シテは「山の端の。。」の歌を一之松で謡うと、次いで以下のように謡いながら舞台常座に歩み行きます。
シテ「巫山の雲は忽ちに。陽台のもとに消えやすく。湘江の雨はしばしばも。楚畔の竹を染むるとかや。
言葉の意味が難しいですね。総じて『夕顔』の詞章は難解ですが。。ここの「巫山の雲。。」というのは楚国の懐王が巫山で見た夢の中で神女と愛し合い、神女は「旦(あした)には朝雲と為り、暮には行雨と為りて、朝朝暮暮、陽台の下におらん」と王の側に寄り添うことを誓った、という故事。「湘江の雨は。。」は、古代中国の伝説的な名君・舜が亡くなったとき、妃の娥皇と女英の二人が悲しんで湘江に身を投げ、彼女たちの涙雨がかかったため、斑竹の表面には斑紋があるというお話です。
どちらも女性からのひたむきな愛情を表すお話ではありますが、『夕顔』で「巫山の雲」が「陽台のもとに消えやすく」となっているのは、源氏との愛を全うできずに死を迎えた彼女の運命の故に、「雲」を移ろいゆくものの象徴として捉えて、本来の意味とは変えて、この文章の全体の意味としては恋の破綻の悲しみを謡っていることになります。
いずれにせよシテが一之松で謡う「山の端の。。」和歌は、ワキの言う「あの屋端より。女の歌を吟ずる声の聞え候」という心でしょうし、その後「巫山の。。」と謡いながら舞台に入るのは、彼女の独白でしょうし、そうしながら、どこからともなく聞こえた歌の主が ワキの前に姿を見せた、という意味でしょう。しかし実際には橋掛リを歩んでくるシテの姿からは、家の軒で歌うという風情はわかりにくいかもしれませんね。
そこで、この場面を視覚的に表現する演出として「山ノ端之出」という小書があります。この小書のときは能の冒頭に藁屋の作物を大小前に出し、前シテはその中に入っています。ワキとワキツレは道行の終わりに脇座へ行き立居、そこにシテが「山の端の。。」と謡い出して、これを聞いたワキは作物に向き「不思議やな。。」と謡う、という趣向で、ほかにもシテが「巫山の雲は。。」をこのワキの謡のあとに謡ったり、上歌「つれなくも。。」は地謡が謡ったり、と常の演出と比べて違いはいくつかありますが、要するに「家の中から歌が聞こえてくる」というワキの言葉に視覚的に合う演出でしょう。
もっとも、シテが作物に入って登場するとなると、今度はその作物から出てくるタイミングが難しくなりますね。「山ノ端之出」ではクリで作物を出ることになっていますが、能『夕顔』は居グセの曲ですから、作物から出たシテは数歩前に出ると再び着座することになります。ただでさえ動きが少ない能ですから、少なくとも橋掛リを歩むことがない分だけでも、この小書ではさらに動きが少なくなることになりますが。。
シテは舞台常座に止まるとなおサシ、下歌、上歌を謡います。
シテ「此処は又もとより所も名も得たる。古き軒端の忍草。忍ぶ方々多き宿を。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院とばかり。書き置きし世は隔たれど。見しも聞きしも執心の。色をも香をも捨てざりし。
シテ「涙の雨は後の世の。障りとなれば今もなほ。
シテ「つれなくも。通ふ心の浮雲を。通ふ心の浮雲を。払ふ嵐の風の間に。真如の月も晴れよとぞ空しき空に。仰ぐなる空しき空に仰ぐなる。
「忍ぶ方々多き宿」とは。。まるで人目を忍ぶ恋をする人々がしばしば利用する邸であるかのように読めてしまいますが、この場合の「方々」は「さまざま」という意味でしょうね。「忍ぶ」を「偲ぶ」と考えれば、後にシテがこの邸が源融の「河原院」だ、と言うので、「さまざまな昔の栄華の有様が想像される場所」という解釈もできそうですが、「様々に忍ぶ恋のいわれがあった所」と読めば。。すなわち源氏と夕顔上の逢瀬とその後の夕顔の急死という、この能が描く事件が観客に最初に暗示されてるのであろうかと思います。
シテは続けて、「紫式部が”何某の院”と書いた場所ではあるけれど、それも遠い昔の話。しかし(それを実際に体験した私=夕顔=が)見聞きした、その恋の色香をも忘れることができない」と、現れた女が成仏できていない夕顔であることを暗示します。
「涙の雨。。」は、その恋の執心のために後生。。後の世に至る、その生涯となって、今も。という意味。
「つれなくも」は、「素っ気ない」という意味ではなく「変化がない」で、「今も昔のように(源氏との逢瀬を忘れられずにこの場所に)通っている自分の心が憂いに思う。そんな浮雲のような心に強い風が吹いて妄執を吹き払ってくれ、仏の悟りを表す月が現れてください、と願って虚しく空を眺めています」。。というような意味です。ああ、難解な詞章だ。。
これらの独白が終わったところでワキはシテに声を掛けます。
ワキ「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。
シテ「此方の事にて候か何事にて候ぞ。
