ぬえの能楽通信blog

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伊豆で子ども能初稽古~謡初め~初詣(その2)

2011-01-28 11:22:16 | 能楽
で、そのあとは守山八幡宮を抱く守山に登ってみました。小さな山なんだけど、登るのは結構キビシイとは聞いたことがありましたが、たしかに少々きつい山道ですね~。

で、山頂から見た景色がこちら!



伊豆というところは山ばかりですけれども、このあたりだけは「田方平野」といって三島から大仁あたりまで平野が広がっています。向かい側に見える山稜を越えると伊東など東伊豆方面ですが、その山が始まるところに平家の目代だった山木兼隆が屋敷を構えていました。平治の乱のあとこの伊豆に流罪になった頼朝は当時14歳。その後20年を過ごした伊豆では地元豪族の歓待を受けて、割とのんびりと暮らしていたようですが、治承4年(1180)、高倉宮(以仁王)の宣旨を受けてついに平家討伐のために挙兵したのでした。

その第一目標が山木兼隆。この画像では眼下に守山に抱かれて北條の舘がありましたから、そこから出発した頼朝軍はすぐ目の前の山木館を攻撃したことがわかります。直線距離にして2~3kmしかないんじゃないかなあ。

8月17日の決行当夜は三島大社の夏の祭礼の日にあたり、山木館の郎党が参詣に出払った隙を突いて頼朝は奇襲攻撃を掛けたのですが、『吾妻鏡』や『源平盛衰記』にはこの挙兵についていろいろと逸話が残されていて興味深いです。

いわく、奇行で知られる僧・文覚が道ばたに落ちていた髑髏を頼朝の父・義朝の遺骨だと言って頼朝に見せて頼朝に挙兵を決意させようとしたり、同じく文覚は、なおも挙兵を渋る頼朝のために伊豆から1週間で都(当時は福原)に駆けつけて後白河法皇から院宣を取りつけたり。

挙兵を決意した頼朝は数少ない手勢を各地の豪族に派遣して、加勢を呼び掛けたのですが、派遣を前にして有力な郎党を一人ひとり居室に呼んで「お前だけを信頼している」とそれぞれに言ったり。

はたまた、挙兵の当夜に派遣された佐々木兄弟が舘に帰らず、頼朝は佐々木の裏切りと計画の発覚を恐れましたが、周囲から決行の延期を勧められると、翌18日には幼少の頃から観音像を祀る習慣を変えたくない、と反対したり。

史実はともかく、面白い話がたくさんあって興味は尽きないです。またこうやって現地を見ると、その時の状況がよくわかります。いや、面白いですよ。たとえば北條の居館は遺構が発見されて現在発掘調査中です。



ここに立ってみると不思議な事を発見。伊豆から大きく見える富士山が、なぜか北條居館からは見えないのです。狩野川をはさんで対岸に小さな山があって… どうしてこの地に居館を定めたのでしょうかね? 守山のを背にした場所で、居館を築くには防備には有利な地形だとは思いますが、そういう地形はほかにもあると思うし。


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