今日は観世会の先代ご宗家のお追善能で、関根祥六師による秘曲『朝長』懺法を拝見してきました。
後シテはなんと観世宗家秘蔵の足利義政公拝領の「懺法」専用の「竹屋町単法被」。しかしそれが紺地(に見えるが濃萌黄とのこと)であるのに今回はやや薄い印象の萌黄地。「懺法法被」の「写し」でしょうか。いずれにしても贅沢なもので、祥六師の意気込みも伝わって、すばらしい舞台でした。
今回の「懺法」では、太鼓の金春国和師が大役の任を果たされましたが、特筆すべきは「後のお調べ」でした。「懺法」はどのお役にとっても大変な小書ですが、わけても太鼓方にとっては最高の秘事で、楽屋でも舞台でもたいへん厳しい決まり事があります。
(以下は本来秘事で、公開されない原則なのですが、過去に演者自身によって雑誌・書籍などですでに開陳されたものに限って、その要約を記します。このような秘伝の類は、楽屋などで聞き知った事を勝手に公開する事は許されないので、ぬえはいつも上記のスタンスで書き込んでいることをご承知おきください)
・「懺法」の時は当日鏡の間に屏風立て太鼓の間を作り用意の全てを秘す。また
「後のお調べ」がある故、舞台に出る前には調べをせず。
・太鼓方舞台に出る時は実際には打たない替えの太鼓を持って出、これを「見せ
皮」と呼称す。
・ワキ真の名宣となる。前シテ木の葉持たず数珠のみとなる。
・ワキ宝生は真の名宣となるも、心は行の名宣にて致すべし、と言う。
・「懺法」のときは「三世十方ノ出」と言って、地謡の中に囃子の特殊な手組が
入る。
・中入に太鼓後見、懴法太鼓を袱紗に包み持ち出、「見せ皮」と替える。アイ語
のあとワキ「大崩之語」となる。但し下宝生にては「語」と称し、番組に明記
せず。この語りの時、囃子方は正面に向く(ほかに例なし)。
・待謡は、ワキ正先(やや脇座寄り)へ出、経巻開き観音懴法読み、そのまま
待謡となる(終わりは独吟となる)。ワキツレ二人はワキの左右少し下がって
合掌し居る。
・待謡はツヨ吟をヨワ吟に替えるという。下宝生は常にヨワ吟。
・後シテの謡「あら尊の弔ひやな」を「あら尊の懴法やな」と替え、ワキは下に
居て合掌する。
※今回は「あら尊の懺法やな」とワキは経巻を開き、シテは下居て合掌し、
それを拝する型。
・懴法、金春太鼓はシテ柱を受けて打つ。<手組などの詳細は割愛>シテは半幕
にて姿を見せ、ワキ・ワキツレ座に戻る。間は切戸より引く。大小鼓も加わり
半幕を下ろす。太鼓刻・笛吹き出してシテ出、三之松にて正面ウケ見込み、
刻止まる。再び太鼓・大小打ち出し、刻となりて歩み、一之松にて止まる。
再び打ち出し太鼓後見 太鼓をずらしながら正面に向ける。囃子速まりて舞台
へ入り謡い出す。以下替わらず。
・クリサシに太鼓後見 太鼓を締める。留め拍子済みて囃子方引くとき、太鼓
のみ三之松にて止まり正面ウケて座し「後のお調べ」(六つ打つ)をする。
あと太鼓方本幕にて引く。
・懴法太鼓は太鼓の間にて袱紗に包み封印して副後見 番をする。中入に本後見
持ち出で本役に渡し、本役舞台上で封印を切る。昔は打ち終わって再び「見せ
皮」と替え、懴法太鼓は太鼓の間にて本後見が締め上げ、本役は見せ皮を
持って幕に入り、太鼓を持ち替え三之松に再び出て調べたとのこと。
今回も舞台上の進行はほぼ上記の通りでした。
また上記は今回上演された金春流の太鼓の場合で、観世流の太鼓はまた少し違う点もありますが今回は触れません。
とにかく大変な小書で、今回は太鼓の本役・金春国和師をサポートする本後見を金春惣右衛門師、副後見を若手の梶谷英樹くんが勤められました。
梶谷くんは副後見として、後シテの上歌「あれはとも」以下のところで、「後のお調べ」のために懺法を打った太鼓をさらに舞台上で締め上げていましたが、これは大変な心労のお役だったでしょう。なんせ舞台上ではシテをはじめみなさんが上演中。その邪魔にならないように締め上げなければならないし、ましてや締め上がりの具合を確かめる術もない。上演中ですから試し打ちをしてみる、なんてことは不可能なわけで、すべて師匠の後見として楽屋で太鼓を締めている、その長い経験からくる勘だけで締め上げることになるのです。
結果、上演が終わり三之松で振り返って正面に向いて座した国和師が「後のお調べ」を打たれると。。「テン!」と、張りのある調子が! ぬえがこれまで拝見した「懺法」の中でももっとも張りのある調子に締め上がっていたのではなかろうか。陰の大任を立派に果たした梶谷くんにも拍手を送りたいと思います。