ワキ「さてこゝをば何処と申し候ぞ。
シテ「これこそ何某の院にて候へ。
ワキ「不思議やな何某の山何某の寺は。名の上のたゞ仮初めの言の葉やらん。又それをその名に定めしやらん承りたくこそ候へ。
シテ「さればこそ初めより。むつかしげなる旅人と見えたれ。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院と書きて。その名をさだかに顕はさず。然れども此処は古りにし融の大臣。住み給ひにし所なるを。その世を隔てゝ光君。また夕顔の露の世に。上なき思を見給ひし。名も恐ろしき鬼の形。それもさながら苔むせる。河原の院と御覧ぜよ。
「何某の院」が源融の河原院である、ということは『源氏物語』には明記されておらず、夕顔の邸があった五條の「そのわたり近きなにがしの院」としか書かれていません。これを能『融』でも有名な「河原院」とする説は『源氏物語』の古注に拠るもので、その古注は能が大成された室町期まで遡れるようですから、能『夕顔』の作者はこのような古注の影響の下に能『夕顔』を作ったのでしょう(現在までの研究では特定するまでに至っていないので”作者不明”。。従って能『夕顔』の成立年代も確定はされていませんが。。)
河原院を作った源融は、紫式部よりは100年近く昔の人で、光源氏のモデルと考えられています。融は嵯峨天皇の皇子で臣籍降下して源姓を賜りました。頼朝などとは別系の「嵯峨源氏」で、この家系は名前が一文字であることが特徴です。歌人の「源順(みなもとのしたごう)」や、頼光の四天王と呼ばれた渡辺綱などもみな名は一字ですね。風流人だった源融の行状が光源氏のモデルとなった、というような曖昧な印象ではなく、源光という名前が嵯峨源氏を想定したものであったのはおそらく間違いのないところでしょう。
その融が作った壮大な邸宅・河原院はいまの甲子園球場の2倍近い広さがあったそうで、融の死後は維持が難しく、いくばくもなく荒廃してしまい、『今昔物語』では物の怪が住む廃墟として描かれています。紫式部が河原院の廃墟を見たのかどうかはわかりませんが、河原院は六條にあり、夕顔が住んでいた家は五條にあったという設定ですから、「そのわたり近きなにがしの院」とも符合します。重ねて言えば『源氏物語』の中で、これは夕顔巻からはずっと後のことですが、光源氏が構えた邸宅が「六條院」。。あながち『源氏物語』の古注の説が間違いとは言い切れないのかもしれません。
シテ「巫山の雲は忽ちに。陽台のもとに消えやすく。湘江の雨はしばしばも。楚畔の竹を染むるとかや。
言葉の意味が難しいですね。総じて『夕顔』の詞章は難解ですが。。ここの「巫山の雲。。」というのは楚国の懐王が巫山で見た夢の中で神女と愛し合い、神女は「旦(あした)には朝雲と為り、暮には行雨と為りて、朝朝暮暮、陽台の下におらん」と王の側に寄り添うことを誓った、という故事。「湘江の雨は。。」は、古代中国の伝説的な名君・舜が亡くなったとき、妃の娥皇と女英の二人が悲しんで湘江に身を投げ、彼女たちの涙雨がかかったため、斑竹の表面には斑紋があるというお話です。
どちらも女性からのひたむきな愛情を表すお話ではありますが、『夕顔』で「巫山の雲」が「陽台のもとに消えやすく」となっているのは、源氏との愛を全うできずに死を迎えた彼女の運命の故に、「雲」を移ろいゆくものの象徴として捉えて、本来の意味とは変えて、この文章の全体の意味としては恋の破綻の悲しみを謡っていることになります。
いずれにせよシテが一之松で謡う「山の端の。。」和歌は、ワキの言う「あの屋端より。女の歌を吟ずる声の聞え候」という心でしょうし、その後「巫山の。。」と謡いながら舞台に入るのは、彼女の独白でしょうし、そうしながら、どこからともなく聞こえた歌の主が ワキの前に姿を見せた、という意味でしょう。しかし実際には橋掛リを歩んでくるシテの姿からは、家の軒で歌うという風情はわかりにくいかもしれませんね。
そこで、この場面を視覚的に表現する演出として「山ノ端之出」という小書があります。この小書のときは能の冒頭に藁屋の作物を大小前に出し、前シテはその中に入っています。ワキとワキツレは道行の終わりに脇座へ行き立居、そこにシテが「山の端の。。」と謡い出して、これを聞いたワキは作物に向き「不思議やな。。」と謡う、という趣向で、ほかにもシテが「巫山の雲は。。」をこのワキの謡のあとに謡ったり、上歌「つれなくも。。」は地謡が謡ったり、と常の演出と比べて違いはいくつかありますが、要するに「家の中から歌が聞こえてくる」というワキの言葉に視覚的に合う演出でしょう。
もっとも、シテが作物に入って登場するとなると、今度はその作物から出てくるタイミングが難しくなりますね。「山ノ端之出」ではクリで作物を出ることになっていますが、能『夕顔』は居グセの曲ですから、作物から出たシテは数歩前に出ると再び着座することになります。ただでさえ動きが少ない能ですから、少なくとも橋掛リを歩むことがない分だけでも、この小書ではさらに動きが少なくなることになりますが。。
