とすれば、ツレは前シテと一緒に山を下ってきた同僚なのではなく、ましてやシテと考えを共有してワキに主張したのでもない。彼らは山から下りてきた草刈男の群像なのであって、現実のそれらは、ワキの目には あちらの峠道やこちらの沢づたいを通る個人の姿として映っている、その総合体なのでしょう…それら実在の草刈男たちの中には、ある者はワキに目をとめる事もあるかもしれないけれども、彼は直実を見て「ん…?なんだ?こんな所にお坊さんが…」と その姿を見とがめたかもしれないけれど、それ以上には関心を持たずに家路を急ぐために言葉も交わさずに去ってしまっていたでしょう。
また前シテがワキと出会う前に謡う一連の謡が 卑しい身分の侘びた生活を嘆く内容であるのも、平家の公達の化身が嘆いているのではなくて、これら群像としての草刈たちの詠嘆であって、これをシテが同吟するのは、こういった場面の中に混じり込んでいては異質であるべき公達の化身が、あたかも彼らに同化しているように存在している、という表現でしょう。
こうしているうちにワキの目の前に一人の草刈男が足を止めます。ワキはチャンスを得て、今しがた聞いた笛について、この「一人の」草刈男に質問をしたのです。前シテはツレと一緒に山を下ってきたのではないのですが、ここはそれ、やはり笛を吹いていたのは化身としての前シテ本人でしょう。とすれば ぬえは、その笛の音は現実には響いていなかったのではないか? と思います。ワキ一人の耳に響いた笛の音。それこそ化身である敦盛が直実の耳にだけ聞かせ、そうしてそれによって直実に不審を抱かせて前シテを呼び止めさせる…そんな意図があったものではないか? と考えています。
ともあれ、初同のうちにツレは退場してシテのみが居残り、それをワキが不審します。このあたりまでの『敦盛』の情景は、能『求塚』に構想がよく似ていますね。『求塚』は観阿弥が作ったとされる古曲なので、観阿弥の子である世阿弥がその作例を手本にした、とも考えられるわけですが…ところが『求塚』は観阿弥が作詞作曲した謡物を基にして世阿弥が書き上げた、という説もあるのです。ぬえはこの説に賛成しているのですが、もう少し突っ込んで考えて、世阿弥の作であることが確実視されている『敦盛』は、彼の若い頃の作品だと ぬえは思っているので、それから類推すれば『求塚』は『敦盛』と同じような時期、少なくとも『敦盛』のすぐあとに世阿弥によって書かれた作品なのではないか、という感触を持っています。『求塚』は『敦盛』よりも ずうっと凄惨な内容を持った暗い曲ではありますが、どうも『砧』(世阿弥の後期か晩年の作)と比べれば人間洞察の力に、少し「若さ」を感じるのですよね… 観世流では「重習」という大切に扱われる曲なのではありますが、世阿弥の作であるならば、割と彼の若い頃の作品の一つなのではないかなあ? と ぬえは考えています。
でもまた そう考えると、『敦盛』に見える作の「若さ」というものが決して世阿弥の未熟を意味しない、という事も見えてきます。『敦盛』の後ろには『求塚』の「運命」の物語が投影されていることになるわけですから… 十六歳という、まだ人生も半ばどころではない時に唐突な死を迎えた平敦盛を描く能『敦盛』に、世阿弥は意図的に、曲に「軽さ」を加味するように作ったのかも。そうであるならば、世阿弥は ぬえが考える以上に恐ろしいほどの才能を持った人物、ということになるのですが…
ワキ「いかに申し候。ただ今の草刈達は皆々帰り候に。御身一人残り給ふ事。何の故にてあるやらん。
シテ「何の故とか夕波の。声を力に来りたり。十念授けおはしませ。
ワキ「十念をば授け申すべし。それにつけてもおことは誰そ。
シテ「まことは我は敦盛の。ゆかりの者にて候なり。
ワキ「ゆかりと聞けば懐かしやと。掌を合はせて南無阿弥陀仏。
シテ・ワキ「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。
また前シテがワキと出会う前に謡う一連の謡が 卑しい身分の侘びた生活を嘆く内容であるのも、平家の公達の化身が嘆いているのではなくて、これら群像としての草刈たちの詠嘆であって、これをシテが同吟するのは、こういった場面の中に混じり込んでいては異質であるべき公達の化身が、あたかも彼らに同化しているように存在している、という表現でしょう。
こうしているうちにワキの目の前に一人の草刈男が足を止めます。ワキはチャンスを得て、今しがた聞いた笛について、この「一人の」草刈男に質問をしたのです。前シテはツレと一緒に山を下ってきたのではないのですが、ここはそれ、やはり笛を吹いていたのは化身としての前シテ本人でしょう。とすれば ぬえは、その笛の音は現実には響いていなかったのではないか? と思います。ワキ一人の耳に響いた笛の音。それこそ化身である敦盛が直実の耳にだけ聞かせ、そうしてそれによって直実に不審を抱かせて前シテを呼び止めさせる…そんな意図があったものではないか? と考えています。
ともあれ、初同のうちにツレは退場してシテのみが居残り、それをワキが不審します。このあたりまでの『敦盛』の情景は、能『求塚』に構想がよく似ていますね。『求塚』は観阿弥が作ったとされる古曲なので、観阿弥の子である世阿弥がその作例を手本にした、とも考えられるわけですが…ところが『求塚』は観阿弥が作詞作曲した謡物を基にして世阿弥が書き上げた、という説もあるのです。ぬえはこの説に賛成しているのですが、もう少し突っ込んで考えて、世阿弥の作であることが確実視されている『敦盛』は、彼の若い頃の作品だと ぬえは思っているので、それから類推すれば『求塚』は『敦盛』と同じような時期、少なくとも『敦盛』のすぐあとに世阿弥によって書かれた作品なのではないか、という感触を持っています。『求塚』は『敦盛』よりも ずうっと凄惨な内容を持った暗い曲ではありますが、どうも『砧』(世阿弥の後期か晩年の作)と比べれば人間洞察の力に、少し「若さ」を感じるのですよね… 観世流では「重習」という大切に扱われる曲なのではありますが、世阿弥の作であるならば、割と彼の若い頃の作品の一つなのではないかなあ? と ぬえは考えています。
でもまた そう考えると、『敦盛』に見える作の「若さ」というものが決して世阿弥の未熟を意味しない、という事も見えてきます。『敦盛』の後ろには『求塚』の「運命」の物語が投影されていることになるわけですから… 十六歳という、まだ人生も半ばどころではない時に唐突な死を迎えた平敦盛を描く能『敦盛』に、世阿弥は意図的に、曲に「軽さ」を加味するように作ったのかも。そうであるならば、世阿弥は ぬえが考える以上に恐ろしいほどの才能を持った人物、ということになるのですが…
ワキ「いかに申し候。ただ今の草刈達は皆々帰り候に。御身一人残り給ふ事。何の故にてあるやらん。
シテ「何の故とか夕波の。声を力に来りたり。十念授けおはしませ。
ワキ「十念をば授け申すべし。それにつけてもおことは誰そ。
シテ「まことは我は敦盛の。ゆかりの者にて候なり。
ワキ「ゆかりと聞けば懐かしやと。掌を合はせて南無阿弥陀仏。
シテ・ワキ「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。
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