後シテはなんと観世宗家秘蔵の足利義政公拝領の「懺法」専用の「竹屋町単法被」。しかしそれが紺地(に見えるが濃萌黄とのこと)であるのに今回はやや薄い印象の萌黄地。「懺法法被」の「写し」でしょうか。いずれにしても贅沢なもので、祥六師の意気込みも伝わって、すばらしい舞台でした。
今回の「懺法」では、太鼓の金春国和師が大役の任を果たされましたが、特筆すべきは「後のお調べ」でした。「懺法」はどのお役にとっても大変な小書ですが、わけても太鼓方にとっては最高の秘事で、楽屋でも舞台でもたいへん厳しい決まり事があります。
(以下は本来秘事で、公開されない原則なのですが、過去に演者自身によって雑誌・書籍などですでに開陳されたものに限って、その要約を記します。このような秘伝の類は、楽屋などで聞き知った事を勝手に公開する事は許されないので、ぬえはいつも上記のスタンスで書き込んでいることをご承知おきください)
・「懺法」の時は当日鏡の間に屏風立て太鼓の間を作り用意の全てを秘す。また
「後のお調べ」がある故、舞台に出る前には調べをせず。
・太鼓方舞台に出る時は実際には打たない替えの太鼓を持って出、これを「見せ
皮」と呼称す。
・ワキ真の名宣となる。前シテ木の葉持たず数珠のみとなる。
・ワキ宝生は真の名宣となるも、心は行の名宣にて致すべし、と言う。
・「懺法」のときは「三世十方ノ出」と言って、地謡の中に囃子の特殊な手組が
入る。
・中入に太鼓後見、懴法太鼓を袱紗に包み持ち出、「見せ皮」と替える。アイ語
のあとワキ「大崩之語」となる。但し下宝生にては「語」と称し、番組に明記
せず。この語りの時、囃子方は正面に向く(ほかに例なし)。
・待謡は、ワキ正先(やや脇座寄り)へ出、経巻開き観音懴法読み、そのまま
待謡となる(終わりは独吟となる)。ワキツレ二人はワキの左右少し下がって
合掌し居る。
・待謡はツヨ吟をヨワ吟に替えるという。下宝生は常にヨワ吟。
・後シテの謡「あら尊の弔ひやな」を「あら尊の懴法やな」と替え、ワキは下に
居て合掌する。
※今回は「あら尊の懺法やな」とワキは経巻を開き、シテは下居て合掌し、
それを拝する型。
・懴法、金春太鼓はシテ柱を受けて打つ。<手組などの詳細は割愛>シテは半幕
にて姿を見せ、ワキ・ワキツレ座に戻る。間は切戸より引く。大小鼓も加わり
半幕を下ろす。太鼓刻・笛吹き出してシテ出、三之松にて正面ウケ見込み、
刻止まる。再び太鼓・大小打ち出し、刻となりて歩み、一之松にて止まる。
再び打ち出し太鼓後見 太鼓をずらしながら正面に向ける。囃子速まりて舞台
へ入り謡い出す。以下替わらず。
・クリサシに太鼓後見 太鼓を締める。留め拍子済みて囃子方引くとき、太鼓
のみ三之松にて止まり正面ウケて座し「後のお調べ」(六つ打つ)をする。
あと太鼓方本幕にて引く。
・懴法太鼓は太鼓の間にて袱紗に包み封印して副後見 番をする。中入に本後見
持ち出で本役に渡し、本役舞台上で封印を切る。昔は打ち終わって再び「見せ
皮」と替え、懴法太鼓は太鼓の間にて本後見が締め上げ、本役は見せ皮を
持って幕に入り、太鼓を持ち替え三之松に再び出て調べたとのこと。
今回も舞台上の進行はほぼ上記の通りでした。
また上記は今回上演された金春流の太鼓の場合で、観世流の太鼓はまた少し違う点もありますが今回は触れません。
とにかく大変な小書で、今回は太鼓の本役・金春国和師をサポートする本後見を金春惣右衛門師、副後見を若手の梶谷英樹くんが勤められました。
梶谷くんは副後見として、後シテの上歌「あれはとも」以下のところで、「後のお調べ」のために懺法を打った太鼓をさらに舞台上で締め上げていましたが、これは大変な心労のお役だったでしょう。なんせ舞台上ではシテをはじめみなさんが上演中。その邪魔にならないように締め上げなければならないし、ましてや締め上がりの具合を確かめる術もない。上演中ですから試し打ちをしてみる、なんてことは不可能なわけで、すべて師匠の後見として楽屋で太鼓を締めている、その長い経験からくる勘だけで締め上げることになるのです。
結果、上演が終わり三之松で振り返って正面に向いて座した国和師が「後のお調べ」を打たれると。。「テン!」と、張りのある調子が! ぬえがこれまで拝見した「懺法」の中でももっとも張りのある調子に締め上がっていたのではなかろうか。陰の大任を立派に果たした梶谷くんにも拍手を送りたいと思います。
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