シテは舞台常座に止まるとなおサシ、下歌、上歌を謡います。
シテ「此処は又もとより所も名も得たる。古き軒端の忍草。忍ぶ方々多き宿を。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院とばかり。書き置きし世は隔たれど。見しも聞きしも執心の。色をも香をも捨てざりし。
シテ「涙の雨は後の世の。障りとなれば今もなほ。
シテ「つれなくも。通ふ心の浮雲を。通ふ心の浮雲を。払ふ嵐の風の間に。真如の月も晴れよとぞ空しき空に。仰ぐなる空しき空に仰ぐなる。
「忍ぶ方々多き宿」とは。。まるで人目を忍ぶ恋をする人々がしばしば利用する邸であるかのように読めてしまいますが、この場合の「方々」は「さまざま」という意味でしょうね。「忍ぶ」を「偲ぶ」と考えれば、後にシテがこの邸が源融の「河原院」だ、と言うので、「さまざまな昔の栄華の有様が想像される場所」という解釈もできそうですが、「様々に忍ぶ恋のいわれがあった所」と読めば。。すなわち源氏と夕顔上の逢瀬とその後の夕顔の急死という、この能が描く事件が観客に最初に暗示されてるのであろうかと思います。
シテは続けて、「紫式部が”何某の院”と書いた場所ではあるけれど、それも遠い昔の話。しかし(それを実際に体験した私=夕顔=が)見聞きした、その恋の色香をも忘れることができない」と、現れた女が成仏できていない夕顔であることを暗示します。
「涙の雨。。」は、その恋の執心のために後生。。後の世に至る、その生涯となって、今も。という意味。
「つれなくも」は、「素っ気ない」という意味ではなく「変化がない」で、「今も昔のように(源氏との逢瀬を忘れられずにこの場所に)通っている自分の心が憂いに思う。そんな浮雲のような心に強い風が吹いて妄執を吹き払ってくれ、仏の悟りを表す月が現れてください、と願って虚しく空を眺めています」。。というような意味です。ああ、難解な詞章だ。。
これらの独白が終わったところでワキはシテに声を掛けます。
ワキ「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。
シテ「此方の事にて候か何事にて候ぞ。
ワキ「さてこゝをば何処と申し候ぞ。
シテ「これこそ何某の院にて候へ。
ワキ「不思議やな何某の山何某の寺は。名の上のたゞ仮初めの言の葉やらん。又それをその名に定めしやらん承りたくこそ候へ。
シテ「さればこそ初めより。むつかしげなる旅人と見えたれ。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院と書きて。その名をさだかに顕はさず。然れども此処は古りにし融の大臣。住み給ひにし所なるを。その世を隔てゝ光君。また夕顔の露の世に。上なき思を見給ひし。名も恐ろしき鬼の形。それもさながら苔むせる。河原の院と御覧ぜよ。
「何某の院」が源融の河原院である、ということは『源氏物語』には明記されておらず、夕顔の邸があった五條の「そのわたり近きなにがしの院」としか書かれていません。これを能『融』でも有名な「河原院」とする説は『源氏物語』の古注に拠るもので、その古注は能が大成された室町期まで遡れるようですから、能『夕顔』の作者はこのような古注の影響の下に能『夕顔』を作ったのでしょう(現在までの研究では特定するまでに至っていないので”作者不明”。。従って能『夕顔』の成立年代も確定はされていませんが。。)
河原院を作った源融は、紫式部よりは100年近く昔の人で、光源氏のモデルと考えられています。融は嵯峨天皇の皇子で臣籍降下して源姓を賜りました。頼朝などとは別系の「嵯峨源氏」で、この家系は名前が一文字であることが特徴です。歌人の「源順(みなもとのしたごう)」や、頼光の四天王と呼ばれた渡辺綱などもみな名は一字ですね。風流人だった源融の行状が光源氏のモデルとなった、というような曖昧な印象ではなく、源光という名前が嵯峨源氏を想定したものであったのはおそらく間違いのないところでしょう。
その融が作った壮大な邸宅・河原院はいまの甲子園球場の2倍近い広さがあったそうで、融の死後は維持が難しく、いくばくもなく荒廃してしまい、『今昔物語』では物の怪が住む廃墟として描かれています。紫式部が河原院の廃墟を見たのかどうかはわかりませんが、河原院は六條にあり、夕顔が住んでいた家は五條にあったという設定ですから、「そのわたり近きなにがしの院」とも符合します。重ねて言えば『源氏物語』の中で、これは夕顔巻からはずっと後のことですが、光源氏が構えた邸宅が「六條院」。。あながち『源氏物語』の古注の説が間違いとは言い切れないのかもしれません。
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