことなら 1秒たりとも考えなくても言える。まさに思考しない人の発言です。
てか、そもそも、それって言う意味ある?”



ああ耳が痛い、これはまさしくぼくのことじゃないかw
更に手厳しく続きます。

“最悪なのは、「Aの場合もあるが、Bの場合もある」とか言ってる本人が、
「オレの意見は客観的だ」

と考えてたりすることです。コレ、本当にタチが悪い。
それ、客観的なのではなくて、単に、

「決断できない人間である」
「選べない人間である」
「自分の意見を持てない人間である」

ってだけのことです。”



だけどさあ、実際「AでもあるがBでもある」場合って頻繁にあるじゃん?軽々に結論を急がず、状況をよく精査して決断しようという姿勢は必要なのじゃないすか?

“「AともいえるがBともいえる」みたいな言い方をする人の多くは、自分の意見さえ持てないくせに、「ちょっと賢そうなことを言いたい」と思ってます。”



ちきりんさんらしい切れ味鋭い見事なほど「どっちつかず要素」ナシの記事ですが、これはどうかね

科学的見地から発言するなら「どちらの可能性も」というのはむしろ基本姿勢だし、それだからって決断しないわけじゃなく「このような混沌とした状況だ」と認識しその上で「Aを選ぶ」とかしてるわけでしょ?
「どちらとも言える」なんて無意味な答えを聞いてねえ!ってのもわかるのだけど、まず「あらゆる可能性を配慮する」って大事なことではないか。

と、結局「AともいえるがBともいえる」みたいなブログ記事になってしまうのでした。これはもう治せないねw

まあこんな具合に、その都度賛否はありますが、様々に論議を呼ぶ記事が多いブログで面白いですよ=ちきりんの日記。